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第三章『転入生――万象の簒奪者、現る』(前編)

遠山紅音は、行動が早い。


決めたら即座に動く。それは異能で複製した才能のおかげではなく、生来の性分だった。考えて、結論を出して、実行する。そのサイクルが異常に速い。天叡結社≪エデン・オルド≫の序列保持者たちが「あの小娘は猪みたいだ」と陰で囁くのも無理はなかった。


悠真の所在を特定した翌日。紅音は結社の事務方に連絡を入れた。


「転入手続き、お願いしたいんだけど」


事務方の担当者は無言で数秒固まり、それから恐る恐る聞いた。


「……どちらの学校へ?」


「都立桜ヶ丘高校。二年B組。明後日から」


「明後日……? No.7、さすがにそれは――」


「できるでしょう? 天叡結社が本気で手を回せば、一国の政権だって転覆できる。高校の転入書類ぐらい、お茶の子さいさいよね?」


事務方は深い溜息をつき、「承知しました」と答えた。天叡結社≪エデン・オルド≫の事務部門は世界最高峰の書類偽造能力と制度ハッキング能力を有している。各国の戸籍、学歴、経歴、信用情報――あらゆる公的記録を、痕跡を残さず書き換えられる。公立高校の転入手続きなど、文字通り朝飯前だった。


二日後。紅音の手元には完璧な転入書類一式が届いた。


偽名は使わない。遠山紅音のまま。容姿が特徴的すぎるので、どうせ偽名を使ったところで意味がないと判断した。異能で他人の顔を複製することもできるが、それでは悠真に正体を隠すことになる。紅音の目的は潜伏ではない。


正面から乗り込むのだ。


制服を合わせ、鏡の前に立つ。都立桜ヶ丘高校の紺色のブレザーに、チェック柄のスカート。プラチナブロンドの髪に赤い瞳という組み合わせは、どこをどう見ても普通の転入生には見えなかったが――まあ、些末な問題だ。


紅音は鏡に向かって微笑んでみせた。


完璧。


だが、その笑顔がふと曇った。


ひとつ、引っかかることがあった。


以前、序列第三位《No.3》――電脳支配者≪ハッカー・オブ・ハッカーズ≫久能昌は、会議の場でこう言っていた。


『俺の全衛星ネットワークを使っても、あいつが本気で隠れたら捕捉率は〇・〇二パーセント以下だ』


久能昌。十二カ国の軍事衛星を掌握し、人類のデジタルインフラの四割を支配下に置く電子の暴君。その全力をもってしても捕捉率〇・〇二パーセント。


それなのに。


紅音は、異能を発動させただけで——ものの十分で悠真の居場所を特定できた。


世界最高の情報分析官のスキルを複製して、公開情報と断片的なデータから居場所を割り出した。確かに超一流の技術だが、久能の全衛星ネットワークに比べれば、桁違いに手段が限られている。


つまり。


悠真は、居場所を本気で隠す気がない。


虚数演算イマジナリー・カリキュレーション≫で確率を操作すれば、あらゆる検索、あらゆる追跡を空振りに終わらせることができる。「追跡者の分析が正しい結論に到達する確率」をゼロにすればいい。それだけで、地球上のどこにいても完全な透明人間になれる。


なのに、紅音の検索は正しい結論に到達した。


それが意味することは、ひとつ。


悠真は紅音の――いや、結社の追跡を、わざと通している。


なぜか。


紅音は鏡の前で、唇を噛んだ。


なんとなくわかった。わかってしまった。


認めたくないが、一年間同じ組織にいて、あの男の行動原理だけは理解してしまっている。


……面白そうだから、だ。


結社の追跡を遮断して、完全に安全な場所に隠れる。それは賢明だが、退屈だ。追っ手が来るかもしれない。刺客が送られるかもしれない。その方が面白いから、あえて防御を最小限にしている。


