第三章『転入生――万象の簒奪者、現る』(後編)
* * *
同刻。
日本国内のどこか。天叡結社≪エデン・オルド≫の所有する、別の地下施設。
薄暗い個室の中で、ひとりの男が壁にもたれかかっていた。
二十代前半。痩身長躯。黒い髪を無造作に伸ばし、片目を隠している。露出した左目は濁った灰色で、その瞳の奥に何かが蠢いているように見えた。
赤羽斎。
天叡結社≪エデン・オルド≫序列保持者候補。二つ名、次元散歩者≪ディメンション・クローラー≫。
「散歩者」という柔らかな名に反して、その異能は凶悪の一語に尽きた。
≪次元開閉≫——「開け」と口にすれば、空間に次元の裂け目が開く。「閉じろ」と口にすれば、それが閉じる。たったそれだけの、シンプルな能力。
しかし、シンプルであるがゆえに応用範囲は無限だった。
任意の座標に裂け目を開けば、どこでもドアのように世界中を自由に移動できる。遠隔地にいる対象の目の前に、一瞬で出現できる。奇襲に、逃走に、偵察に、これ以上ない異能だった。
そして——最も恐ろしい使い方。
対象物が存在する座標で次元を開閉する。それだけで、裂け目の断面がどんな物体でも確実に切断する。鋼鉄だろうと、ダイヤモンドだろうと、人体だろうと関係ない。次元の断面に硬度という概念は存在しない。この世の全ての物質を、紙を裂くように切り裂く、究極の切断能力。
赤羽斎は、その異能を持ちながら、序列十三席には入れていなかった。
実力は十分だった。結社の評価も高かった。ただ——席が空いていなかったのだ。十三席は文字通り十三の椅子。一つでも空席がなければ、新たな序列保持者は生まれない。
そこに、転機が訪れた。
No.13——虚数領域の観測者≪イマジナリー・オブザーバー≫榊原悠真の離脱。
赤羽は興奮した。ようやく席が空く。自分が十三席に名を連ねる日が来る。
しかし、結果は——
「No.13の席は空席のまま保留とする」
盟主≪アーキテクト・ゼロ≫の一言で、赤羽の昇格は凍結された。
悠真が正式に除名されたわけではない。辞表は受理されたが、席を剥奪する決定は下されていない。つまり悠真の席は「主人不在のまま予約済み」という、曖昧な状態で放置されている。
それが——赤羽斎には、どうしても許せなかった。
「保留だと……? 辞めた人間の席を、空けたまま?」
赤羽は壁を殴った。次元の裂け目が一瞬走り、コンクリートの壁に髪の毛ほどの切り込みが入った。
「あのガキが辞表一枚で出て行って、その席に俺が座るはずだった。なのに保留? あいつがいつ戻ってきてもいいように席を温めておけってことか?」
赤羽の灰色の左目が、暗闇の中で歪んだ光を放った。
「ふざけるなよ……」
赤羽は壁から背を離し、部屋の中央に立った。ポケットからスマートフォンを取り出す。画面に表示されているのは、ある高校の住所。
「榊原悠真。居場所は分かっている。No.3≪ハッカー・オブ・ハッカーズ≫のネットワークから情報を拝借するまでもない。あのガキ、自分の所在を隠そうともしていない。舐められたものだ」
赤羽は唇の端を吊り上げた。笑みというには歪みすぎた、三日月形の口元。
「盟主は放っておけと言った。だが——俺は盟主の犬じゃない」
赤羽は右手を持ち上げた。
「No.13の席は、俺が奪う。手っ取り早く——あのガキを消せばいい。席の主が死ねば、保留も何もない。自動的に空席になる」
指を鳴らした。
ぱきん、と。乾いた音が部屋に響いた。
同時に——赤羽の眼前に、虚空が裂けた。暗黒の裂け目。この世ならざる断面が、空間に口を開けている。裂け目の向こうには、夕暮れの街並みが見えた。都立桜ヶ丘高校の校舎が、遠くに小さく映っている。
「開け≪オープン≫」
赤羽が一歩、裂け目に足を踏み入れた。
「会いに行ってやるよ、元No.13。俺の昇格を邪魔するなら——」
