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第十一章『最強の矛と最強の盾――No.2、覚醒』(後編)

電柱の陰で、環奈は震えていた。


恐怖ではない。いや、恐怖もある。だがそれ以上に、環奈の頭脳が全力で回転していた。


悠真が負けている。確率操作が効かない相手に、フィジカルで押されている。このままでは——


(どうしたらいい。どうしたら悠真を助けられる)


環奈は異能を持たない。戦闘技術もない。あの戦場に飛び込んだところで、足手まといにしかならない。


だが、環奈には——目がある。


観察する目。分析する頭脳。それだけが、氷室環奈の武器。


環奈は恐怖を押し殺し、目を見開いて、戦闘を観察した。


悠真の動き。雨貝の動き。攻撃のパターン。防御の癖。足の運び。視線の方向。


そして——環奈は、一つの事実に気づいた。


雨貝は、悠真と戦いながら、悠真だけを見ていない。


打撃の合間。ほんの一瞬。雨貝の視線が悠真から外れる瞬間がある。周囲を確認している。街路樹。電柱。停まっている車。歩道のブロック塀。看板。——悠真の周囲にある物体を、警戒している。


なぜ?


格闘戦で相手から目を離すのは、致命的な隙を生む行為だ。それを承知で周囲を警戒しているということは、雨貝にとって周囲の環境が脅威になり得るということ。


環奈の頭脳が、パズルのピースを組み合わせた。


雨貝の異能は≪異能破壊者スキル・キリング≫。あらゆる異能の効果を受けない。


「受けない」


環奈はその言葉を反芻した。


雨貝はこう言った。「あらゆる異能の効果を受けない」と。


「受けない」と「無効化する」は、似ているようで違う。


もし雨貝の異能が「周囲の異能を完全に無効化する」のであれば、悠真は≪虚数演算≫自体が使えなくなるはずだ。しかし悠真は今も確率場のモニタリングを継続しているはずだ。そうでなければ、あの速度の打撃を回避し続けることはできない。


つまり、≪虚数演算≫は使える。ただし、雨貝本人に対しては効かない。


「自身に向けられた異能を無効化する」——これが正確な表現だ。


ならば。


雨貝の身体そのものには確率操作が効かなくても、雨貝の周囲の環境には効くはず。地面や、建物や、車や、物体には。


雨貝が周囲を警戒しているのは、それを知っているからだ。自分に直接向けられた異能は無効化できるが、間接的な攻撃——環境を操作して副次的にダメージを与える攻撃——には対処できない。だから目視で確認し、物理的に回避する必要がある。


環奈は確信した。


「悠真!」


環奈は叫んだ。電柱の陰から身を乗り出して。


「間接攻撃……!」


たった一言。


だが悠真には、それで全てが伝わった。


* * *

悠真の目が、光った。


間接攻撃。環奈の言葉が、稲妻のように思考を貫いた。


そうだ。


≪虚数演算≫は雨貝本人には効かない。だが、雨貝の周囲の物体には効く。


悠真は即座に確率場を展開した。


目標——雨貝の左方、三メートルの位置にあるブロック塀。


「ブロック塀の経年劣化が限界に達し、自重で崩壊する確率」——百パーセント。


ぐらり、と。


二メートル四方のブロック塀が、突如として崩れ落ちた。コンクリートブロックが雪崩のように雨貝に向かって倒れかかる。


「チッ」


雨貝は舌打ちして、左方向への回避ルートを捨てた。右に跳ぶ。崩壊するブロックの破片が雨貝のいた場所を埋め尽くした。


(やはり——そうだ)


悠真は確認した。雨貝は異能を「無効化」するのではなく、「自身に向けられた異能の効果を受けない」のだ。


ブロック塀の崩壊は、悠真の確率操作によるものだ。しかしブロック塀自体は異能の産物ではなく、単なる物理的な崩壊。雨貝の≪スキル・キリング≫は、コンクリートブロックの落下を無効化できない。雨貝は物理的に回避するしかなかった。


弱点が、見えた。


だが——


(中途半端な間接攻撃では倒せない)


雨貝のフィジカルは化物だ。ブロック塀が崩れた程度では、たとえ直撃しても致命傷にはならない。あの筋肉は、コンクリートブロックの数個分の衝撃なら耐える。


もっと大きな変数が必要だ。もっと多くの環境要素を同時に操作できる場所が。


悠真は走った。


「逃がすか」


雨貝が追った。


二つの影が、朝の住宅街を駆け抜ける。悠真が先行し、雨貝が追う。距離は徐々に縮まっていく。フィジカルで劣る悠真が、まっすぐ走り続ければ追いつかれるのは時間の問題だった。


