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霧森孝司×鈴 『おれにはできない』

 打ちっぱなしのコンクリートの壁に、ぽっかりと正方形に穴がくりぬかれて、換気扇が取りつけられている。埃っぽい薄汚れたファンがカラカラと回り、そこから漏れ出る光が二人の男の姿を交互に照らした。回り続けるハネ部分で、どちらかに影をつくって二人同時に光のもとに晒されることがないのだ。

 床にはカゴから零れたバスケットボールが転がり、器械体操用マットレスが二つ折りにされて乱雑に並べられていた。跳び箱みっつがつくる隙間に、申し訳程度に点数板が押し込められ行き場を無くしていた。めくられすぎてくたびれた点数表示のビニルが換気扇の風でもふわふわと動いていた。

 高校の体育倉庫だった。

 けれども、二人の男たちは――いや、少年たちは――体育着でも、室内競技のユニフォームでもなく、崩れた制服姿だった。

 一人はネクタイを締めずにブレザージャケットを羽織り、腰まで下げたズボンを緩く履き、面倒くさそうに後頭部の髪の毛を掻きむしっている。もう一人はネクタイを締めてはいるものの、ブレザーを羽織らず、ワイシャツを第二ボタンまで開け、インナーとして着た赤いTシャツを見せていた。けだるそうな相手とは打って変わって、彼は眉を吊り上げ肩をいからせていた。


「トシ、てめえ……ふざけんじゃねえぞ……っ! 泣かせるくらいなら、守ってやれないなら、幸せにしてやれないなら、最初から手ぇ出すな!」


 Tシャツの少年は、声を荒げてブレザーの少年――トシに言葉を投げつけた。ストレートな怒号に、不思議とトシの口角が上がった。

 拳を握りしめ肩を震わせる彼は、あるいは同じ温度で感情をぶつけ合う青春物語を望んでいたのかもしれない。だが、トシは彼の望む態度はとってやれなかった。むしろ、身体の内側から自然と沸き起こってくる笑いを抑えるのに苦労するくらいだった。


「ああ? なんで悪いんだよ? おれとあいつは合わなかった。それだけじゃねえか」


 トシは床に転がっていたバスケットボールをひろい、わざとらしく床にゆっくりと打ちつけた。一回、二回。


「――そんなことも分からないのか!」


 バスケットボールがいくらも弾まないうちに、赤いシャツの少年の目がかっと見開かれた。その顔は怒りで紅潮していた。


「あいつは泣いてるんだよ。お前のせいで。お前のせいだ……、お前みたいなクズのせいであいつが悲しむなんて間違ってる」


 自分の態度が彼の神経を逆撫でしていることに、トシは気づいていた。けれど、彼がヒートアップするにつれ、反比例するかのようにトシの心は冷えていくのだった。


「はは。手を出せないヘタレに言われたくねえな。イツキ」

「なんだと!?」


 トシの一言に、かっとなったイツキはボールをバウンドさせつづける彼の腕を掴んだ。制御する人間のいなくなった球が隅に転がっていき、壁にぶつかるタイミングで、イツキの拳がトシの右頬に入る。


「がっ……!」


 ガツン、と鈍い音がして、トシはそのまま倒れ込んだ。コンクリートの床と足の裏が擦れる音と、点数板と跳び箱を巻きこむ盛大な音が続けざまに倉庫に響いた。

 しばらく、イツキが肩で息をする中、トシはぴくりとも動かなかった。

 どれくらい経っただろう。カラカラと回り続ける換気扇からの限られた光の中、トシは身体を起こした。ぐらぐらと眩暈のする頭を押さえながら、跳び箱と点数板の間で上半身を起こし、イツキを見上げる。