次元の裂け目が赤羽の背後で閉じていく。
「——その首、胴体から切り離してやる」
裂け目が消えた。
部屋には、壁に刻まれた髪の毛ほどの切り込みだけが残されていた。
* * *
空き教室に西日が差し込んでいた。
紅音との会話を終えた悠真は、窓辺に腰かけて夕陽を眺めていた。紅音は「明日も学校で会うんだからね!」と捨て台詞を残して帰っていった。
静かな放課後。遠くでブラスバンド部の練習が聞こえる。
悠真はポケットからスマートフォンを取り出し、画面を一瞥した。何も表示されていない。だが、悠真の瞳の奥では≪虚数演算≫が常時稼働している。周囲の確率場を、呼吸をするように自然にモニタリングし続けている。
そして――感じた。
ほんの一瞬。針の先ほどの違和感。
確率場の、不自然な揺らぎ。
空間が「裂けかけた」痕跡。実際に裂けたのではない。裂けようとして、寸前で止まった――あるいは、下見をしたような。
誰かが、この座標に、次元干渉系の異能を向けた。
悠真の目が細くなった。
「……」
ブラスバンドのトランペットが、遠くで間延びした音を鳴らしていた。
悠真は揺らぎの残響を分析した。≪虚数演算≫で確率場の歪みを遡り、干渉の発信源を逆算する。だが――痕跡は薄すぎた。ほんの一瞬の接触。指先で水面に触れてすぐに引いたような、最小限の干渉。発信源の座標は特定できない。
ただ、ひとつだけわかることがあった。
この揺らぎのパターンは、天叡結社≪エデン・オルド≫のデータベースで見たことがある。
次元開閉≪ディメンション・コントローラー≫。
空間に次元の裂け目を開き、閉じる能力。序列保持者候補の一人が持つ異能。
悠真は記憶を探った。候補者リストの中に、その能力の保有者がいた。
赤羽斎。二つ名、次元散歩者≪ディメンション・クローラー≫。
悠真自身が十三席≪No.13≫に就いたことで、昇格を阻まれた男。悠真が離脱した今、最も十三席に近い位置にいる実力者。
「なるほど」
悠真は窓の外を見た。夕陽が沈みかけている。校庭を横切る生徒たちの影が長く伸びていた。平和な、日常の光景。
「席が欲しくて、俺を消しに来るってわけか」
声に緊張はなかった。だが、悠真の脳は既にフル稼働していた。
次元開閉。厄介な能力だ。
確率操作で「物理現象の結果」を歪めることはできる。だが次元干渉は、物理法則の外側から攻撃してくる。確率場の制御だけで完全に対処できるかどうかは未知数だった。
(……だが、能力には必ず発動条件がある)
悠真は結社時代のデータを思い出した。赤羽斎の能力プロファイル。詳細は機密扱いだったが、断片的な情報はある。
(次元開閉の発動トリガー。確か――)
まだ足りない。情報が足りない。推測はできるが、確証がない。
実際に相対して、観察する必要がある。
悠真は空き教室を出て、階段を下りた。
昇降口で靴を履き替えながら、ふと笑みを浮かべた。
(結社を辞めて一週間で、もう刺客か。環奈に正体を疑われて、紅音が転入してきて、おまけに暗殺者まで来る)
退屈とは程遠い日常。
悠真は校門を出て、夕暮れの道を歩き始めた。
「――悪くない」
その呟きを聞く者は、誰もいなかった。
* * *
同時刻。
東京・歌舞伎町。雑居ビルの裏路地。
夜の街が目を覚まし始める時間帯。ネオンの光が路地の入り口を彩っているが、その奥は暗く、湿った空気が淀んでいた。
赤羽斎は路地の壁にもたれて、スマートフォンの画面を見つめていた。画面には、先ほど「下見」した座標のデータが表示されている。都立桜ヶ丘高校、東棟四階、空き教室。
「……いたな」
赤羽は呟いた。次元の裂け目をほんの一瞬だけ開き、目標の座標を確認した。榊原悠真。確かにあの学校にいる。
しかし、直接仕掛けるのは早い。
