ターゲット1 篠田弓子・伍
「それで、正くんから伝言っていうのは?」
「え!? あー……えっと」
早くも既にボロがでそうになっている私を横目に篠田弓子は堪え切れなくなったように吹き出した。
「もしかして忘れちゃったんですか?」
いや、と否定しようとして「は、はい、そうみたいです……なんだったかな」と時間を稼ぐことを思いついた。
「じゃあ、そこのベンチに座りましょうか。すみません、私が携帯持ってればよかったんですけど……親が煩くて」
むしろ好都合だ。ここで高岸氏に電話されようものなら私のいる意義はないのだから。どう話を転がすか。そもそもこの頃の私には彼女どころか年の近い親しい女性もいないわけで、うまい話の転がし方が浮かぶわけはなく。とにかく【自然に】を意識することにした。
「高岸さんって篠田さんから見てどんな人なんですか?」
「優しい人ですよ。いつも私を心配してくれて……とても頼りにしています」
その優しい人にあんな手紙を送るというのか最近の少女は。恐ろしいものだ。これは演技なのだろうか。高岸氏の前ではどんな表情をするのだろうか。
「でも、数ヶ月会ってないって聞きましたけ」
デデデデーン デデデデーン。まだベートーヴェンである。【運命】である。しかし篠田さんをここに放置するのはよくないと思い、電話をスルーして話続けようと彼女の表情を見た。彼女の表情はおどおどと不安げだ。【運命】は未だに鳴り続けている。
「正くんそんなことまで秋山くんに話したのね……よく相談されるの?」
その発言と同時に右ポケットに入れた携帯が振動をやめた。
「いえ、相談されるのは俺の先輩――」
最後まで言わせずにベートーヴェンである。そろそろでた方がいい気がする。私はそう直感し篠田弓子に「すみません、ちょっとさっきから電話が……友達かな」と言って席を立つ。
『誰が友達だよ』
明らかにキレている声に、私は「ひぃっ!」と震え上がる。そして、数秒考え「え?」と辺りをキョロキョロ見回した。しかし、浅間氏の姿はどこにも見つからない。
『お前にアドバイスした時にカバンにキーホルダー型の盗聴器とGPSが一緒になったやつをつけた。お前らの会話はこちらで全て筒抜けだ。阿呆な会話しやがって』
「あ、え? え?」
『情報を探る奴が情報を探られてどうする? 馬鹿かお前は。俺の名前まで言うつもりじゃないだろうな?』
確かに浅間氏の言う通りだ。この時の私はそれさえわからない愚か者であった。いやまあここで何のミスもなく篠田弓子から情報を引き出せたら才能を確信するが。
「えっと、でも……あの篠田弓子って子、あそこまでするようには……高岸さんのこと頼りにしてるって言ってましたし」
『そうか。……じゃあ他に怪しいところはなかったか。残念ながらターゲットの表情までは見えんのでな』
表情。そうだ、手紙のことを話した時の――。
「あの、その人が正くんの相談によく乗ってる先輩?」
いつの間にか背後に篠田弓子がいた。気配がなかった。いや私は戦闘漫画の主人公ではないのでそういうものはよくわからないが、もう少し、もう少しだけでも足音とか息遣いとかを感じさせてもよかったのではないか。
電話の向こうで浅間氏が『代われ。それと電話中、奴の手首が見えるはずだ。見逃すな』と早口でまくし立てる。電話中の女性の手首をまじまじと見るとはちょっと変態くさいのではないだろうか。
「先輩が君と話したいみたいで」
そう言って当時最新式の携帯電話を渡す。どうあがいても電話中の浅間氏の声が聞こえるわけはないので、篠田弓子の手首に視線を集中させる。しかし、集中しなくても見えてしまった。無数の傷跡だ。自分でつけたのだろうか。これがリストカットという奴か。精神身体ともに健全男子であった私はこれに衝撃を受けた。
そして、篠田弓子の表情を見る。この場で彼女の表情を見ることができるのは私だけだ。
笑っている。笑っている。笑っている。笑っている。その表情に変化はない。心なしか私と話す時より楽しそうだ。いやいや、そんなことを考えている場合ではない。
通話が終わったのか、彼女は携帯をこちらに渡し「いい先輩ですね」とにこやかに笑った。篠田弓子よ、騙されてはいけない。あれは妖怪だ。
「あの、篠田さん。その、跡――」
私が指を指した先には彼女の右手の手首。彼女は「ああ、うん。ちょっとね。嫌なことがあったらやるの」と小さく笑った。痛くないのか、と聞こうとして痛くないわけがないと思い直す。
「秋山くん、あの先輩から聞いたんでしょ? 私が正しくんに送った手紙のこと」
脳裏に大量の長い髪の毛と血のついたカミソリが思い浮かぶ。ん? 長い髪の毛? 長い髪の毛――んん? 目の前の少女の姿を見る。どう見ても長い髪の毛ではない。首にかかるかかからないくらいの髪だ。じゃああの髪の毛は誰の――。
『絶対はない』
『対象に勝つ必要はない』
『常に考えろ』
「あの髪の毛も血もね、私のじゃないの。文字も私のじゃないの。私の中のお姉ちゃんがね、正くんに嫌がらせをするの。お姉ちゃんが全部悪いの……」
篠田弓子は幼い少女のような声色と目でそう小さく言った。