 彼はなぜか泣きそうな、痛そうな顔をしていた。自分を殴ったのはてめえのくせに。泣きたいのはこっちだ。


「は、ははは……。図星じゃねえか。あいつのことが好きなんだろう? お前があいつを幸せにしてやればいいじゃねえかよ。おれにはもう、……関係ない」


 諦めにも似た、感情の分からない表情を浮かべ、トシは顔を伏せた。イツキからの返事はなかった――。






「はい、カットー。ありがとうございます。映像チェックしまーす。そのままスタンバイでお願いします」


 しんと静まりかえった体育倉庫――のセットに、ずいぶんと事務的な声が掛かった。

 緊張していた場がその声によって再び動き出した。床に転がっていた男は強張らせていた筋肉をふっと緩め、髪の毛を揺すって立ちあがった。

 短く切りそろえられた黒髪に、ぱっちりとした二重瞼、すっとまっすぐ通った鼻筋。口元は先ほどまで浮かべていた憎々しげな笑みはもうなく、一文字に引きしめられていた。自分の髪や手足の汚れを細かくチェックする様は、真摯で真面目な印象を受ける。

 霧森孝司。KISSMEという人気アイドルグループのメンバーの一人だ。


 孝司は視線を動かして、自分のことを『トシ』と呼んでいた相手に目をやった。彼はネクタイをいじりながら、セットの外に向かって歩きだしていた。

 白に近いプラチナブロンドの髪に、釣り上がった目。一見強面のようにも見えるが、細い身体つきと大げさなほど動く表情がどこかひょうきんだと言われ人気が出た、売り出し中の若手俳優だ。福田崇文といって、孝司が『イツキ』と呼んだ少年と同じ、赤Tシャツの上にワイシャツを着てネクタイを締めるという格好をしていた。

 福田が向かう先には、セットの途切れ目と、大勢のスタッフがセットを見守る薄暗い空間があった。大袈裟なほどの大型カメラ三台とクレーンカメラ。照明機材と音声マイク。映画撮影の現場である。

 孝司が主演を務める青春映画であることに加え、演技派中堅俳優や大御所俳優、福田のような若手俳優とバラエティに富んだキャストがメディアで話題を呼んでいる。監督が長年アイディアを温めてきたオリジナル脚本とあって注目度は高く、孝司としても気が抜けない。


 の、だが。孝司の口から、知らず知らずにため息が漏れた。

 それもそのはずで、先日クランク・インしてから連日、孝司はこの映画の撮影に時間を取られていて、『KISSME』のレギュラー番組収録のために中抜けする以外はスタジオやロケーションに拘束されていた。ほとんど軟禁状態だといえるかもしれない。公開日もほとんど決まっているから、仕方がないとはいえ、疲労は溜まる一方だ。


 まもなく監督からシーンオーケーの指示が飛び、次のシーンの準備の為、孝司は控室に戻った。

 「お疲れ様です」と声を掛けてくる顔馴染みのスタッフの間を通り抜けて、楽屋奥にいる小柄な女性の前に立った。


「鈴」

「お疲れ様です、孝司くん。着替えですね。ジャケットお預かりします」

「ああ」


 鈴は孝司の衣装担当スタッフだ。いや、実際には『KISSME』のステージ衣装をはじめメディア露出時のファッションを手がける、グループ専属のデザイナー兼スタイリストであるのだが、この映画の撮影中は本人たっての希望で孝司の衣装の全てを任されているのだった。

 孝司がブレザージャケットを脱ぎ、鈴に手渡している間に、孝司の着替えに邪魔にならないよう、他のスタッフが気を遣って退出し、楽屋は二人きりになった。


「次、私服B用意して」

「はい! わかりました」


 孝司の指示を受けて、鈴はすぐさま衣装を取りに行った。主演である孝司の衣装は多岐に渡る。私服Bとは鈴と孝司で決めた簡単な暗号みたいなものだ。夜のコンビニへ行くシーンの、ラフな格好を指す。女の子にも知り合いにも会う予定がなく、気が抜けた状態のルームウェアだ。休日の孝司のそれをもっとダサくしたような印象で、実際この服自体は着ないとはいえ、チョイスしたくなる気持ちは非常によく分かる。

