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第六章『観察者の資格――知りたいという罪』(前編)

天叡結社≪エデン・オルド≫の任務は、いつも唐突に降ってくる。


序列第十二位《No.12》――言霊遣い≪ワードマスター≫簑島秀一みのしま しゅういちが指令を受けたのは、火曜日の深夜だった。暗号化された通信端末に、事務方からの短いテキスト。


【任務:回収】

【対象:ギャラクシー・チップ 規格SDカード型 外装黒色】

【所在:東京都T区 都立桜ヶ丘高校裏手 通称「裏山」雑木林内】

【条件:隠密行動厳守 痕跡を残さぬこと】

【期限:一週間以内】


簑島は端末の画面を眺め、眉をひそめた。


ギャラクシー・チップ。聞いたことがない。SDカード型の物体。それが何なのか、どういう意味を持つのか、指令書には一切記載がなかった。


結社の仕事はいつもこうだ。


「知る必要のないことは知らせない」が天叡結社≪エデン・オルド≫の基本原則。十三席の序列保持者ですら、組織の全貌を把握している者は少ない。各自に与えられるのは、己の任務に必要な情報だけ。全体像は盟主≪アーキテクト・ゼロ≫の頭の中にしかない。


いつものことと言えば、いつものことだ。


「高校の裏山ねえ……」


簑島は三十代前半。痩身で、神経質そうな細い目をした男。一見すると、どこかの中小企業の経理担当にでもいそうな、地味な風貌。十三席の中では最も「普通の人間」に近い外見をしていた。


翌日から、簑島は都立桜ヶ丘高校の裏山に通い始めた。


裏山は学校の敷地に隣接する小さな雑木林で、かつてはハイキングコースとして整備されていたが、今は半ば放置されている。頂上には転落防止の古い柵があり、その向こうは急斜面の崖になっていた。


SDカード型の物体を、雑木林の中から探す。範囲はそれなりに広い。しかも「痕跡を残すな」という条件がある以上、重機を入れたり、大規模な捜索はできない。一人で、地道に、目視と手探りで探すしかない。


「面倒な仕事を押しつけやがって……」


簑島はぼやきながら、それでも黙々と作業を続けた。三日目。四日目。雑木林の落ち葉を掻き分け、木の根元を探り、岩の隙間を覗き込む。地味で、退屈で、十三席の序列保持者がやるような仕事ではない。


だが、結社の指令に背くという選択肢は、簑島にはなかった。


* * *

同じ頃。都立桜ヶ丘高校。


氷室環奈は、放課後の図書室で本を読んでいた。


正確に言えば、本を読むふりをしながら、考え事をしていた。


あの日の朝——紅音が悠真に囁いた言葉の断片が、環奈の頭から離れなかった。


「確率場の歪み」「次元干渉の痕跡」「異能戦」


どの単語も、環奈の知識体系には存在しないものだった。科学の範疇にない。超常現象。SFの語彙。まともな人間なら一笑に付すような用語。


だが環奈は笑わなかった。


遠山紅音は冗談を言っていなかった。声のトーン、呼吸のリズム、瞳孔の開き具合――全てが真剣そのものだった。そして悠真もまた、紅音の言葉を荒唐無稽として退けなかった。「散歩してただけ」とはぐらかしたが、否定はしなかった。


つまり、二人の間では「確率場」や「次元干渉」や「異能戦」は、日常語彙として通用する概念なのだ。


(私が知らない世界が、あの二人の間にある)


環奈はページをめくった。


(榊原くんは「何が出てきても自己責任だ」と言った。遠山さんは、私の観察力に驚いていた。二人とも、私にヒントを与えている。でも核心は教えてくれない)


環奈の知的好奇心は、制御不能の段階に入りつつあった。知りたい。知りたい。知りたい。この衝動は、六歳で整数論の未解決問題に出会った時と同じだった。答えがあるとわかっている。ただ、まだ見えていないだけ。


(自分で、見つけるしかない)