紅音は悠真のことを、結社の中では誰よりも深く知っていると自負していた。だからこそわかる。あの男の行動原理は、常人の尺度では測れない。合理性でも、利益でも、正義でも、悪意でもない。ただ純粋に、「退屈か、退屈じゃないか」。世界の全てを、その一点で判断する。


悠真とて、結社の脅威を軽視しているわけではないだろう。十三席の序列保持者を筆頭に、人智を超えた化物揃いなのは、彼自身が身をもって知っている。No.1の盟主≪アーキテクト・ゼロ≫に至っては、異能の全容すら把握されていない、底知れない存在だ。


それでも。


ふざけた理由で無茶をやるのが、榊原悠真という人間なのだ。


「……ほんと、バカ」


紅音は鏡の中の自分に向かって呟いた。


その声には、怒りだけではない、別の何かが混じっていた。本人はまだ気づいていなかったが。


* * *

四月十七日。月曜日。都立桜ヶ丘高校。二年B組。


一限目が始まる五分前、担任の中年教師が教室に入ってきた。その表情がいつもと違う。何かを抱えている。わくわくしているような、困惑しているような、曖昧な笑顔。


「えー、皆さんに、お知らせがあります。今日から、転入生が来ます」


教室がざわついた。四月も半ば過ぎの転入は珍しい。


「じゃあ、入ってきてください」


教室の扉がスライドした。


一歩目で、空気が変わった。


プラチナブロンドの髪。赤い瞳。人形のように整った顔立ち。小柄だが、姿勢が完璧で、存在感が身長を凌駕している。紺色のブレザーを着こなす様は、制服のモデル撮影のように様になっていた。


紅音は教壇の前に立ち、教室を見渡した。


沈黙。


そして——


「女子だ!!」


男子生徒の一人が叫んだ。それを皮切りに、教室が爆発した。


「おおおおー!」「かわいいっ!」「マジで!?」「え、外国人!?」


男子たちの歓声が窓ガラスを震わせる。田中などは椅子から半分立ち上がって、口を開けたまま固まっていた。


女子たちも負けていなかった。


「ねえ、どこから来たの!?」


「その髪、地毛? きれいすぎない?」


「赤い目きれい! アルビノ? カラコン?」


「えー、カラコンであの色出るかなぁ」


質問の嵐が飛んでくる。紅音はひとつひとつに微笑みで応えながら、心の中で密かにドヤ顔を作った。


(ふふん)


唇の端がわずかに持ち上がる。得意の顔だ。


(私のすごさは、見た目だけじゃないんだから。まあ……なんでも完璧な私に、後でたっぷり驚くといいわ)


紅音はチョークを手に取り、黒板に名前を書いた。流麗な筆跡。


遠山紅音


「遠山紅音です。訳あってこちらに転校してきました。よろしくお願いします」


声も完璧だった。張りがあって、よく通り、明るさの中に品がある。異能で複製した声楽家の発声技術を、自然に聞こえる程度に抑えて使っている。初対面の印象を最大化する声のトーンと抑揚を、紅音は知り尽くしていた。


教室の興奮が冷めやらぬ中、担任が席を指示する。


「遠山さんの席は……えーと、窓際の後ろから三番目。空いてる席があるから、そこで」


紅音は頷いて、指定された席に向かった。


通路を歩きながら、視線をさりげなく巡らせる。


いた。


窓際。後ろから二番目。紅音の席の、ひとつ前。


榊原悠真が、頬杖をついて窓の外を見ていた。


まるで転入生騒ぎなど存在しないかのように。周囲のクラスメイトが歓声を上げている中、ただ一人、微動だにしない。退屈そうな横顔。見慣れた、あの顔。


紅音は悠真の横を通り過ぎる瞬間、足を止めた。


「……」


悠真は窓から視線を外さない。


紅音の赤い瞳が、わずかに細くなった。


(無視する気? ……上等よ)


紅音は何も言わず、悠真の後ろの席に着いた。鞄を机の横にかけ、椅子に座る。悠真の後頭部が目の前にある。無造作に跳ねた黒髪。あの日と同じ。一年前、訓練フロアで見上げた後ろ姿と同じ。


