妖精のお遣い
王都について、3ヶ月が過ぎた。
今、私と魔王様は妖精族の王妃殿下の伝手で用意された邸宅に住んでいる。お屋敷はとても立派で部屋もたくさんあるし庭も広いけれど、この屋敷にいるのは2人だけなのでとてもひっそりとしている。
家事とか雑事とか、こまごましたことは、魔王様が魔法で片付けているようだ。
魔王様のスパルタな指導はずっと続いてて、おかげで私は基本的な読み書きをマスターすることができた。たぶん、普通レベルのマナーもなんとかなると思うし、お屋敷の敷地の走り込みも30周はできるようになった。そこそこ重たいものの持ち運びも平気になった。
……ユルナさんが魔王様は怖いと言ってたけれど、私もそう思う。
「エルよ、少々遣いに出ておいで」
「もしかして、ひとりでですか、魔王様」
「うむ。ここに書いてあるものを受け取ってまいれ。
わたしはエルの魔法の訓練の準備をせねばならぬ。忙しい」
「魔王様、ほんとうに、魔法も練習するんですか?」
「今更何を言っておるのだ。お前は妖精の血を引いているのだから、並の人間よりも余程素質があるのだぞ」
「魔王様……」
「大丈夫だ、任せておれ」
魔王様のスパルタ指導がもっとすごくなるんだ……魔王様、たぶん私が大丈夫じゃないです……。
「ああ、それと、外へ出る時はこれを付けよ」
「魔王様、この腕輪はなんですか?」
「姿変えの魔法をかけてある。これを付ければお前は人間に見えるようになるぞ」
「はあ……」
「これから町へ出る時は必ずこれを付けるように」
「わかりました」
「……どうした、エルよ」
「ひとりで、行くんですよね……」
「うむ。遣いくらいはひとりでこなせるようになれ。いつまでも子供ではおられぬぞ」
「はい……」
* * *
ひとりで町へ出るのは、これが初めてだ。
前のお屋敷では塔から出たあとも敷地の中から出ることは無かった。思えば、魔王様のところへ向かうために初めて外へ出たのだ。よく出られたと今なら思う。
町の中は人がたくさんいて──怖かった。魔王様が一緒の時は怖くなかったのに、今は何故か怖くてしかたなかった。自分は他の人が怖いんだ、と初めて理解した。
そして、紙に書かれた通りと店の名前を見て、途方にくれた。
「どこ……?」
大きな通りからすぐだと魔王様は言ってたけれど、“すぐ”がどれくらいなのかがわからなかった。誰かに聞こうと思っても、誰に聞けばいいのかもわからなかった。
おろおろしていたら声をかけられたけれど、どう応えてよいのかがわからずについ逃げ出してしまった。
そうこうしているうちに、元来た道を見失い、今ここがどこなのかすらもまったくわからなくなってしまった。もう泣きたい。どうしよう、魔王様は呆れるだろうか。魔王様にも役立たずと思われてしまうのだろうか。どうしよう、どうしよう。
どこへ向かったらいいのかすらもわからなくなって、途方に暮れて、とうとう道端に座り込んでしまった。
「どうしたの? 迷子?」
不意に頭の上から声が降ってきた。恐る恐る見上げると、男の人が覗き込んでいた。怖くて動けず、返事もできずに震えていると、男の人はしゃがんで私の視線に合わせてきた。
「怖がらなくてもいいよ。僕はこの地区を担当してる警備兵のクロノワ。お父さんかお母さんとはぐれたのかな? 名前は言える?」
男の人は柔らかく微笑んでそう言ったけれど、どうしても怖くて、私は首を振るばかりで何も返事ができなかった。
「うーん、困ったねえ。ここで座り込んでてもしょうがないから、僕と一緒に詰所に行こうか」
男の人がそっと手を差し出す。けれど、その手をどうしても取ることができなくて……。
「ごめんね、怖がらないでね?」
男の人が私を抱き上げた。何がどうなるのかわからなくて、私は自然に体を強張らせる。
「詰所はすぐだから、少し我慢してね」
* * *
「着ているのは魔法使いのローブだけど、魔法使いには見えないしなあ」
「歳は10か11歳くらい?」
「ええと、名前は? お家の場所はわかる?」
「お父さんかお母さんの名前はわかる?」
詰所に運ばれて、そこにいた警備兵の人たちに、いろいろと質問される、
けれど、私はどうしても声が出ない。警備兵の人はとても優しそうに見えるのだけど、どうしても怖い。
困り果てた警備兵の人たちが、どうしたものかと相談をしている。私はどうなってしまうのだろう。魔王様のところへ帰れるのだろうか。魔王様は、私を見つけてくれるだろうか?
「エルよ、迎えに来たぞ」
不意に、聞きなれた声がした。
魔王様が来た。来てくれた。魔王様の声を聞いて、ようやく私の体から力が抜けた。
「ええと、この子の親?」
「いかにも、親ではないが、そのようなものだ」
警備兵の人が首を傾げて魔王様に尋ねると、魔王様は、いつもの笑顔を浮かべて当然のように答え、私に手を差し出した。そして、私をなだめるように優しく問う。
「ひとりで外に出るのはまだ早かったか? ん?」
「まお、ま……」手を取り、魔王様、と呼ぼうとして、私はうわあんと子供みたいに泣き出してしまった。
「おお、よい、よい。泣くでない。お前はほんとうに歳よりも幼いのだな。それでよくぞわたしのところにまで来たものだ」
魔王様にまるで幼い子供のように抱きあげられて、私はぎゅっとしがみついた。魔王様が、しゃくりあげる私の背中をぽんぽんと叩くので、少し恥ずかしくて魔王様のローブに顔を埋める。けれど、次から次へと涙が出てきて止まらず、泣き続けてしまった。
警備兵の男の人が、肩を竦めているのがちらりと見えた。
「では、わたしの不肖の弟子が世話になった。礼を言う」
その日から、屋敷の私の部屋に王都や王国の地図が置かれ、地図の読み方や地理も教えられるようになった。
魔王様はやっぱりスパルタだ。