第十二章『原初の設計者――盟主の真実』(前編)
悠真がNo.2≪アンノウン≫雨貝ハルキを退けてから、五日が経っていた。
悠真の怪我は、見た目ほど深刻ではなかった。左頬の腫れは三日で引き、口の中の切り傷は四日目にはほぼ塞がった。腹部の打撲だけがまだ鈍く痛んだが、日常生活に支障はない。
しかし環奈は許さなかった。
「まだ完治していないでしょう。体育は見学。異論は認めない」
「いや、もう大丈夫だって」
「肋骨にヒビが入っている可能性を排除できないわ。打撲の治癒期間は最低二週間。医学的根拠に基づいて言っています」
「お前、医者じゃないだろ」
「医学書は読んだわ」
悠真は反論を諦めた。
そんな日常の中、五日目の朝。
十三席の通信チャンネルに、盟主からのメールが届いた。
【通達:最優先指令の撤回】
【発令者:序列第一位《No.1》原初の設計者≪アーキテクト・ゼロ≫】
先般発令した極秘指令(元No.13 榊原悠真の無力化)を、本日をもって撤回する。
序列保持者各位は、通常任務に復帰せよ。
【以上】
今度のメールは、紅音にもちゃんと届いた。
放課後の教室。紅音は端末の画面を何度も確認してから、ぱあっと顔を輝かせた。
「よかったね、悠真! きっと、No.2を返り討ちにしたから、盟主も諦めたんだよ!」
紅音は本当に嬉しそうだった。ここ数日、表には出さなかったが、次の刺客がいつ来るかと気が気ではなかったのだ。毎朝、悠真の通学路の確率場をスキャンし、放課後は悠真が帰宅するまで尾行し(本人は「偶然同じ方向なだけ」と主張していた)、夜は夜で結社の通信を傍受して不穏な動きがないかチェックしていた。
それが、終わった。盟主が撤回した。もう十三席は来ない。
「十三席に狙われる生活ってのも、なかなか面白かったけどな」
悠真は窓際の席で頬杖をつきながら、いつもの調子で言った。
「そんな怪我して、強がり言わないの」
環奈が教科書の角で悠真の頭を軽く叩いた。
「まだ腹部の打撲が治りきってないでしょう。安静にしなさい」
「教科書で叩くのは安静の範疇に入るのか?」
「あなたの頭は頑丈だから大丈夫よ」
紅音が二人のやり取りを見て、頬を膨らませた。
「私も見たかったな~、悠真が謎のマッチョマン倒すところ!」
「謎のマッチョマンって……まあ、間違ってはいないが」
「ケーキで目潰しして車で撥ねたんでしょ? 聞いただけで面白いのに、生で見たかった!」
「環奈がいなかったら負けてたけどな」
環奈が一瞬、教科書を持つ手を止めた。頬がわずかに色づく。
「……当然のことをしただけよ。何度も言わせないで」
「何度でも言う。事実だから」
「……っ」
紅音が二人の間の微妙な空気を察知して、にやりと笑った。
「ねえ悠真。環奈に感謝してるなら、何かお礼しなよ。ご飯とか」
「お礼……そうだな。何がいい、環奈?」
「別に、何も要らないわ」
「クレープは?」
「……考えておく」
教室の夕陽が、三人を暖かく照らしていた。
* * *
同日。夕刻。
東京某所。高層ビル屋上。
盟主は、青空を見上げていた。
何度もここに立った。何度もこの空を見上げた。夜空の星の向こうに迫り来る脅威を見つめて、恐怖と決意を飲み込んで。
だが今日の空は——ただ、青かった。
雲ひとつない、五月の青空。風が心地よい。ビルの谷間を吹き抜ける風が、盟主の黒衣を揺らしている。
盟主は——時田礼司は、目を閉じた。
瞼の裏に、記憶が蘇る。
全ての始まりの記憶。
* * *
銀色の世界で、時田礼司は目を覚ました。
最初に感じたのは、冷たさだった。金属の冷たさ。背中全体に広がる、体温を奪うような冷感。
次に感じたのは、拘束だった。手首と足首が何かに固定されている。動かない。指先すら、自由にならない。
そして——見えた。
天井が、銀色だった。継ぎ目のない、一枚の金属板のような天井。蛍光灯ではない光源が、均一な白い光を空間に満たしている。
時田は首だけを動かして周囲を見た。
銀色の壁。銀色の床。銀色の、何かの機器。見たことのない形状の装置が周囲に並んでいる。人間の技術ではない。人間のデザイン思想ではない。曲線と直線が融合した、異質な美学で設計された空間。
そして——顔を覗き込んできた、「それ」
灰色の肌。大きな黒い目。小さな鼻と口。細い首。華奢な身体。
グレイタイプ。
SF映画で何百回と描かれてきた、「宇宙人」のステレオタイプそのままの姿。
時田の脳が、状況を処理するのに数秒かかった。
宇宙人。アブダクション。そんな単語が頭の中を駆け巡った。夢だ。夢に違いない。酒を飲みすぎたか、疲れが溜まっているか、とにかくこれは現実ではない。
だが、金属の冷たさは夢にしてはあまりにもリアルだった。
『おや、目を覚ましてしまったか』
声ではなかった。
音波が鼓膜を振動させたのではない。言葉が、直接、頭の中に流れ込んでくる。まるで自分の思考の中に、別の誰かの思考が上書きされたような、奇妙な感覚。テレパシー。そう呼ぶしかない現象。
グレイタイプの宇宙人は、大きな黒い目を瞬きもせずに時田を見つめていた。
『オペ中に目を覚ましたのは、君が初めてだ。我々が関与した中では、だが』
時田は口を開こうとした。声が出なかった。喉は動くのに、音にならない。
『ああ、声は出なくてもいい。考えるだけで伝わる。我々のコミュニケーション技術は、そのように設計されている』
(何を……何をしている。俺に、何をした)
『手短に言えば、改造だ。君の脳に、我々のテクノロジーの断片を埋め込んだ。副作用として、君は超常の力を手にすることになる。我々の言語で正確に翻訳すれば……そうだな、「異能」とでも呼ぶのが近いか』
(異能……?)