紅音は教科書を開きながら、小さく呟いた。


悠真にだけ聞こえる声量で。


「……逃げられると思わないことね」


悠真の肩が、かすかに動いた。


笑ったのか、溜息をついたのか、紅音には判別できなかった。


* * *

転入初日の紅音は、予想通り――いや、予想以上に学校を席巻した。


二限目の英語。教師に当てられた紅音は、教科書の英文を読み上げた。ネイティブスピーカーも舌を巻くほどの完璧な発音だった。イギリス英語の気品ある響き。教室が静まり返った。


「と、遠山さん……帰国子女?」


「いえ、独学です」


教師が言葉を失い、女子たちが「すごーい!」と歓声を上げた。


三限目の体育。種目はバスケットボール。紅音は初参加にもかかわらず、パス回し、ドリブル、シュート、全てにおいて他の生徒を圧倒した。NBAのトッププレイヤーの技術を異能で複製しているのだから当然だが、出力は七割程度に抑えている。それでも十分すぎるほど目立った。


「遠山さんってバスケ部だったの!?」


「ううん、初めて」


「初めてであれ!?」


紅音は涼しい顔で髪をかき上げた。内心ではドヤ顔が止まらない。


(ふふん。これでもまだ手を抜いてるんだから)


四限目の数学。教師が出した応用問題を、紅音は三十秒で解いた。黒板に書いた解法は美しく簡潔で、教師が「これは大学レベルの解法だね……」と呟いた。


昼休み。紅音の机の周りには、男女を問わず人だかりができた。


「遠山さん、お昼一緒に食べよ!」「部活どうするの? うちの部に来てよ!」「インスタやってる?」


紅音は一つ一つに笑顔で応じながら、ちらりと視線を前の席に向けた。


悠真は一人で弁当を食べていた。周囲の喧騒など聞こえていないかのように、黙々と箸を動かしている。


(……あの態度。相変わらずね)


紅音は少しだけ唇を尖らせた。クラスに旋風を巻き起こしている転入生が真後ろの席にいるのに、一ミリも興味を示さない。あの日と同じだ。組織にいた時と同じ。誰のことも見ていない、あの目。


(いいわ。放課後に、たっぷり話してあげる)


そして、紅音が人だかりに囲まれている時、教室の隅でもうひとり、静かに転入生を観察している人間がいた。


氷室環奈。


環奈は自席で本を読むふりをしながら、分析していた。


(遠山紅音。転入初日であの完成度。英語、運動能力、数学。全てにおいて、この学校のレベルを逸脱している。しかも本人は余裕そのもの。手を抜いている気配すらある)


環奈の目が細くなった。


(そして――彼女が転入してきた瞬間、榊原くんの気配が変わった。ほんの一瞬だけ。他の誰にも気づかれないほど微かに。でも私は見た。彼の指先が、机の下でわずかに動いた)


環奈はページをめくる振りをしながら、思考を続けた。


(彼女は何者? 榊原くんと、どういう関係?)