 自分の衣装が用意されている横で、孝司はワイシャツのボタンに手をかけながら、ちらりとそれを見て苦笑した。


「孝司くん? どうかしましたか」


 バレないようこっそり見たつもりだったのに、目ざとく見つけられて狼狽した。


「いや。なんでもない。相変わらず、ダセェな、って思っただけ」

「あはは。そうですよね、他の衣装と比べるとこの衣装だけダントツでユルいですからね。でも、キメる時はキメるのに、部屋着はちょっと。なんて、女の子は好きだと思いますよ。母性本能というか、手を出したくなる感じがして」

「そーかぁ?」


 女がよく言うその手の情報は胡散臭いことこの上ない。自分が許容できる懐の深さをアピールしたり、他の競争相手に幻滅させるために仕掛ける罠のひとつだったりするような気がしてならない。

 じゃなかったら、雑誌で私服大公開スペシャルと題した謎のコーナーをやって編集者に『大反響ですよ』と半笑いで言われたのはなんなんだ。


「自分のことを言ってたんですか? ふふ。孝司くんは格好よくて、とても似合う服があるんですから、それでいいじゃないですか」

「なんだかな。基準も分からねえところで褒められてもな」

「基準が分からないって、孝司くんは分かってますよ。わたしにたくさんアドバイスしてくださってるじゃないですか。これは嫌だ、あれは違うって。それでいいんですよー。適切にズバッと言って下さるので助かりました。衣装合わせの時にも、ほら」

「あー。あれは……仕事だろう」


 仕事で求められている服のことなら、なんとなくだがわかる。鈴に対してああだこうだと言えるのは、選択肢が限られていて言いやすいからだ。そして、単に彼女と話がしたいからで……、他のスタイリストに文句を言ったことなど一回もない。それをシオンにからかわれたこともあった。

 自分で初めから自由に選べと言われて出来るかというと、そうではない。


「普段、買い物行ってうまく服を選べって言われてもな。おれにはできない」

「ああなるほど。私服の話だったんですねー。今度お買い物、ご一緒しましょうか?」

「え」


 鈴からの唐突な誘いに、驚きがそのまま声に出そうになって、孝司は慌てて口を噤んだ。にこにこと笑っている鈴に何ら深い意味があるとは思えなかった。ただ自分が困っているのを助けたいという思いだけなのだろう。

 純粋な親切にありがたく思う自分と、何も考えずにまた余計なことを言いやがってと迷惑がる自分と、ただただ喜ぶ単純バカな自分がいて、どう反応していいのか困る。


「……お前、今日、何時までいる?」

「撮影終了予定時刻までいますよ」

「そ、そうか……」

「……」

「……」


 質問がひとつで途切れてしまった。沈黙が続く。さり気なく誘えばいいのだが、咄嗟に言葉が出なくてぱくぱくと口を開閉させる。


「あの、」

「お前、っあ」

「あ……。すみません。どうぞ」

「いや、いい。お前から言えよ」


 やっとのことで声を出したら、鈴とタイミングが被ってしまった。気まずい。互いに二度ほど譲り合って、やっと鈴が「じゃあ」と発言権を引き取ってくれた。


「孝司くん、えっと、今日お買い物に行くんですか? 久しぶりに十九時終了予定なのに……、お疲れじゃないですか?」


 鈴が心配するのも当然だ。ほぼ軟禁状態で深夜まで撮影が掛かる、という日が連日続いてようやくの早上がりだ。もちろん、孝司だって疲れている。


「気にすんな。自分のことは自分がよく分かってる」

「そうですか……?」


 彼女はやや納得の言っていない顔をしながらも、孝司との買い物自体は快く了承してくれた。孝司は内心はさておき外見上はとてもクールに「なら、終わるまで待ってろ」と半ば命令のように言うのだった。

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