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第五章『亀裂――日常と非日常の境界線』

天叡結社≪エデン・オルド≫。地下四十七階。


十三席の序列保持者に与えられる個室は、それぞれの主の個性を反映する。久能昌の部屋は無数のモニターが壁を埋め尽くし、遠山紅音の部屋はシンプルで清潔に整えられている。


序列第二位《No.2》――正体不明≪アンノウン≫雨貝ハルキの個室は、異様だった。


半分が図書館で、半分がジムだった。


壁の一面は天井まで本棚で埋められている。哲学、物理学、歴史、文学、語学、格闘技の教本、栄養学、解剖学――ジャンルに統一性がない。背表紙の色が入り乱れた本棚は、持ち主の雑食的な知性を物語っていた。


残りの半面には、ベンチプレス台、懸垂バー、サンドバッグ、各種ダンベルが所狭しと並んでいる。床にはトレーニングマットが敷かれ、壁には使い込まれたボクシンググローブが掛かっていた。


その部屋の中央で、一人の男がベンチプレスを上げていた。


雨貝ハルキ。二十七歳。百八十五センチ、九十三キロ。サングラスをかけている。室内で。地下施設の、蛍光灯しかない部屋で。


上半身は裸で、筋肉の隆起が蛍光灯の下で影を作っていた。胸筋、三角筋、上腕二頭筋――どれもが機能的に鍛え上げられた実戦向きの肉体。ボディビルダーのような見せるための筋肉ではない。壊すための筋肉だった。


バーベルには百四十キロのプレートが積まれている。それを、雨貝は片手にハードカバーの本を持ちながら上げていた。


右手で本のページをめくり、左手でバーベルを支え、両手に戻して挙上する。また右手で本を持ち、ページをめくり、左手で支え、両手で挙上する。


読んでいるのはマルクス・アウレリウスの『自省録』だった。


「……『朝、起きた時にこう自分に言うがよい。今日もまた、おせっかいな人間、恩知らずな人間、横柄な人間に出くわすことだろう、と』」


雨貝は本の一節を声に出して読みながら、百四十キロを二十レップ上げ切った。バーベルをラックに戻し、身体を起こす。


「まったくだよ、アウレリウス先生」


サングラスの奥の目が、誰にも見えない。表情を読むことができない。声だけが、のんびりとした響きで部屋に満ちていた。


天叡結社≪エデン・オルド≫において、雨貝ハルキは謎だった。


序列第二位。盟主≪アーキテクト・ゼロ≫に次ぐ席次。それが意味する実力は、本来なら十三席の中でもトップクラスであるはずだ。


しかし、誰も雨貝の力を見たことがない。


模擬戦は全て断っている。結社の任務には参加するが、前線に出ることはほとんどない。出たとしても、他の序列保持者と行動を共にせず、単独で完遂して帰ってくる。その過程を誰も目撃していない。


異能の詳細も不明だった。二つ名が「正体不明≪アンノウン≫」であること自体が、それを象徴している。通常、二つ名は異能の性質を反映したものが与えられる。電脳支配者、万象の簒奪者、虚数領域の観測者――名前を聞けば能力の方向性が推測できる。だが「正体不明」という二つ名は、何もわからないということだけがわかるという、矛盾した情報しか提供しない。


結社内では様々な噂が囁かれていた。


「実はコネで入ったんじゃないか」


「盟主の親族とか、そういう類いだろう」


「No.2にしては存在感がなさすぎる。実は弱いんじゃないか」


「模擬戦を断るのは、実力がバレるのを恐れているからだ」


雨貝自身はそうした噂を気にする素振りを見せなかった。本を読み、筋トレをし、サングラスをかけて地下施設を闊歩する日々。誰とも深く関わらず、誰の敵にもならず、誰の味方にもならない。


