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#1 丘の上

雨は朝から、ためらうように降り続いていた。

空はまだ明るさを手放しきれずにいて、それでも道の端だけが静かに濡れていく。


凪は学校へ向かう坂の途中で立ち止まり、そのまま引き返した。

今日も無理だと思った。


制服の襟に雨粒がつく。

スマホには、担任からの短いメッセージが来ていた。


【体調どうですか】

やさしい言葉なのに、見ただけで喉がつまった。


家に戻る気にもなれず、凪は長崎駅前の方まで歩いた。

路面電車の音が、濡れた街のなかを細い銀色の線みたいに走っていく。


ひっきりなしにやって来る電車は、待つ人の気持ちなんて知らない顔で、いつも通りに止まり、いつも通りに発車する。そういうところが少しだけ羨ましかった。


来た電車に乗った。行き先は見なかった。

座れなくてもいいと思っていたのに、昼前の車内は空いていて、窓際に一つだけ席が空いていた。


窓の外で、街がゆっくりと流れていく。

商店街の軒先、濡れた横断歩道、傘を傾ける人、すれ違う電車。

長崎の街は平らじゃない。どこかへ行こうとすると、たいてい坂がある。

上るか、下りるか、どちらかを選ばないといけない。


凪はそれが嫌いだった。

選べと言われているみたいで。


「次は、めがね橋」


車内アナウンスが響いて、凪は顔を上げた。

降りる理由はなかった。

でも、降りない理由もなかった。


中島川は、雨のあとで少しだけ濁っていた。

眼鏡橋の石はしっとりと暗く、水面に映った橋の影が、ほとんど円になりかけている。


ほんとうに眼鏡みたいだ、と凪は思った。

小さいころに何度も見た景色なのに、今日はなぜか、初めて見たみたいだった。


橋の脇の階段を下りて、水辺まで行く。

川のそばは少しひんやりしていて、上の車の音が遠くなる。

制服のスカートの裾を気にしながら石の段に腰かけると、やっと、胸のあたりの息苦しさが少しだけほどけた。


学校に行けなかった日は、時間だけが変な形になる。

みんなが授業を受けている午前。

みんなが昼休みに笑っている午後。

自分だけが、どこにも数えられていないみたいな時間。


ポケットの中でスマホが震えた。

お母さんからだった。


【今日は行けた?】

短い一文のあとに、既読を急かさないような、やさしすぎるスタンプ。


本当は、学校から連絡がいっているはずなのに。

それでも、知らないふりをして聞いてくる。


やさしさが痛い日もある。

凪は返信せず画面を閉じた。


そのとき、すぐ横の石段に、白い紙が張りついているのが見えた。

濡れて端がめくれている。

だれかが落としたチラシかと思って拾い上げると、青いインクで、たった二行だけ書かれていた。


「話したくない日は、話さなくていい。

来ても、名前を書かなくていい。」


その下に、小さく住所が書いてあった。

見覚えのある町名だった。けれど、施設名はない。

地図アプリで調べても、ただ古い児童館の跡地が出るだけだった。


いたずらかもしれない。

気味が悪いと思うべきなのに、凪は紙を捨てられなかった。


気づけば、その場所へ向かって歩いていた。

商店街を抜け、細い坂へ入る。

観光客の多い通りを抜けると、急に街の音が薄くなる。


途中で二度、引き返そうと思った。

一度目は、ほんとうにここで合っているのかわからなくなったとき。

二度目は、こんなところに行って何になるんだ、と急に恥ずかしくなったとき。


でも三度目は来なかった。


上り坂を、ひたすらのぼる。


やがて坂の上に、大きな木が見えた。

その隣に、赤レンガ古い建物。


玄関の灯りがついている。


建物の作りをみる限り、昔は児童館だったようだ。

門のプレートは外され、郵便受けは錆びている。

それでも、玄関の電球だけが新しかった。


庇の下に、小さな黒板が立てかけられている。


丸くて、少し不器用な字で、こう書かれていた。


「名がない居場所」


凪は、しばらくその字を見つめていた。


歓迎、でもない。

救います、でもない。

ただ、拒まない。


それだけが、どうしようもなく今の自分にちょうどよかった。


おそるおそる、ドアに手をかける。

少し力を入れると、玄関の戸は拍子抜けするほど軽く開いた。


中は、古い建物のにおいと、あたたかいスープの匂いが混ざっていた。

広くはないホールに、ばらばらの机と椅子。


壁ぎわの本棚。

窓際には、だれかが読みかけで伏せた本。


奥のストーブの近くで、同じくらいの女の子がイヤホンで音楽を聞いている。