赤羽は慎重な男だった。いや――臆病と言った方が正確かもしれない。正面から戦えば勝てる相手にも、必ず裏口から近づく。リスクを冒さない。安全な場所から、確実に、一方的に殺す。それが赤羽斎の流儀だった。
「元No.13の≪虚数演算≫は確率操作。俺の≪次元開閉≫との相性は未知数だ。情報が足りない。もう少し、観察が必要だな」
赤羽はスマートフォンをポケットにしまった。
その時だった。
「おいおいおい、にーちゃん」
路地の入り口から、男が一人、ふらふらと入ってきた。四十代半ば。スーツは皺だらけで、ネクタイは緩んでいる。顔は赤く、足元は覚束ない。酔っ払いだ。
「こんなとこで何してんの? え? ナンパの待ち伏せ?」
男はゲラゲラと笑いながら、赤羽に近づいてきた。酒臭い息が路地に充満する。
「……通り過ぎてくれ」
赤羽は低い声で言った。
「あ? なんだよその態度。若いくせに生意気だなぁ」
男が赤羽の肩を掴んだ。太い指が、赤羽の黒いジャケットの布地を握りしめる。
「おい、こっち向けよ。先輩が話しかけてんだろ」
赤羽は動かなかった。
灰色の左目が、酔っ払いの顔を見た。
「……手を離せ」
「はぁ? 偉そうに――」
赤羽は、微かに唇を動かした。
路地に吸い込まれるほど小さな声で。酔っ払いの耳には絶対に届かない音量で。
「開け≪オープン≫」
男の左手首の座標に、次元の裂け目が生じた。
幅〇・五ミリ。長さ三センチ。皮膚の表面から、深さ一センチ。手首の内側、橈骨動脈の直上。
「閉じろ≪クローズ≫」
裂け目が閉じた。
所要時間、〇・一秒未満。
男は何も感じなかった。痛みすら、一瞬遅れてやってくる。次元の断面は神経を切断するより速い。
「――あ?」
男が自分の左手首を見た。
一筋の赤い線が、手首の内側に浮かび上がっていた。血が、滲み出している。
線は、正確に手首の横方向に走っていた。
まるで――カッターナイフで自分の手首を切ったような、綺麗な一直線。
「え……? なん……」
血の滲みが、急速に広がった。橈骨動脈が断裂している。心臓の拍動に合わせて、鮮血が脈打つように溢れ出す。
男の顔から酔いが消え、青ざめた。
「う、うわっ……! な、何だこれ……! 血が……!」
男が手首を押さえて蹲る。しかし動脈からの出血は、手で押さえた程度では止まらない。指の隙間から赤い液体が溢れ、路地のアスファルトに水たまりを作っていく。
赤羽は壁にもたれたまま、その光景を無表情で見ていた。
「た、助け……」
男が這うように路地の入り口に向かう。しかし足に力が入らない。急速に失血が進んでいる。意識が朦朧としてくる。
「誰か……誰か助けて……」
声は弱々しく、ネオンの喧騒に掻き消された。
赤羽は男の横を通り過ぎ、路地を出た。振り返りもしない。
やがて――路地の奥で、何かが倒れる音がした。それきり、声は聞こえなくなった。
翌朝のニュースは、こう報じるだろう。
「歌舞伎町の路地裏で男性死亡。手首に切創、自傷行為か。遺書は見つかっておらず、飲酒による衝動的行為の可能性」
警察は事件性なしと判断する。傷は一本。方向は手首の横方向。典型的なリストカットの形状。凶器は見つからないが、割れたガラス片か何かで自分で切ったのだろうと推定される。酔っ払いの自傷事案。よくある話だ。
次元の裂け目で切られたなどと、誰が想像できる?
赤羽は歌舞伎町のネオンの中を歩きながら、ポケットに手を入れた。
唇の端が、三日月形に歪んでいる。
「……さて」
灰色の左目が、夜空を見上げた。
「もう少し準備ができたら、行くとするか。元No.13」
雑踏の中に、赤羽の姿が溶けて消えた。
路地裏では、男の血が、アスファルトの上でゆっくりと冷えていった。
第四章『次元の狩人――散歩者の殺意』 に続く
――日常の隣に、殺意が忍び寄っている。
次元を裂く刃は、音もなく、痕跡もなく、命を刈り取る。
そしてその刃は、今――ひとりの少年に向けられようとしていた。