ただ、そこにいるだけの男。


雨貝はベンチプレス台から立ち上がり、タオルで汗を拭いた。『自省録』を本棚に戻し、代わりに別の本を抜き出す。トルストイの『戦争と平和』。何度目かの再読だった。


「さて、今日はどこまで読めるかな」


雨貝がページを開いた、その時だった。


個室の扉が、ノックもなく開いた。


* * *

扉の向こうに立っていたのは、中肉中背の男だった。


二十代後半。整った顔立ちだが、目つきが悪い。薄く笑った口元が、どこか赤羽斎を思わせる陰湿さを帯びていた。


笹平瑛士ささひら えいじ


天叡結社≪エデン・オルド≫序列保持者候補。赤羽斎と同じく、十三席の「補欠」に位置する実力者。


笹平は部屋の中を一瞥した。本棚とトレーニング器具。サングラスをかけた上半身裸のマッチョマン。トルストイを手にしている。


異様な光景だったが、笹平は気にしなかった。この男の奇行は結社内では周知の事実だ。


「雨貝ハルキ」


「おう」


雨貝はトルストイから顔を上げなかった。


「何の用だ? 模擬戦なら断ってるぞ。知ってるだろ?」


「模擬戦じゃない」


笹平は一歩、部屋の中に踏み込んだ。扉が背後で閉まる。


「本気で俺と戦え」


雨貝のページをめくる手が止まった。


サングラスの奥の目が、初めて笹平を見た。少なくとも、笹平にはそう感じられた。


「……本気で、ねえ」


「ああ。俺が勝ったら――十三席を譲ってもらう」


雨貝は数秒、黙っていた。


それから本を閉じ、ベンチプレス台の端に腰かけた。タオルを肩にかけ、ゆっくりと首を回す。関節がぽきぽきと鳴った。


「No.13の席が保留になってるから、そっちを狙うのが筋だと思うが」


「赤羽が死んだ」


笹平は端的に言った。


「元No.13の榊原悠真を消しに行って、逆にやられた。詳細は不明だが、確率操作で逃走経路を歪められて、ダムに落とされたらしい」


雨貝は「ほう」と小さく声を上げた。感心したような、呆れたような、曖昧なトーン。


笹平は続けた。


「赤羽の次元開閉は、この結社でも屈指の殺傷力を持つ異能だった。それがあっさり封殺された。元No.13の確率操作能力は、正面から挑んで勝てる相手じゃない」


「だろうな」


「だから――別の席を狙う」


笹平の目が、鋭く光った。


「噂は知ってる。雨貝ハルキ、お前はコネで入ったとか、実は弱いとか。模擬戦を全て断っているのは実力を隠すためじゃなく、実力がないのを隠すためだとか。No.2の席次は、盟主への何らかの貢献――情報提供とか資金援助とか――の見返りに与えられた名誉職だとか」


笹平は嘲笑した。


「お前が十三席で一番弱いなら、お前の席を奪うのが一番合理的だ」


雨貝は黙って聞いていた。サングラスの奥の表情は読めない。


沈黙が流れた。


やがて、雨貝が口を開いた。


「いやあ……お前、運が悪いよ」


その声は穏やかだった。穏やかすぎた。脅しでも、怒りでも、虚勢でもない。天気予報を読み上げるような自然さで、雨貝は言った。


「……何だと?」


「俺はたぶん、十三席で一番強いよ」


笹平の表情が、一瞬固まった。


雨貝は続けた。サングラスの奥の目が、笹平をまっすぐに見据えていた。見据えているという確信が、サングラス越しでも伝わるほどの圧。


「そして、俺に勝負を挑んだら――お前は死ぬことになる」


静寂。


トレーニングルームの蛍光灯が、微かに明滅した。


笹平は――笑った。


「ハッタリだ」


即断だった。この男の実力は、噂通り大したことがない。「一番強い」などという大言壮語は、弱者が強がる時の典型的なパターンだ。本当に強い人間は、わざわざ自分が強いとは言わない。


少なくとも、笹平はそう判断した。


「コネで手に入れた席にしがみつくために、ハッタリで威嚇か。惨めだな、雨貝」


笹平は右手を持ち上げた。


異能の発動に、発声は必要ない。念じるだけでいい。


念動圧力サイコロジカル・プレッシャー≫。


対象物に、プレス機のような圧力をかける。念じるだけで。距離も、物質の硬度も関係ない。人体なら骨格ごと歪めて圧縮し、車両ならフレームを折り畳み、建築物ならコンクリートの柱を握り潰すように粉砕する。