環奈は本を閉じ、鞄を手に取った。


図書室を出て、校舎の窓から外を見た。裏山の雑木林が、夕陽に照らされて濃い緑色に染まっている。


環奈は、三日前からある事に気づいていた。


裏山に、不審な人物が出入りしている。


最初に気づいたのは月曜の放課後だった。校舎三階の窓から裏山を眺めていた時、雑木林の中に人影が動くのを見た。生徒ではない。服装が違う。翌日の同じ時間帯にも確認した。同じ人物。三十代前半の痩身の男。雑木林の中を何かを探すように歩き回っている。


三日連続。同じ時間帯。同じ人物。


(何を探しているの……?)


環奈の頭脳は、すでに推論を始めていた。


もし——あの不審な男が、悠真と紅音が属している「知らない世界」の関係者だとしたら?


その仮説が正しければ、あの男を観察することで、「知らない世界」の手がかりが得られるかもしれない。


環奈は校舎を出た。


昇降口で靴を履き替え、校庭を横切り、裏山への小道に入った。


夕方の雑木林は薄暗く、足元の落ち葉が乾いた音を立てた。環奈は音を立てないように注意しながら、小道を外れて木立の間を進んだ。


(あの男は、毎回このあたりを重点的に探っていた)


環奈は記憶の中の人影の動線を再構成しながら、慎重に歩を進めた。


木立の向こうに、人影が見えた。


いた。


痩身の男。地味なジャケット。中腰になって、大きな岩の根元を探っている。


環奈は木の陰に身を隠し、息を殺した。


男の動きを観察する。手つきは丁寧で、周囲の環境を乱さないように注意している。プロの動きだ。ただの不審者ではない。訓練された人間の所作。


(何を探しているの……?)


環奈は身を乗り出した。もう少し近づけば、男の手元が見える——


足元の枯れ枝を踏んだ。


ぱきん、と。乾いた音が、静寂の雑木林に響いた。


男が振り返った。


細い目が、環奈を捉えた。


時間が止まった。


二人の視線が交差する。五メートルの距離。逃げるには近すぎる。


「……おいおい」


男が――簑島秀一が、苦い顔で呟いた。


「見られたか」


環奈は反射的に踵を返そうとした。走れ。ここから離れろ。理性よりも先に、本能がそう命じた。


しかし。


「動くな」


簑島の声が、雑木林に響いた。


たった三文字。だが、その三文字には、言葉以上の「何か」が込められていた。


環奈の身体が、凍った。


比喩ではない。文字通り、一歩も動けなくなった。足が地面に縫い付けられたように動かない。腕も、首も、指先すら。まるで全身をギプスで固められたかのように、あらゆる筋肉の随意運動が停止していた。


呼吸だけが、辛うじて続いている。


「な……っ」


声は出た。呼吸と同様、生命維持に必要な最低限の機能は残されているらしい。しかし身体は一ミリも動かない。


「悪いな、お嬢ちゃん」


簑島がゆっくりと近づいてきた。苦い顔のまま、頭を掻いている。


「見なかったことにしてくれれば、こんなことしなくて済んだんだが」


言語世界≪ワード・オブ・ワールド≫。


短い言葉に念を込めて発声することで、対象の人間を指示通りに動かす異能。「動くな」と言えば動けなくなり、「座れ」と言えば座り、「歩け」と言えば歩く。対象の意志は無関係。脳と筋肉の間の伝達経路に直接介入し、命令を上書きする。


簑島は環奈の前に立ち、腕を組んだ。


「さて、どうしたもんかな……」


独り言のように呟く。その目は環奈を見ているが、環奈のことを考えているのではなかった。自分の任務のことを考えていた。


「隠密行動厳守」。指令書の文言が脳裏に浮かぶ。誰にも気取られずに回収しろ。その条件を、今この瞬間、この女子高生に破られた。


目撃者がいる。


見逃せば、簑島の責任になる。結社は失敗に寛容ではない。任務の障害を排除しなかった者は、障害と同じ扱いを受ける。


「……殺すか?」


簑島は自分自身に問いかけた。


環奈の瞳が揺れた。恐怖が、氷水のように全身に広がっていく。身体は動かない。逃げられない。目の前の男が「殺す」と言った。冗談の響きはなかった。


簑島は環奈を見つめ、考え込んだ。


言語世界≪ワード・オブ・ワールド≫は、どちらかと言えば絡め手の異能だ。人を操ることはできるが、直接的な殺傷能力はない。もちろん、動きを止めた環奈を素手で絞殺することは物理的に可能だ。だが——


