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第四章『次元の狩人――散歩者の殺意』(後編)

放課後。


悠真は鞄を手に教室を出た。


三日前に感じた確率場の揺らぎ。あれ以来、同じ揺らぎは検出されていない。しかし悠真の直感は告げていた。あれは下見だ。本番は、まだ来ていない。


校舎を出て、通学路を歩く。住宅街を抜け、川沿いの遊歩道に入る。この時間帯、遊歩道は人がまばらだ。


そして――来た。


確率場が、大きく乱れた。


三日前の針の先ほどの揺らぎではない。今度は明確な、意図的な空間干渉。


悠真は足を止めた。


夕暮れの遊歩道。川面が夕陽を反射してオレンジ色に光っている。


悠真の五メートル前方の空間が、裂けた。


暗黒の亀裂。次元の断面。裂け目が人の通れる大きさまで広がり、その中から一人の男が姿を現した。


赤羽斎。


黒い髪。灰色の左目。三日月形の笑み。


「よう、元No.13」


赤羽は裂け目から抜け出ると、両手をポケットに入れたまま、悠真を見た。


「三日前に下見した時、気づいてただろう? さすがだよ」


悠真は黙って赤羽を見つめた。


赤羽の立ち姿を、目を、口を、喉を、指先の動きを、全て観察する。≪虚数演算≫がバックグラウンドで赤羽の挙動を確率解析し続ける。


「わざわざ三日も間を空けたのは、俺の行動パターンを観察するためか。律儀だな」


「臆病なだけさ。確実に殺す方法を考えてた」


赤羽は笑った。嘘のない笑みだった。この男は自分の臆病さを恥じていない。むしろ合理的な美徳として誇っている。


「結論から言う。お前の席が欲しい。No.13の席。保留なんてふざけた話は、お前が死ねば解消される」


「盟主は放っておけと言ったはずだが」


「盟主の犬じゃないんでね」


赤羽の灰色の左目が、光った。


「じゃあ、始めるか」


その声と同時に――赤羽が口を開いた。


「開け≪オープン≫」


悠真の首の座標に、次元の裂け目が出現した。幅三ミリの暗黒の線。第三頸椎と第四頸椎の間。致命的な精度の斬撃。


「閉じろ≪クローズ≫」


裂け目が閉じる。


だが悠真の首は、そこにはなかった。


≪虚数演算≫。赤羽の空間認識にほんの数センチの誤差を生じさせ、裂け目が実体を捉える確率をゼロに落とす。同時に悠真自身が右に半歩ずれる。回避完了までのタイムラグ、〇・一五秒。


「――知ってたよ」


赤羽は笑みを消さなかった。


「一発目は当たらない。お前の確率操作なら、座標指定を歪められる。だから——」


赤羽の両手がポケットから出た。十本の指が開く。


「開け≪オープン≫、開け≪オープン≫、開け≪オープン≫、開け≪オープン≫、開け≪オープン≫——」


連続詠唱。


悠真の周囲に、無数の次元の裂け目が同時展開された。前後左右上下、全方位。逃げ場を塞ぐ包囲網。一つ一つは回避できても、十を超える裂け目が同時に閉じれば――確率操作だけでは捌ききれない。


「閉じろ≪クローズ≫ッ!」


全ての裂け目が、一斉に閉じた。


交差する暗黒の断面。逃げ場のない殺意の檻。


悠真は――跳んだ。


上方。唯一、裂け目の密度が低い方向。≪虚数演算≫で「上方の裂け目二本の閉合タイミングが〇・〇三秒遅れる確率」を百パーセントにし、生まれた隙間を縫って脱出。


着地。遊歩道の欄干の上。


「ほう」


赤羽が目を細めた。


「十三同時展開を抜けるか。さすが元No.13だ」


悠真の額に、汗が一筋流れていた。


(……やはり厄介だ。次元開閉は確率の外側からの攻撃。捌くのに、通常の数倍の演算リソースを消費する)


しかし――悠真の脳は、戦闘と並行して、冷徹に赤羽の能力を分析し続けていた。


三日前から仮説は立てていた。今日の戦闘で、それが確証に変わった。


次元開閉≪ディメンション・コントローラー≫の発動条件。


発声トリガー。


「開け≪オープン≫」と口にすれば裂け目が開く。「閉じろ≪クローズ≫」と口にすれば閉じる。先ほどの連続展開でも、赤羽は一つ一つ「開け」と口にしていた。十三回。省略はなかった。


つまり――声を出せなければ、この男の異能は発動しない。


悠真の口元に、笑みが浮かんだ。


(見つけた)


「何を笑っている」


赤羽の表情が初めて強張った。追い詰めているはずの自分が、追い詰められている側の人間に笑われている。その不気味さ。


「赤羽。お前の能力、ひとつ弱点があるな」


「ブラフか?」


「いいや」


悠真は欄干の上でゆっくりと立ち上がった。夕陽を背に、逆光のシルエット。


「今から、お前にそれを教えてやる」


虚数演算イマジナリー・カリキュレーション≫――発動。


悠真が操作したのは、戦場の確率ではなかった。


赤羽斎の体内の確率だった。


人間の喉は精密な器官だ。声帯は二枚の粘膜のヒダで、その間を空気が通過する際の振動が声になる。声帯の粘膜は乾燥に弱い。わずかな湿度の変化、わずかな血流の変動、わずかな筋肉の緊張――そうした微細な条件の積み重ねが、声の質を決定する。