だが悠真は、まっすぐ走っていなかった。


左折。路地を抜ける。右折。商店の間を通り過ぎる。≪虚数演算≫で最適な経路を確率的に計算しながら、特定の場所に向かっている。


通りの向こうに見えてきた。


商店街アーケード。


朝から人通りが多い。店舗が並び、車両が通り、看板が立ち、自動販売機がある。日常の風景を構成するありとあらゆる物体が、所狭しと存在している。


≪虚数演算≫で操作できる変数の宝庫。


悠真はアーケードに飛び込んだ。


雨貝が三秒遅れで追いつく。アーケードの入口で一瞬足を止め、周囲を見渡した。人混み。車両。店舗。物が多い。あまりにも多い。


(厄介な場所に逃げ込んだな)


雨貝はアーケードに踏み込んだ。


悠真は三十メートル先を走っている。その背中を追いながら、雨貝は周囲への警戒を最大レベルに引き上げた。ここでは何が飛んでくるかわからない。看板が落ちるかもしれない。自販機が倒れるかもしれない。マンホールが開くかもしれない。


≪虚数演算≫の本質は、環境操作。この環境の複雑さは、そのまま悠真の攻撃パターンの多さに直結する。


悠真が振り返った。走りながら、右手を雨貝に向けた。


虚数演算イマジナリー・カリキュレーション≫——発動。


アーケードの脇道から、自動運転車両が飛び出してきた。


配送用の小型EV。時速四十キロ。車体重量八百キロ。雨貝の側面から、タイミングを合わせたかのように突っ込んでくる。


「自動運転車両の制御AIが経路判断を誤り、アーケード内に侵入する確率」——百パーセント。


「侵入した車両が雨貝ハルキめがけて直進する確率」——百パーセント。


八百キロの金属の塊が、時速四十キロで雨貝に向かって突進した。


雨貝は車両を視認した。正面からではなく、側面から。だが、九十三キロの肉体は——


雨貝は跳んだ。


車両のボンネットに両手をつき、身体を持ち上げ、車の上を駆け上がった。まるでアクション映画のスタントマンのような動き。八百キロの金属の塊を、跳び箱のように飛び越えた。


ルーフの上で一回転。着地。


「こんなことで、俺を倒せると思ったか?」


車の上から飛び降りながら、雨貝はわずかに得意げだった。


≪スキル・キリング≫で異能を無効化するだけでなく、フィジカルで全てを捌く。それが雨貝ハルキの戦い方だ。どんな間接攻撃も、物理的に回避すればいい。この身体がある限り。


だが。


悠真の本命は、車両ではなかった。


自動運転車両が突っ込んだ先には——コンビニがあった。


車両がコンビニの入口に突っ込んだ。ガラスが砕け、棚が倒れ、商品が散乱した。店内にいた客がパニックで叫びながら逃げ出す。


その中に——一人の少女がいた。


十代半ばの中学生。両手に、白い箱を抱えている。


ホールケーキ。


誰かの誕生日のために買ったのだろう。白いケースに収められた、苺のデコレーションケーキ。


少女は車両の突入に驚いてコンビニから飛び出し、アーケードの通路を走った。パニックで足がもつれている。


雨貝は車から着地して、体勢を整えていた。視線は悠真に向いている。周囲への警戒もしている。車両。看板。自販機。ブロック塀。通行人。


——だが、ケーキを持った少女は、警戒対象に入っていなかった。


当たり前だ。パニックで逃げる中学生の女の子が、戦闘における脅威であるはずがない。


≪虚数演算≫。


「少女がこの位置で足を滑らせて転倒する確率」——百パーセント。


「転倒時にケースの蓋が開き、ホールケーキが放物線を描いて射出される確率」——百パーセント。


「ホールケーキが雨貝ハルキの顔面めがけて飛んでくる確率」——百パーセント。


少女が転んだ。


「きゃっ!」


白い箱が手から離れた。蓋が開いた。苺のデコレーションケーキが、美しい放物線を描いて宙を舞った。


雨貝の目が、ケーキを捉えた。


だが、遅かった。


車両を飛び越えた直後。着地の瞬間。体勢が完全に整っていないタイミング。そしてケーキは、警戒対象リストの圏外から飛んできた。


直撃。


「わぶうっ!!」


苺のデコレーションケーキが、雨貝ハルキの顔面に、正面から命中した。


生クリームが爆発的に飛散した。苺が額に張り付き、スポンジが鼻を覆い、ホイップクリームが目と口を塗りつぶした。


バラエティ番組の罰ゲーム。テレビでよく見る、あの光景そのもの。


序列第二位≪アンノウン≫雨貝ハルキの顔面が、ケーキまみれになった。


「ぐ……っ」


視界が白い。生クリームが目に入って、何も見えない。鼻もクリームで詰まって、呼吸が苦しい。


雨貝は反射的に手で顔を拭おうとした。だが、生クリームはしつこい。拭っても拭っても、目の周りにべったりと張り付いている。


(しまった——目が——)


雨貝のフィジカルは化物だ。だが、目に生クリームが入れば見えない。それは異能の問題ではなく、純粋に物理の問題だ。≪スキル・キリング≫は異能を無効化するが、生クリームを無効化する機能はない。


