第四章『次元の狩人――散歩者の殺意』(前編)
遠山紅音の転入から三日が経った。
その三日間で、都立桜ヶ丘高校の二年B組の勢力図は完全に塗り替えられていた。
従来の構図はこうだった。学力の頂点に氷室環奈。容姿と人望を兼ね備えた不動のクラスアイドル。そしてその他大勢。榊原悠真は「その他大勢」の中でも特に印象の薄い、空気のような存在だった。
そこに遠山紅音が加わったことで、二年B組には二つの太陽が並び立つ異常事態が発生した。
氷室環奈――知性の女王。
遠山紅音――万能の新星。
クラスメイトたちは無意識のうちに比較した。どちらが上か。どちらが凄いか。
英語は紅音が上だった。ネイティブの発音は環奈にも真似できない。だが筆記の正確性と論理構成では環奈が上回った。数学は拮抗。紅音は直感的な閃きで解を導き、環奈は緻密な論理で同じ解に辿り着く。体育は紅音が圧倒的だった。環奈も運動はできる方だが、紅音の身体能力は次元が違った。
しかし環奈が紅音に勝る点がひとつあった。
観察力。
氷室環奈は、遠山紅音を観察していた。そして、紅音が観察しているものを、観察していた。
四月二十日。水曜日。昼休み。
環奈は購買で買ったサンドイッチを片手に、自席で本を読むふりをしながら、斜め後ろの席に座る紅音を視界の端に捉えていた。
紅音は女子グループに囲まれて楽しそうに喋っている。笑顔は自然で、仕草は愛らしく、会話のテンポも完璧。転入三日目にしてクラスの女子の過半数と仲良くなっているのは、コミュニケーション能力の高さを如実に示していた。
だが。
環奈の目は、紅音の視線の動きを追っていた。
紅音は女子たちと話しながら、三十秒から四十五秒に一度、必ず視線をある方向に動かしている。ほんの一瞬。瞬きの間に紛れ込ませた、訓練された視線移動。普通の人間には気づかれない。
しかし、環奈は普通の人間ではなかった。
紅音の視線の先は――榊原悠真。
窓際で一人、弁当を食べている少年。
(やっぱり)
環奈はサンドイッチを一口かじりながら、思考を巡らせた。
(遠山さんは、榊原くんを監視している。転入初日からずっと。しかもそれを、他の生徒に悟られないように巧妙に隠している。この技術は……普通の高校生のものじゃない)
環奈は転入初日の記憶を呼び起こした。紅音が教室に入ってきた瞬間、悠真の指先が机の下で動いた、あの微かな反応。そして紅音が悠真の後ろの席に座った時、小さく何かを呟いた。悠真にしか聞こえない声量で。
(二人は、この学校で出会う前から知り合い。それも、ただの知り合いじゃない。遠山さんが榊原くんに向ける視線には、複数の感情が混在している。警戒、敵意、そして……もうひとつ、本人も自覚していなさそうな何か)
環奈は本のページをめくった。内容は頭に入っていない。
(私が榊原くんの正体を追っているのと同じように、遠山さんも榊原くんに執着している。彼女は何者で、榊原くんとどんな関係なの?)
その時だった。
「――氷室さん、だよね?」
顔を上げると、遠山紅音が目の前に立っていた。
女子グループから離れて、いつの間にか環奈の席まで来ていた。足音もなく。気配もなく。環奈が思考に没入していた隙を突くように。
環奈の背筋に、微かな緊張が走った。
紅音は人懐こい笑顔を浮かべていた。しかし赤い瞳の奥には、笑顔とは異なる温度がある。
「ちょっとお話しない? 転入してから、まだ氷室さんとちゃんと喋ってなかったなって思って」
「……ええ、いいわよ」
環奈は本を閉じ、微笑みを返した。
紅音が隣の空き席に腰かける。二人の距離、約四十センチ。
「氷室さんって、学年一位なんだってね。すごいなぁ」
「ありがとう。でも遠山さんも相当よ。転入初日の数学、教師が固まってたわ」
「あはは、あれはちょっとやりすぎたかも」
紅音は舌を出して笑った。無邪気な仕草。だが環奈は見逃さなかった。紅音の赤い瞳が、一瞬だけ鋭く光ったことを。
世間話が二往復。三往復。教科の話。教師の話。学食のメニューの話。表面上は和やかな、女子高生同士の何気ないおしゃべり。
しかし水面下では、二つの知性が互いを測り合っていた。
紅音が先に仕掛けた。
「ねえ、氷室さん。ひとつ聞いてもいい?」
「なに?」
「氷室さんって、よく榊原くんのこと見てるよね」
環奈の心拍が、わずかに上がった。顔には出さない。
「……見てる?」
「うん。授業中とか、昼休みとか。さりげなくだけど、視線が榊原くんの方に行ってる。気のせいかな?」
紅音の笑顔は崩れない。だが質問の核心は鋭利だった。
環奈は一拍の間を置いた。嘘をつくか、真実を言うか。
(この子は、私が榊原くんを観察していることに気づいている。つまり――この子自身も、榊原くんを観察しているからこそ、私の視線に気づいた)
環奈は微笑んだ。
「気のせいじゃないわ。確かに、榊原くんのことは少し気になっている」
紅音の赤い瞳が、ほんの一瞬だけ鋭くなった。だがすぐに笑顔で覆い隠す。
「へー、気になるんだ。どういう意味で?」
「学問的な興味よ。彼のテストの点数に統計的な異常があるの。毎回、全教科の得点が学年平均と一致する。確率的にあり得ない精度で」
環奈は嘘をつかなかった。事実の一部だけを開示した。
紅音は数秒、環奈の目を見つめた。それから、ふっと笑った。
「氷室さんって、面白い人だね。テストの点数の統計を取って男の子を観察するなんて、普通の女の子はしないよ」
「私は普通じゃないもの」
「……うん、それは、わかる」
紅音の声に、わずかな感嘆の色が混じった。本物の感情だった。
環奈はこの瞬間を逃さなかった。
「お返しに、ひとつ聞いてもいい?」
「どうぞ」
「遠山さんも、榊原くんのことを見ているわよね。私と同じくらい――いいえ、私よりも頻繁に」
紅音の笑顔が、ほんの一瞬だけ固まった。
環奈は続けた。
「三十秒から四十五秒に一度。女子と話している時も、授業中も。必ず彼の方を確認している。しかもそれを隠す技術がとても高い。普通の人には絶対に気づかれないレベルで」
紅音の赤い瞳が見開かれた。
見抜かれた。自分の監視行動を、たった三日で、異能も使わず。
(この人――何者?)