笹平がこれまで潰してきたものは数知れない。人間の身体が、プレス機にかけられた空き缶のように歪んでいく光景を、何度も見てきた。


「序列外だからって舐めてるだろ……!」


笹平の右手が、雨貝に向けられた。


「ひしゃげて潰れろッ!!」


≪念動圧力≫、全力発動。


雨貝の全身に、数トンの圧力が――


* * *

雨貝ハルキは、床に横たわる笹平瑛士を見下ろしていた。


笹平はもう動かなかった。


「あーあ……だから言わんこっちゃない」


雨貝は溜息をついた。


血で汚れた拳をタオルで拭き、サングラスの位置を直す。


「模擬戦を断ってるって言ってるのに、なんで挑んでくるかねぇ……」


雨貝は笹平の遺体を一瞥し、壁際のインターホンを押した。


「清掃、頼むわ」


インターホンの向こうで、事務方の担当者が慣れた声で「承知しました」と答えた。


雨貝はベンチプレス台に戻り、腰を下ろした。中断していた『戦争と平和』を開く。


血の匂いが微かに漂う部屋で、雨貝はページを繰った。


「……さて、どこまで読んだかな」


トルストイの文章が、蛍光灯の白い光の中で静かに流れていく。


清掃班が来るまでの間、雨貝はいつもと変わらない表情で本を読み続けた。


* * *

翌日。都立桜ヶ丘高校。


悠真は朝のホームルーム前に、いつも通り教室に入った。いつも通りの顔。いつも通りの「おはよう」。昨日の放課後に人一人を確率操作でダムに沈めた人間の朝には、到底見えない平凡さ。


席に着く。教科書を出す。


後ろの席から、小さな声が降ってきた。


「……ねえ」


紅音だった。


「昨日の放課後、確率場に大きな乱れがあった。……何かあったの?」


悠真は振り返らずに答えた。


「別に。散歩してただけ」


「嘘。私の異能で戦闘痕跡分析のスキルを使えば、残留確率場の歪みから異能戦の発生を検知できるの。遊歩道の辺り。次元干渉の痕跡があった」


悠真は一拍、沈黙した。


「……紅音」


「何よ」


「お前、俺の行動範囲の確率場を毎日スキャンしてるのか?」


紅音の声が、わずかに上擦った。


「べっ、別に毎日じゃないわよ! たまたまよたまたま! 通学路の周辺をちょっと確認しただけで……!」


「毎日じゃん」


「うるさいっ」


紅音の教科書が、悠真の後頭部に軽くぶつけられた。


その小さなやり取りを、斜め前方の席から環奈がノートに視線を落としたまま聞いていた。


(次元干渉の痕跡。確率場の歪み。遠山さんは何を言っているの……?)


環奈のペンが止まっていた。


異能。確率操作。次元干渉。聞き慣れない単語の断片が、環奈の頭脳に蓄積されていく。まだ全貌は見えない。パズルのピースが足りない。しかし、一つだけ確信できることがあった。


榊原悠真と遠山紅音が属している世界は、氷室環奈が知る「日常」の遥か外側にある。


そして、環奈は。


異能を持たず、戦闘技術もなく、ただ知性と観察力だけを武器にする、普通の人間である自分は。


その世界に、足を踏み入れようとしている。


(それでも、知りたい)


環奈はペンを握り直した。


(知的好奇心の前では、恐怖なんて変数のひとつに過ぎない。……そう、言ったからには)


チャイムが鳴った。


一限目が始まる。


日常が動き出す。その薄皮一枚の下で、非日常が蠢いていることを、教室の大半の生徒は知らない。


窓際の席で頬杖をつく平凡な少年。


その後ろで教科書を開く、赤い瞳の転入生。


そして斜め前方で、ノートにペンを走らせる、氷の才媛。


三つの世界が、一つの教室の中で交錯している。


亀裂は、静かに広がり続けていた。


第六章『観察者の資格――知りたいという罪』 に続く

――天叡結社≪エデン・オルド≫の闇の中で、もうひとつの事件が起きていた。


序列第二位《No.2》――正体不明≪アンノウン≫雨貝ハルキ。


本を読み、筋トレをし、サングラスをかけた男。


その穏やかな笑顔の下に何を隠しているのか、知る者は――もういない。

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