知りたい。知らなければならない。


氷室環奈の知的好奇心が、新たな変数の出現に、激しく燃え上がっていた。


* * *

放課後。


クラスメイトたちが帰り支度を始める中、紅音は鞄に手をかけたまま、前の席を見た。


悠真が席を立つ。鞄を肩にかけ、教室の出口に向かう。


紅音はすかさず立ち上がり、その背中を追った。


廊下に出る。人通りが多い。部活動に向かう生徒、下校する生徒が行き交っている。この場所では話せない。


悠真は振り返らずに歩き続け、東棟の階段を上がった。人気のない方へ、人気のない方へ。まるで紅音を誘導するように。


四階の空き教室。


悠真が扉を開け、中に入った。紅音も続く。


埃の匂い。使われていない机と椅子が壁際に積まれている。西日が窓から差し込み、空間を琥珀色に染めていた。


悠真が振り返った。


「——何をしに来た?」


飄々とした声。だが、平凡な少年のそれではない。仮面の下の声。


紅音は腕を組んで、悠真を正面から見据えた。


「何をしに来たも何も、決まってるでしょう」


「決まってないから聞いてる」


「悠真が、いきなり天叡結社を辞めたからよ!」


紅音の声が空き教室に響いた。


「辞表一行で十三席を放り出して、弱い方についたほうが面白いですって? 勝ち逃げするなんて卑怯よ!」


「勝ち逃げしたつもりなんかないけど」


「あるわよ! あの模擬戦、私はまだ負けを認めてない!」


「全力で転んでたけど」


「あれはっ……確率操作のせいでしょうがっ……!」


紅音の頬が赤く染まった。あの日の記憶——鼻血、めくれたスカート、白い下着——が脳裏をよぎり、声が上擦る。


「と、とにかくっ! あなたと私の勝負はまだ終わっていない! それなのに一方的に組織を抜けるなんて、筋が通らないわ!」


悠真はため息をついた。


「言っただろ。弱い立場につく方が面白そうだ、って」


「だからその理由がふざけてるって言ってるのよ!」


紅音は一歩踏み込み、声を落とした。怒りが、別の色を帯びていった。


「結社は……抜けた者を守らない。それどころか、秘密を知る者として、監視対象や……抹殺対象になる」


空き教室の空気が、わずかに重くなった。


紅音の赤い瞳から、ドヤ顔の余裕が消えていた。


「先日の十三席会議では、一応、盟主――**原初の設計者≪アーキテクト・ゼロ≫**は、『放っておけ』って言ってた。けど……盟主の言葉が、全ての序列保持者を縛れるわけじゃない。結社の中には、悠真の離脱を快く思っていない連中もいる。いつどこで誰に狙われてもおかしくないんだからね」


悠真は黙って紅音を見ていた。


紅音は視線を逸らした。窓の外を見る。西日が眩しい。


「……私だって、いつかあなたを倒したいって思ってる。あの日の借りは絶対に返す。でも……」


声が、小さくなった。


「でも、それはちゃんとした勝負でやりたいの。悠真が暗殺されたりしたら……勝負の相手がいなくなっちゃうでしょ」


紅音の横顔が、夕陽に染まっていた。


怒りでも、敵意でもない。その声の底にあるものを、悠真は正確に読み取っていた。


——心配しているのだ。


不器用で、素直じゃなくて、怒りと虚勢で本音を隠すことしかできないこの少女は、結局のところ——悠真のことが心配で、ここまで来たのだ。


勝ち逃げ許さないとか、勝負がどうとか、そんな理由を並べながら。


悠真は小さく笑った。今度は悪意のない、純粋な笑みだった。


「……紅音」


名前で呼ばれて、紅音が弾かれたように振り向いた。


「わざわざ来てくれたんだな」


「なっ……来てくれた、じゃないわよ! 私は怒ってるの! あなたを追いかけに来たの! 心配なんかしてないんだから!」


「誰も心配してるとは言ってない」


「ぐっ……」


紅音が言葉に詰まった。自爆した。赤い瞳が忙しなく泳ぐ。


悠真はポケットに手を入れて、窓の外を見た。


「大丈夫だよ。結社の連中がどう動こうと、対処はできる」


「根拠は?」


「根拠?」


悠真は、あの猛禽類のような笑みを浮かべた。


「俺が俺だから、ってのじゃ駄目か?」


「駄目に決まってるでしょ……」


紅音は呆れたように肩を落としたが、その口元はかすかに緩んでいた。


一年ぶりに聞く、悠真のふざけた物言い。結社にいた頃と何も変わっていない。無茶で、無謀で、不遜で——そのくせ、なぜか根拠のない説得力がある。


「……せめて、私がそばにいる間は、勝手に死なないでよね」


「善処する」


「善処じゃなくて約束しなさいよ!」


「はいはい」


紅音は深い溜息をついた。こいつと話していると消耗する。一年前からずっとそうだ。


だが——不思議と、嫌ではなかった。

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