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第六章『観察者の資格――知りたいという罪』(後編)

簑島が弾かれたように振り返った。環奈は声だけでその主を知った。聞き間違えるはずのない声。教室で毎日聞いている、あの気の抜けた少年の声。ただし今は、気の抜けた要素が一切ない。鋼のように硬質な響き。


榊原悠真。


小道の向こうに立っていた。制服のまま。鞄を投げ捨てて、走ってきたのだろう。息が少しだけ上がっている。


そしてその隣に、もう一人。


遠山紅音。


プラチナブロンドの髪が、夕陽を受けて燃えるように輝いていた。赤い瞳には、怒りと決意が同居している。


簑島の顔から、血の気が引いた。


悠真は一歩、踏み出した。その目は環奈を一瞬見て、無事であることを確認し、それから簑島に据えられた。


「……言っただろ、環奈」


声は環奈に向けられていたが、視線は簑島から外れなかった。


「好奇心は猫を殺す、って」


環奈は、声を絞り出した。動かない身体の中で、喉だけが唯一自由に使える器官だった。


「……ごめん」


「謝んなくていい。後で説教する」


紅音が環奈の横に駆け寄った。環奈の顔を覗き込み、身体が動かないことを一目で見て取る。


「大丈夫!? わたしが来たからには、もう安心していいからねっ!」


紅音の声は、怒りと心配が入り混じっていたが、その芯には揺るぎない自信があった。万象の簒奪者≪オムニ・テイカー≫としての矜持。どんな状況でも、守ると決めた相手は守る。


簑島の細い目が、悠真と紅音の間を往復した。


「……元No.13に、No.7……!?」


声が裏返った。


「どうしてここに……結社の任務で来ているというのに、邪魔をする気か!?」


簑島の動揺は明白だった。言霊遣い≪ワードマスター≫の異能は強力だが、それは相手が油断している時、不意を突ける時に最大の効果を発揮する。正面から異能者二人と対峙する状況は、簑島にとって最悪の展開だった。


悠真は静かに答えた。


「悪いが、今回だけは邪魔をさせてもらう」


その声は穏やかだったが、底に敷かれた鉄の意志が透けていた。


「その子に――環奈に手を出すな」


簑島は歯を食いしばった。まずい。元No.13の≪虚数演算≫は確率操作。No.7の≪万象の簒奪≫は万能の才能複製。正面戦闘で勝てる組み合わせではない。だが、言語世界≪ワード・オブ・ワールド≫の一声さえ通れば、状況をひっくり返せる。「動くな」の一言で、二人とも止められる。


簑島が口を開いた。


しかし、紅音は既に動いていた。


万象の簒奪≪オムニ・テイク≫――発動。


呼び出した才能:陸上競技男子百メートル金メダリスト。


紅音の小柄な身体が、弾丸のように射出された。小道の地面を蹴る音が砲声のように響く。簑島との距離、七メートル。〇・五秒で詰まる。


簑島の目が見開かれた。速い。速すぎる。だが――声さえ出せば。


「と——」


「止まれ」の「と」。たった一音。それが完成すれば、紅音は金縛りにかかる。


しかし。


その「と」が「と」で終わった。


虚数演算イマジナリー・カリキュレーション≫。


悠真が確率場を書き換えた。赤羽斎の時と同じ手法。簑島の声帯粘膜の水分が急速に蒸発する確率、百パーセント。喉頭筋が痙攣する確率、百パーセント。


「と——ッ、がっ、げほっ……!!」


簑島の喉が詰まった。言葉が途切れた。声帯が悲鳴を上げ、咳き込みが止まらない。


その隙に。


紅音は才能を切り替えた。


陸上の走力から、一瞬でボクシング、ヘビー級世界チャンピオンへ。足のフットワーク、体幹の回転、腰の捻り、肩の入れ方、拳の角度——全てが世界王者と完全に同一の動きを描く。


右ストレート。


簑島の鳩尾に、人類最高峰の一撃が突き刺さった。


あの日、訓練フロアで悠真に届かなかった黄金のコンボ。陸上の加速で距離を詰め、ボクシングの一撃で仕留める。紅音の最強の連携技。悠真には確率操作で転ばされて不発に終わった幻の技が、今——完璧な形で炸裂した。