簑島は首を振った。


証拠が残る。首に絞められた痕跡。皮膚の下の出血。法医学の鑑定で他殺と判定される。「隠密行動」の真逆だ。しかも、高校の裏山で女子生徒の絞殺死体が見つかれば、警察が大規模な捜査を行う。結社がもみ消すにしても面倒が増える。


何より——寝覚めが悪い。


簑島秀一は、天叡結社の序列保持者としては比較的「まとも」な人間だった。任務は遂行するが、不要な殺しは好まない。効率と清潔さを重んじる。汚れ仕事は嫌いだ。


だが、見逃すわけにもいかない。


簑島は数秒考え、結論を出した。


「……事故に見せかけるか」


環奈の背筋が凍った。


簑島の細い目が、裏山の頂上方向を見た。頂上には古い転落防止柵がある。その向こうは急斜面の崖。落ちれば——死ぬ。


「散歩中に足を滑らせた事故。あるいは、裏山の頂上の柵を飛び越えて、自殺した……でもいいか。どっちでもいい。事故として処理してもらえば、証拠は残らない」


簑島は環奈に背を向け、頂上への小道を歩き始めた。


そして振り返り、短く告げた。


「ついてこい」


環奈の足が、動いた。


自分の意志ではない。脳は「逃げろ」と叫んでいる。全身の神経が「止まれ」と命じている。なのに、足だけが勝手に動く。一歩、また一歩。まるで操り人形のように、簑島の背中を追って、頂上への小道を登り始める。


(動いてる……私の足が、勝手に……!)


恐怖が、環奈の思考を侵食していく。


しかし同時に、環奈の頭脳は——氷室環奈という人間の本質は——恐怖の中でも停止しなかった。


(これが……「異能」)


環奈は、自分の足が勝手に動く感覚を、分析していた。恐怖に震えながら、泣きそうになりながら、それでも理解しようとしていた。


(言葉で命令して、相手の身体を支配する能力。「動くな」で静止。「ついてこい」で追従。音声をトリガーにした、神経系への直接介入……?)


木立の間を縫って、小道が続く。傾斜が急になっていく。環奈の足は止まらない。


(ああ……そうか)


環奈は、唐突に理解した。


理屈ではなく、直感で。全身で。


(悠真と紅音は……こういう世界の住人なんだ)


確率場の歪み。次元干渉。異能戦。それらの単語が、今、環奈の身体を通じて意味を持った。


超常の力が、現実に存在する。人間の身体を言葉ひとつで支配できる力が。空間を裂く力が。確率を操る力が。


そして、その力を持つ者たちが、組織を作り、暗躍し、世界の裏側で何かを企てている。


(悠真は、その世界にいた。紅音も。あの放課後、屋上で私に「ケガするかもしれない」と言ったのは、こういうことだったんだ……)


足が止まった。


頂上に着いたのだ。


古びた金属柵が目の前にある。柵の向こうは、急斜面。下を見れば、数十メートル下に岩場が見えた。夕陽が斜面を照らし、岩の表面がオレンジ色に光っている。


簑島が振り返った。


「悪いな、お嬢ちゃん。運が悪かったと思ってくれ」


環奈は動けなかった。足は簑島の命令で止まっている。声は出る。しかし、何を叫んだところで、この雑木林の頂上で聞く者はいない。


簑島が口を開きかけた。「柵を飛び越えろ」と、その命令を発するために。


その瞬間だった。


「待てッ!」


声が、背後から飛んできた。

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