悠真は、赤羽の声帯周辺の確率場を書き換えた。


「声帯粘膜の水分が急速に蒸発する確率」――百パーセント。


「喉頭の筋肉が痙攣する確率」――百パーセント。


「気管支の粘液分泌が異常亢進する確率」――百パーセント。


全てが同時に起きた。


「ッ——!!」


赤羽の喉が、枯れた。


突如として。前触れもなく。まるで砂漠の風に晒されたかのように。声帯が乾ききり、喉頭筋が痙攣して気道を締め上げ、気管支が粘液で詰まった。


「がっ……! ごほっ……ごほっ……!」


赤羽が喉を押さえて蹲った。咳が止まらない。声を出そうとしても、掠れた空気の音しか出ない。声帯が振動しない。


「お……おけ……ッ」


「開け」と言おうとしている。だが声にならない。掠れた吐息が虚しく漏れるだけだ。


悠真は欄干から降り、ゆっくりと赤羽に歩み寄った。


「次元開閉≪ディメンション・コントローラー≫。発動には音声トリガーが必要。『開け』と『閉じろ』。どちらも発声なしには起動しない。連続展開の時、一つも省略しなかったのが決定的だった。省略できるなら省略するはずだ。しなかったということは、できない」


赤羽は喉を掻きむしりながら、恐怖に歪んだ目で悠真を見上げた。


声が出ない。異能が使えない。


次元散歩者≪ディメンション・クローラー≫が、次元を歩けなくなった。


「が……ぐっ……」


赤羽の灰色の左目に、純粋な恐怖が浮かんでいた。これまでの戦闘で一度も見せなかった表情。臆病で、慎重で、安全な場所から一方的に殺すことしかしてこなかった男が、初めて味わう「無力」の感覚。


歌舞伎町の路地裏で、酔っ払いの手首を切った時と同じだ。圧倒的な力の差。一方的な殺意。ただし今度は、立場が逆転している。


赤羽は必死にもがいた。声を。声を出さなければ。ほんの一言でいい。「開け」の二文字さえ発声できれば、次元の裂け目を開いて逃げられる。


喉に力を込める。声帯を振動させようとする。だが粘膜は乾ききり、筋肉は痙攣し、空気は粘液に阻まれる。


それでも。


それでも赤羽は、全身の力を喉に集中させた。


「ぁ………………ッけッ」


出た。掠れた、途切れ途切れの、かろうじて「声」と呼べるかどうかの吐息。しかし確かに「開け」の音韻を含んでいた。


赤羽の背後に、次元の裂け目がわずかに開いた。不完全な発声による不完全な発動。裂け目は小さく、不安定に震えている。それでも人一人が通れる大きさは確保できた。


赤羽は這うようにして裂け目に飛び込んだ。


「逃げるか。……まあ、好きにしろ」


悠真は追わなかった。立ち尽くしたまま、裂け目が閉じていくのを見つめていた。


だが、その口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。


追う必要がなかったのだ。


赤羽は声が出ない状態で、残りの力を振り絞って「開け」を発声した。不完全な発動。裂け目の行き先を指定する余裕なんかなかったはずだ。


赤羽は必死で「逃げ先」を思い浮かべただろう。いつものセーフハウス、歌舞伎町の雑居ビル、結社の地下施設――どこでもいい、安全な場所へ。


だが。


悠真は既に、≪虚数演算≫で確率場を書き換えていた。


「不完全な発動で開いた次元の裂け目が、赤羽の意図した座標に繋がる確率」――〇パーセント。


「代わりに、特定の座標に繋がる確率」――百パーセント。


悠真が指定した座標は、事前に下調べ済みだった。三日間の猶予は、赤羽が悠真を観察するためだけに使われたのではない。悠真もまた、赤羽を迎え撃つ準備をしていたのだ。


* * *

赤羽斎は裂け目を抜けた。


暗闇から光へ。次元の断面を通過する一瞬の浮遊感。そして――


視界が開けた。


風が吹いている。強い風だ。髪が激しく煽られる。


空が見えた。夕暮れの空。茜色から紫へのグラデーション。


足元には――何もなかった。


赤羽の脳が状況を認識するまでに、一・五秒かかった。


空中にいる。


高い。


とてつもなく高い。


眼下に広がるのは、巨大なコンクリートの構造物。堤体。放水路。そしてその内側に湛えられた、膨大な量の水。


ダムだ。


赤羽は、ダムの真上――堤頂から百メートル以上の上空に、放り出されていた。


「な——」


叫ぼうとした。しかし声が出ない。喉は依然として枯れたままだ。声帯は動かず、掠れた空気が口から漏れるだけ。


「開け」と言えない。


次元の裂け目を開けない。


赤羽斎は、この世の全てを切り裂く異能を持ちながら——ただの人間として、落下し始めた。


重力が赤羽の体を掴む。自由落下。秒速九・八メートルの加速。風が悲鳴のように耳元を切り裂く。


ダム湖の水面が、急速に近づいてくる。


赤羽は必死に喉を振り絞った。声を。声を出せ。一言でいい。「開け」の二文字を。


「ぁ……か……ッ」


出ない。声帯が応えない。≪虚数演算≫による確率操作は、赤羽がこの空域に到達した後も持続していた。「声帯機能が回復する確率」がゼロに固定されている。


(嵌められた——!!)