別の机では、小学生くらいの男の子が、色鉛筆で港の絵を描いていた。


だれも、凪を見て騒がなかった。

見ないふりとも違う。

ただ、「来たんだ」と空気が言っているだけだった。


「濡れたね」

声をかけてきたのは、三十代くらいの女性だった。

先生には見えない。


きちんとしすぎてもいないし、気を抜きすぎてもいない。

ちょうどいい温度で立っている人だった。


「名前、書かなくていいから。靴だけそこで脱いで」


入口に置かれた名簿には、誰の名前もなかった。


それだけだった。

どこから来たのかも、学校はどうしたのかも、訊かれない。


凪は言われた通りに靴を脱いで、いちばん端の椅子に座った。

座った途端、足の力が抜けた。


建物の中を、ゆっくりと目でなぞる。


壁一面の本棚。

絵本、小説、古びた参考書。


奥には小さなスペース。

机がひとつだけの場所、クッションが積まれた場所。


窓際には観葉植物。

鳩時計はあるのに、音はしなかった。


視線を落とすと、机の上に一冊のノートがあった。

表紙には何も書かれていない。


開いていいのかわからずにいると、さっきの大人が言った。


「それ、読みたい人だけ読んでいいやつ」


凪は、そっと開いた。

最初のページに、青いペンで書かれている。


【助けて、が言えない日は、ここに来るだけでいい。】


次のページ。違う字だ。


【誰かを傷つけた日のほうが、来にくい。

だから先に言っておく。来てもいい。】


その次。


【見てただけの人も、入っていい。】


凪は、そこでページをめくる手を止めた。

しばらく、その一行から目を離せなかった。


ページの端を指で押さえたまま、少しだけ力がこもる。

……来にくい。

その言葉に、自分が含まれている気がした。


次のページをめくる。

【ここは、誰かに救われた人が、置いていった場所です】


一瞬、意味がわからなかった。

置いていった?


さらに、その下。

【次に来る人が、ひとりにならないように】


凪は顔を上げた。

部屋の中にいる人たちを見る。


イヤホンの女の子。

絵を描く男の子。

マグカップを持つ女性。


どこか、あいまいに見えた。

光の加減のせいかもしれない。


「……なんで、こんな場所」


声に出た。


女性は少しだけ考えてから言った。

「必要だったから、じゃないかな」


自分が作ったとは言わない。

どこか他人事みたいな言い方だった。


「ここ、名前ないんですか」


「……まだね」

少しだけ笑う。


「名前をつけると、入れない子が出ることがあるから」


一拍おいて、


「丘の上にあるから、丘の上って呼ばれてるよ。

そのまんまだけど」


「スープ、ぬるかったら言って」


凪は一口飲んで、小さくうなずく。

「ちょうどいいです」


「よかった。だいたい、ちょうどよくないって言われるから」


そう言って、女性はクッションに腰を下ろした。


「この人の飲み物、だいたい熱いよ」

イヤホンの女の子が、視線を外したまま言う。


女性は少しだけ眉を上げる。

「ちゃんと冷ましてるつもりなんだけどな」


そのやりとりが終わると、

部屋はまた、もとの静けさに戻った。


ホールの隅で、男の子が顔を上げた。

「ねえ、今日も来るかな」


誰に向けたのかわからない問い。


イヤホンの女の子が言った。

「空のこと?」


その名前が落ちた瞬間、空気がわずかに揺れた。


凪はノートから顔を上げる。


空。


人の名前なのか、そうじゃないのか。


「……もう、一ヶ月来てないよね」

小さな声。

責めるでもなく、ただ事実だけが置かれる。


凪は窓を見る。


坂の下の街は、雨にぼやけている。

だれかが消えてしまっても、おかしくないほど広かった。


そのとき、女性が紙コップを置いた。


「ここはね」

「いなくなりそうな子が、先に見つかる場所にしたいんだよ」


凪は何も言えなかった。

紙コップを両手で包む。


ページをめくる。


最後のほう、小さな字。

【もし、きみがここに来なくてもよくなったら】


その続き。

文字は途中で途切れていた。


凪の指が止まる。

その下に、書きかけの名前。


【空】


凪は、しばらくその字を見つめていた。

名前だけが、そこに残っている。


凪はこの場所について、知らないことだらけだ。

ただ、ひとつだけ確かだった。


ここは、来てもいい場所だということを。

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