「おっ! おごっ……!」


簑島の身体が「く」の字に折れた。内臓を押し潰すような衝撃。肺の空気が一瞬で吐き出され、意識が明滅する。二歩、三歩とよろめき、木の幹に背中をぶつけてかろうじて倒れずに踏みとどまった。


しかし、もう声は出せない。喉は悠真の確率操作で封じられ、鳩尾への一撃で呼吸そのものが困難になっている。言語世界≪ワード・オブ・ワールド≫の発動条件は音声。声が出なければ、ただの痩せた中年男でしかない。


悠真が歩み寄った。


「勝ち目がないのはわかるだろ、簑島」


名前で呼ばれた。自分の名前を知られている。当然だ。元No.13。天叡結社の十三席に最年少で名を連ねた男。序列保持者全員の名前と異能を把握しているに決まっている。


「その子を解放して、退け」


悠真の声には、脅しの色がなかった。ただ淡々と、最も合理的な選択肢を提示しているだけ。それが逆に、簑島の背筋を凍らせた。この男は交渉をしていない。通告をしている。従わなければどうなるか——赤羽斎の末路が、簑島の脳裏を過ぎった。


「くっ……くそ……!」


簑島は掠れた声で呻いた。喉が焼けるように痛む。


「十三席が揃って……人の仕事の邪魔を……!」


悠真は黙っている。


簑島は環奈を指差した。動けない少女。普通の女子高生。異能もなく、戦闘技術もなく、ただの高校生。


「だいたい、こいつはお前のなんなんだ! 悠真!」


怒りと困惑が入り混じった声。たかが一般人の女子高生一人のために、元No.13とNo.7が揃って駆けつけるなど、簑島の常識では理解できなかった。


悠真は、一瞬だけ黙った。


ほんの一拍。だがその一拍の間に、何かを決めたようだった。


「……俺の、大切な人だ」


静かに、しかし明確に。


夕陽が、その言葉に色をつけた。


環奈の心臓が、ドクンと鳴った。


大きく。強く。身体が金縛りで動かなくても、心臓だけは自分のものだった。その心臓が、今まで感じたことのない速さで脈打っている。顔が熱い。耳の先まで熱い。動けないからこそ、ごまかしようがない。体温の上昇が、自分自身に否応なく伝わってくる。


(大切な……人……)


そして。


紅音は。


雷鳴に打たれたような顔で、立ち尽くしていた。


拳を握ったまま。簑島を殴り飛ばした体勢のまま。全身が凍りついたように静止していた。


赤い瞳が、大きく見開かれている。


(……大切な、人?)


心臓が、一回だけ強く跳ねて、次の拍動を忘れた。


(悠真が……あの悠真が……誰かのことを「大切」だと……?)


一年間、同じ組織にいた。悠真が誰かに特別な感情を見せたことは、一度もなかった。全てがどうでもいいような顔。誰のことも見ていない目。それがあの男の本質だと、紅音は思っていた。


なのに。


この女の子のことは「大切」なのだ。


あの氷室環奈。異能も持たない。戦えもしない。ただ頭がいいだけの、普通の女の子。なのに悠真は、結社の序列保持者に向かって「大切な人だ」と宣言した。


紅音の胸の奥で、名前のつけられない感情が渦を巻いた。


簑島は、悠真の言葉を聞いて沈黙した。


「大切な人」


天叡結社≪エデン・オルド≫の元No.13が、一般人の少女をそう呼んだ。その意味を、簑島は正確に理解していた。結社において、序列保持者が特定の人間を「大切」と公言することは、その人間に保護宣言をかけるのと同義だ。手を出せば、宣言者との全面対決を意味する。