紅音の中で、氷室環奈に対する評価が瞬時に書き換えられた。ただの秀才ではない。異能を持たない人間としては、あり得ないレベルの観察力。
紅音は数秒間沈黙した後、ふぅ、と息を吐いた。
「……氷室さん、あなた、怖い人ね」
「よく言われるわ」
二人は見つめ合った。
微笑みの下で、互いの底を測り合う視線。知性と知性が火花を散らす、静かな対峙。
それからほぼ同時に、二人の視線が同じ方向に動いた。
窓際の席。
榊原悠真は弁当を食べ終えて、机に突っ伏して昼寝をしていた。
二人の少女が火花を散らしていることなど、露知らず。少なくとも表面上は。
紅音と環奈は、寝ている悠真を見て、それからもう一度顔を見合わせた。
「……ねえ、氷室さん」
「なに?」
「私たち、もしかしなくても、同じ人のことで頭を悩ませてない?」
環奈は小さく笑った。
「そうみたいね」
紅音も笑った。今度は作った笑顔ではなく、半ば呆れたような、自嘲気味の笑み。
「あーあ、なんか悔しいな。こんな……寝てるだけの男のことで」
「同感ね」
二人の視線の先で、悠真が寝返りを打った。平和そのものの寝顔。よだれが少し垂れている。
「……かっこよくはないわよね」
「全然」
紅音と環奈は顔を見合わせ、今度は本当に笑った。
初めての共犯めいた笑い。
教室の片隅で、榊原悠真という謎を共有する二人の少女の、奇妙な共鳴が始まっていた。
* * *
五限目。現代文。
教師の単調な朗読が教室に流れる中、紅音は教科書を立てて、その陰でこっそり考え事をしていた。
氷室環奈。
あの観察力は異常だ。異能なしであそこまで他人の行動パターンを読み取れる人間は、結社の中にもそういない。序列第三位≪ハッカー・オブ・ハッカーズ≫久能昌はデジタル領域では無敵だが、対面でのヒューマンリーディングに関しては、環奈の方が上かもしれない。
(あの人は、榊原悠真の異常に気づいている。テストの統計分析から。でも、結社のこととか、異能のこととかは、まだ知らないはず……)
紅音は前の席の悠真の後頭部を見た。
(悠真は、氷室さんにどこまで話したんだろう)
少しだけ、胸がちくりとした。
紅音はその感覚を「怒り」だと解釈した。悠真が結社の外の人間に秘密を漏らしているかもしれないことへの、正当な怒り。うん、そうに違いない。他の解釈は却下する。
(……でも、あの人が敵じゃないなら)
紅音は教科書の陰で、小さく唇を噛んだ。
(悠真を守る上では味方にできるかもしれない。異能は持っていなくても、あの頭脳は役に立つ。それに、万が一、結社の刺客が来た時に)
紅音は思考を中断した。
刺客。
結社を抜けた悠真を狙う者。
紅音自身がこうしてここにいるのも、もとはと言えばそれが心配だからだ。口では「勝ち逃げ許さない」と言っているが、本音は――悠真にどうか無事でいてほしい、死んでほしくない、ということだ。もちろん本人には死んでも言わないが。
紅音は自分の認識が甘かったことを自覚していた。
先日の十三席会議で、盟主は「放っておけ」と言った。だが、結社には十三席以外にも実力者がいる。序列保持者候補たち。十三席の空席を狙って牙を研いでいる連中。盟主の言葉に必ずしも従わない、野心的な異能者たち。
そして今、悠真のNo.13の席は空席のまま保留にされている。
あの席を手に入れるために、悠真を消そうと考える輩がいてもおかしくない。
(私が、守らなきゃ……)
紅音は教科書を握る手に、力を込めた。
(万象の簒奪者≪オムニ・テイカー≫は、確かに悠真の≪虚数演算≫には勝てなかった。でも、悠真以外の敵からなら、悠真を守れる。世界中のあらゆる戦闘技術を複製できる私なら)
前の席の後頭部を見つめながら、紅音は密かに決意を固めていた。