そして——悠真は、この一瞬を待っていた。


≪虚数演算≫。最終段階。


コンビニの駐車場。車両の突入騒ぎで慌てた老人が、自分の車に乗り込んだ。


「老人が誤ってアクセルを深く踏み込み、急発進する確率」——百パーセント。


「急発進した車両が雨貝ハルキに向かって直進する確率」——百パーセント。


「この事故により、老人が怪我をする確率」——ゼロパーセント。


駐車場から、エンジンの咆哮が響いた。


老人の軽自動車が、タイヤを軋ませて飛び出した。アクセル全開。時速三十キロまで一気に加速。


雨貝は生クリームで視界を奪われたまま、音でそれを察知した。エンジン音。タイヤの摩擦音。接近する金属の塊。


だが、方向がわからない。どこから来るのか。右か、左か、前か、後ろか。


目が見えない。


衝撃。


軽自動車のバンパーが、雨貝の側面に激突した。九十三キロの肉体が宙に浮き、五メートル先のアスファルトに叩きつけられた。


軽自動車はそのまま減速し、花壇に乗り上げて停止した。エアバッグが展開。老人は軽い打撲のみで無傷だった。確率が、そう書き換えられていたから。


雨貝はアスファルトの上に仰向けに倒れていた。


顔面はケーキまみれ。身体のあちこちに打撲と擦過傷。右脚の角度がおかしい。骨折しているかもしれない。


だが、意識はあった。


「…………やるじゃねえか」


ケーキまみれの口が、呟いた。


遠くで救急車のサイレンが聞こえ始めた。通行人の誰かが通報したのだろう。


雨貝は動けなかった。右脚が折れている。全身の打撲で、筋肉が悲鳴を上げている。≪スキル・キリング≫は異能を無効化するが、骨折を治す機能はない。


やがて、救急隊員が駆けつけた。


「大丈夫ですか! 意識はありますか!」


「……ああ、意識はある。ケーキ食って車に轢かれただけだ」


「は……?」


「気にするな。運んでくれ」


雨貝は担架に乗せられ、救急車に運ばれていった。サイレンが遠ざかる。


アーケードには、散乱したコンビニの商品と、砕けたガラスと、ケーキの残骸と、呆然と立ち尽くす通行人たちが残された。


そして——一人の少年が、その光景を見つめていた。


悠真は大きく息を吐いた。全身が軋んでいる。左頬の腫れ。口の中の切り傷。腹部の打撲。両腕の痺れ。


無傷ではなかった。今回は。


だが——勝った。


異能が通じない相手を、異能の間接使用で打倒した。環奈の助言がなければ、発想の転換が数秒遅れていた。あの数秒が致命的だった可能性もある。


「悠真!」


環奈が走ってきた。


電柱の陰から飛び出して、悠真の元に駆け寄る。ヒールの靴で全力疾走するのは得意ではなかったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。


「大丈夫……!? 顔、血が……!」


「大丈夫だ。見た目ほどひどくない」


「ひどくないわけないでしょう……!」


環奈は鞄からハンカチを取り出し、悠真の口元の血を拭った。白いハンカチが赤く染まる。


悠真は、環奈にされるがまま、血を拭われていた。


「……環奈」


「何」


「助かった。お前の一言がなかったら、発想の切り替えが遅れてた」


環奈の手が、一瞬止まった。


「間接攻撃。たった二単語で、俺に必要な情報を全部伝えた。雨貝の異能の性質を、あの短い戦闘の間に正確に分析して、弱点を見抜いた。≪虚数演算≫でも、≪万象の簒奪≫でもできないことだ。お前にしかできなかった」


環奈は悠真を見上げた。


血まみれで、砂だらけで、制服はボロボロで。


それでも悠真の目は、真っ直ぐに環奈を見ていた。


「ありがとう、環奈」


環奈の頬が、赤くなった。ハンカチを握る手が、微かに震えた。


「……当然のことをしただけよ。お礼なんて」


「当然じゃない。お前がいなかったら、俺は負けてた」


「……っ」


環奈は何か言おうとして、言葉が見つからず、代わりにハンカチで悠真の頬を少し強く押さえた。


「痛い」


「知らない。怪我人は黙ってなさい」


声は怒っていたが、目は笑っていた。泣きそうにも見えた。


朝の日差しがアーケードに差し込み、二人の影を長く伸ばしていた。


遠くで、まだ救急車のサイレンが聞こえていた。


第十二章『原初の設計者――盟主の真実』 に続く

――十三席の最強が、倒れた。


異能を無効化する絶対の盾。それを打ち破ったのは、異能ではなかった。


ケーキと、車と、一人の少女の観察眼。


確率操作で世界を歪める天才は、異能が通じない壁にぶつかり、初めて血を流し、


初めて――誰かに助けられた。


「ありがとう」


その言葉が、氷室環奈の胸に、確率では計算できない何かを灯した。

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