元No.13。赤羽斎を葬った男。確率操作で次元使いを封殺した化物。


その男の「大切な人」に、手を出す度胸は——簑島秀一にはなかった。


「…………チッ」


簑島は舌打ちした。


掠れた声で、短く告げた。


「自由に動け」


環奈の身体から、拘束が消えた。全身の筋肉が一斉に弛緩し、環奈は膝から崩れ落ちそうになった。紅音が素早く駆け寄り、環奈の肩を支えた。


「大丈夫? 立てる?」


「……うん、ありがとう……」


環奈の声は震えていたが、瞳の光は消えていなかった。


簑島は二人に背を向け、小道を下り始めた。


「覚えておけ、元No.13」


振り返らずに、簑島は言った。


「任務は失敗していない。チップの回収はまだ終わっていない。次に来る時は、もっと面倒な奴が来るかもしれんぞ」


「来るなら来い。対処する」


悠真の声が、簑島の背中を追った。


簑島は答えず、雑木林の中に消えていった。


* * *

夕陽が沈みかけていた。


裏山の頂上で、三人は立ち尽くしていた。


紅音が環奈の肩を支え、悠真は柵に背を預けて二人を見ていた。


環奈が最初に口を開いた。


「……ありがとう。二人とも。助けてくれて」


声はまだ震えていたが、頭は回り始めている。氷室環奈の頭脳は、恐怖の中でも停止しない。それは既に証明済みだった。


悠真は小さく頷いた。


紅音は環奈の顔を覗き込んだ。


「怪我はない? どこか痛くない?」


「大丈夫。身体は動かされただけで、傷はないわ」


環奈は紅音に微笑みかけ、それから——視線を悠真に向けた。


頬が、また熱くなる。


「あ、あの……さっきの……」


「ん?」


「大切な人、って……」


環奈の声が、どんどん小さくなっていく。学年一位の才媛が、言葉を選べずにしどろもどろになっている。顔が赤い。耳の先まで赤い。夕陽のせいだけでは説明のつかない赤さ。


悠真はそれを見て、少し考えるような間を置いた。それから、いつもの飄々とした声で答えた。


「ああ言えば、奴らは環奈に手出ししにくい。結社内では、序列保持者の保護宣言は一定の重みを持つからな。多少の抑止力にはなるだろう」


「……そう」


環奈の声が、すとん、と落ちた。


先ほどまでの赤面が、すっと引いていく。代わりに浮かんだのは、わずかに唇を尖らせた、不機嫌そうな表情。


悠真は首を傾げた。


「嫌だったか?」


「別に」


環奈はそっぽを向いた。夕陽に背を向けて、崖とは反対側の雑木林を見た。表情は見えない。


悠真には、その「別に」の意味が正確に読み取れなかった。確率操作で世界を歪められる天才が、たった二文字の日本語の解読に失敗していた。


一方。


「そうだと思った! うん!」


紅音は、ぱあっと顔を輝かせた。


安心した表情。心の底から安堵した、無防備な笑み。


「戦略的な意味だよね! 悠真らしい!」


「……まあ、そうだけど」


紅音はぶんぶんと頷いた。そうだよね、悠真がそういう意味で言うわけないよね。あの悠真が。誰にも特別な感情を持たない、あの悠真が。うんうん。よかった。


紅音が安心している理由を、紅音自身はまだ正確に理解していなかった。


三人の間に、微妙な空気が流れた。


夕陽が最後の光を放ち、空が茜から藍に変わっていく。


* * *

数日後。放課後。


悠真は屋上に環奈を呼んだ。紅音も一緒だった。


「ここまで知ってしまった以上、話さないわけにはいかないだろう」


悠真は柵に寄りかかり、腕を組んだ。


環奈は頷いた。裏山での出来事以来、環奈の中で「知りたい」は「知らなければならない」に変わっていた。知識が自衛に繋がる。何も知らないから、あの男に不用意に近づいてしまった。知っていれば、もっと慎重に行動できた。