『君が次に目を覚ました時、君は、超常の力――異能を手にしているだろう。どのような能力かは個体差がある。まあ、楽しみにしていたまえ』
時田は混乱していた。夢だ。夢に違いない。だが夢にしては、宇宙人の説明があまりにも事務的だった。大学病院の医師がインフォームドコンセントを行っているような、淡々とした口調。
宇宙人は時田の顔を覗き込んだまま、ほんの少しだけ首を傾げた。人間で言えば、微笑みに相当する仕草なのかもしれない。
『オペ中に起こしてしまった詫び、というわけではないが。一つ、良い情報を教えよう』
宇宙人の細い指が、どこからか——空間そのものから取り出したようにしか見えなかったが——小さな物体を摘み上げた。
SDカード型の、黒い物体。
人間の技術で作られたSDカードに酷似しているが、表面に微細な紋様が刻まれていた。光の角度によって紋様が虹色に変化する。
『これは、ギャラクシー・チップ』
宇宙人は黒い物体を時田の目の前に翳した。
『ギャラクシー・チップは、我々の文明の叡智が詰まった物体だ。記録されているのは、エネルギー技術、素材工学、通信理論、医療技術……人類の文明レベルを数段階引き上げる可能性を秘めている。我々はこれを、地球上のいくつかの座標にばらまいた』
(なぜ……なぜそんなものを……)
『特定の周波数で微弱な電波を発している。もしよかったら、探してみるといい。見つけたものの功績だ。我々は干渉しない』
(何の目的で……人間に異能を渡す? チップをばらまく? あんたたちは何がしたい?)
宇宙人は答えなかった。
大きな黒い目が、ただ静かに時田を見つめていた。
時田の意識が、遠ざかっていく。銀色の天井がぼやけて、宇宙人の輪郭が溶けて、全てが白い光に飲み込まれていった。
目覚めた時、時田礼司は自宅のベッドの上にいた。
朝日が窓から差し込んでいた。普通の朝。普通の部屋。銀色の空間も、宇宙人も、どこにもいない。
夢だったのか。
時田は身体を起こした。頭痛はない。身体の異常もない。ただ、脳の奥に——何かがある。今までなかった回路が、新たに接続されたような感覚。
そして、時田は——わかった。
説明があったわけではない。マニュアルが添付されていたわけでもない。だが、異能がどんなものか、どのように発動すればいいのか、なぜか知っていた。生まれた時から歩き方を知っていたのと同じように。呼吸の仕方を誰にも教わらなかったのと同じように。
時間遡行≪タイム・トラベラー≫。
自らの意思で、時間を巻き戻す異能。
時田は、試した。
五分前に戻った。
目覚まし時計が、五分前の時刻を指していた。窓の外の太陽の角度が、五分ぶん低かった。
夢ではなかった。
時田礼司の人生は、その日を境に一変した。
株式取引。結果を確認してから、過去に戻る。値上がりする銘柄を「知って」から買う。値下がりする前に売る。損失が出たら、時間を戻してやり直す。
ギャンブル。競馬の結果を見てから、過去に戻って馬券を買う。ルーレットの出目を確認してから、過去に戻って賭ける。
一ヶ月で億を稼いだ。三ヶ月で十億を超えた。半年後には、時田礼司は表の世界では無名のまま、裏の世界では誰もが名前を知る大富豪になっていた。
ハッキリ言って——イージーな生活だった。
何もしなくても、ちょっと異能を使えば大金が転がり込む。働く必要がない。努力する必要がない。失敗しても戻ればいい。何度でもやり直せる。
時田は豪邸に住み、高級車を乗り回し、世界中を旅した。
だが。
一年が過ぎた頃、時田は気づいた。
退屈だ。
何をしても、結果が見えている。失敗がない人生は、成功にも意味がない。全てが予定調和。全てが既知。全てが——つまらない。
時間遡行の異能は、時田に無限の「やり直し」を与えた。だがそれは同時に、人生から「不確定性」を奪った。
明日何が起こるかわからない、というスリル。失敗するかもしれない、という緊張。成功した時の、本物の喜び。
全部、消えた。
時田は、自分の異能を呪い始めていた。
そんな時だった。