赤羽は落下しながら、全てを理解した。


喉を枯らされたのは、異能を封じるためだけではなかった。不完全な発動で逃げようとすることも、逃げ先がダムの上空になることも、全て——計算済みだったのだ。


あの男は、赤羽が這ってでも「開け」を発声して逃げることを予測していた。そしてその逃げ先を、確率操作で書き換えた。次元の裂け目はちゃんと開いた。赤羽はちゃんと通過した。だが辿り着いたのは安全な場所ではなく、ダムの上空。


そしてダムに落ちた後はどうなる?


水の中。


水中では声は出せない。「開け」と発声できない。次元の裂け目を開けない。仮に落下の衝撃で死ななくても、水中で窒息するまで異能を発動する手段がない。


完封。


逃走経路すら支配下に置く、完全なる詰み。


赤羽の灰色の左目に、最後の感情が浮かんだ。


恐怖ではなかった。


「ああ……こりゃ勝てねえわ」


声にならない唇の動き。奇妙に清々しい、諦めの表情。


水面が目前に迫った。


衝撃。


百メートル以上の高さから水面に落下する衝撃は、コンクリートに激突するのとほぼ同義だ。人体の骨格と内臓が、その衝撃に耐えられるようには設計されていない。


巨大な水柱が上がった。


波紋がダム湖の水面を広がっていく。


やがて、波紋も消えた。


水面は再び静寂を取り戻した。


夕陽の最後の光がダム湖を照らし、水面が一面の黄金色に輝いた。


赤羽斎は浮かんでこなかった。


* * *

遊歩道。


赤羽が消えた空間を見つめていた悠真は、しばらく無言で立ち尽くしていた。


≪虚数演算≫が告げている。赤羽の生体反応確率がゼロに収束したことを。


風が吹いた。川面が夕陽を反射して揺れている。


「……」


悠真はポケットに手を入れた。


感傷はなかった。赤羽は悠真を殺しに来た。そして悠真は、それに対処した。ただそれだけの話だ。


しかし、脳裏をよぎるものがあった。


歌舞伎町の路地裏。昨夜のニュースで見た記事。「男性が手首の切創で死亡、自傷行為か」。その記事を見た瞬間、悠真の≪虚数演算≫は即座に確率を弾き出していた。あの傷が自傷である確率、〇・三パーセント。次元開閉による切断である確率、九十九・七パーセント。


赤羽斎は、見知らぬ酔っ払いの命を、路地裏の退屈しのぎのように奪った。


だから悠真は、赤羽の逃げ先を変えた。安全な場所ではなく、ダムの上空に。


それは正義ではなかった。報復でもなかった。


ただ、面白そうだから弱い方についた男が、弱い方を一方的に踏み潰す人間を、排除しただけだ。


「……帰るか」


悠真は踵を返した。


遊歩道を歩き始める。オレンジ色の夕陽が、彼の長い影を背後に引きずっていた。


明日も学校がある。平凡な少年を演じる日常が続く。テストで平均点を取り、体育で手を抜き、クラスメイトと笑い合い、空気のように過ごす。


その日常に、今は二つの変数が加わっている。


真実を求める氷の才媛。


怒りと執念を纏う炎の簒奪者。


そしてもうひとつ。目に見えない変数が。


天叡結社≪エデン・オルド≫は、赤羽の失踪をいずれ知る。独断行動の結果だから組織としての報復はないかもしれない。だが――悠真が「やれる」ことを、改めて証明してしまった。


「やれやれ」


悠真は夕陽に向かって呟いた。


「退屈しないのはいいけど……ちょっと忙しくなりそうだな」


その声を聞く者は、誰もいなかった。


川面を渡る風だけが、少年の独り言を攫って消えた。


第五章『亀裂――日常と非日常の境界線』 に続く

――次元を歩く狩人は、水底に沈んだ。


声を奪われ、翼を折られ、自らが開いた扉の先で。


これが、榊原悠真の「対処」だ。正面から力でねじ伏せるのではない。


相手の能力を分析し、弱点を特定し、逃走経路すら支配下に置いて、一手も打たせずに詰ませる。


チェスの盤上で、相手の駒を一つも取らずにチェックメイトするように。


――だが、盤上の駒を動かしている者が、もうひとりいることを、悠真はまだ知らない。

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