紅音は環奈の隣に座り、足をぶらぶらさせていた。


「どこから話す?」と紅音が悠真を見た。


「最初から」


悠真は空を見上げた。


「天叡結社≪エデン・オルド≫。世界を自分たちの優秀さと特殊能力で支配しようとする組織。序列十三席の異能者を擁する、世界最大の超常犯罪結社」


環奈はノートを取り出していた。ペンを構え、聞き漏らすまいと集中している。紅音が「真面目か」と呆れたように笑った。


「俺はかつて、そこのNo.13だった」


「私はNo.7。今も籍は残ってる。長期休暇扱いだけど」


「休暇?」と環奈が紅音を見た。


「えへへ、悠真を追いかけるのに、正式に辞めたら面倒だから……」


環奈はペンを走らせながら、次々と質問した。結社の規模は。構成員の数は。目的は。異能とは何か。どうやって発現するのか。


悠真と紅音は、差し支えない範囲で答えた。結社の具体的な計画や、他の序列保持者の詳細な能力は伏せた。環奈に知らせれば、知らせた分だけ危険が増す。


「裏山で私を操ったのは、言葉で人を支配する異能……ということ?」


「そう。言語世界≪ワード・オブ・ワールド≫。短い言葉に念を込めて発声すると、対象の身体を操れる」


「悠真の異能は?」


「確率操作。≪虚数演算イマジナリー・カリキュレーション≫。世界の確率を書き換える」


「紅音さんの異能は?」


「万象の簒奪≪オムニ・テイク≫。見た才能を複製できるの。だからあの時、走るのも殴るのもできたってわけ」


環奈は、ノートに書き留めながら、目を輝かせていた。恐怖はあった。裏山で身体を操られた感覚は、まだ指先に残っている。だが、それ以上に——今、この瞬間、環奈の知的好奇心は、人生で最も激しく燃えていた。


世界の裏側に、こんな領域が存在していた。


そしてその領域の住人が、今、目の前にいる。自分に向かって、その世界の扉を開いてくれている。


「……ありがとう」


環奈はペンを止めて、顔を上げた。


「話してくれて」


「礼を言われるようなことじゃない。お前を巻き込んだのは俺の落ち度だ」


「巻き込まれたんじゃないわ。自分から踏み込んだの。最初から」


環奈は真っ直ぐに悠真を見た。


「あなたのテストの点数が不自然だと気づいた日から。確率論で平凡の仮面を剥がしにいった日から。ずっと、自分の意志で」


悠真は黙っていた。


環奈は続けた。


「私に異能はない。戦う力もない。でも、観察することはできる。考えることはできる。この頭脳だけが、私の武器だから」


紅音がちらりと環奈を見た。赤い瞳に、複雑な光が宿っていた。この人は強い、と紅音は思った。異能がないからこそ持てる、別種の強さ。純粋な意志の力。


「……だから、お願い。これからも、教えて。あなたたちの世界を」


悠真は長い沈黙の後、ため息をついた。


「好奇心は猫を殺す。三回目だぞ、これ」


「猫は九つの命を持つって言うわ」


「……英語の諺まで持ち出すか」


悠真は苦笑した。降参の苦笑。二回目の。


「わかった。ただし、条件がある」


「何?」


「俺か紅音の許可なく、単独で危険に近づくな。裏山の二の舞はごめんだ」


「……善処するわ」


「善処じゃなくて約束しろ」


紅音が吹き出した。「あっ、私が悠真に言ったのと同じだ!」


三人の間に、笑いが広がった。


屋上の風が、三人の髪を優しく攫った。


環奈は笑いながら、胸の奥で感じていた。温かいもの。十六年間、知性の孤島にいた自分が、初めて感じるもの。


知的好奇心が満たされる喜び。


そして、もうひとつ。


ほんの少しだけ——仲間になれた気がした。


天才が凡人を演じる少年と、万能の異能を持つ少女。その二人の傍に、異能を持たない自分がいる。不釣り合いかもしれない。場違いかもしれない。


でも今、この屋上で、三人は同じ風に吹かれている。


それだけで、十分だと思った。


第七章『嵐の前――天叡結社、動く』 に続く

――観察者は、ついに観察者の席を越えた。


知りたいという罪を背負い、異能なき身で、異能者の世界に足を踏み入れた。


氷室環奈に武器はない。超常の力もない。


あるのはただ、偏差値七十八の頭脳と、折れない意志だけ。


――だが、それこそが。


確率操作でも、才能複製でも、言葉の支配でも手に入れることのできない、


たったひとつの、本物の力なのかもしれない。

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