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第十一章『最強の矛と最強の盾――No.2、覚醒』(前編)

朝。七時四十五分。通学路。


五月の空は抜けるように青かった。街路樹の若葉が朝日に透けて、歩道に緑色の影を落としている。


悠真は自転車を押して歩いていた。今日は環奈と通学路の途中で合流し、並んで学校に向かっている。紅音は少し遅れて別ルートで来る予定だった。


「昨日の蟻塚さんの話、面白かったわね」


環奈が鞄を肩にかけ直しながら言った。


「面白いって……命懸けの戦闘なんだけど」


「敵の異能の弱点を構造的に分析して、正面から論破するように勝つ。あなたの戦い方、知的で好きよ」


「好き、って言われると照れるな」


「戦い方が、よ。主語を省略しないで」


「はいはい」


穏やかな朝のやり取り。日常の延長線上にある、二人の会話。


しかし。


悠真の足が、止まった。


自転車のハンドルを握る手に、わずかに力が入った。


環奈は三歩ほど先を歩いてから、悠真が止まったことに気づいた。振り返る。


「……どうしたの?」


悠真は前方を見ていた。


通学路の五十メートル先。交差点の手前。街路樹の木陰に、一人の男が立っていた。


Tシャツ。ジーンズ。サングラス。隆起する筋肉の稜線が、薄い生地の上からでも見て取れる。百八十五センチ、九十三キロの肉体が、朝の歩道に影を落としている。


雨貝ハルキ。


何も言わなくても、仕掛けてくるのは明らかだった。


朝の通学路に、序列第二位が立っている。サングラスの奥の目が、真っ直ぐに悠真を見ている。穏やかで、静かで、それでいて——底知れない圧を帯びた視線。


悠真は自転車のスタンドを立てた。


「環奈」


「……うん」


「下がっていてくれ。俺に近づかないように」


環奈は悠真の横顔を見た。いつもの飄々とした表情ではなかった。鬼嶋の時も、蟻塚の時も見せなかった、真剣な顔。


環奈は頷き、十メートル以上後退して、電柱の陰に身を寄せた。


悠真は鞄を下ろし、前方の雨貝と向き合った。


朝の通学路。犬を散歩させる老人。ジョギングをする主婦。自転車で通り過ぎる会社員。日常の風景の中に、二人の異能者が対峙している。


「……雨貝ハルキ。序列第二位≪アンノウン≫」


悠真の声は静かだった。


「正体不明。異能の詳細不明。模擬戦全拒否。結社内でも、お前の力を知る人間はいない」


雨貝はサングラスの位置を直した。


「まあ、そうだな」


「鬼嶋が忠告してくれた。お前だけは気をつけろ、って」


「へえ、鬼嶋がね。いい奴だな、あいつ」


雨貝の口調は穏やかだった。大衆食堂でチキンステーキの感想を述べる時と、何ら変わらない温度。


だが、悠真の≪虚数演算≫は告げていた。雨貝の周囲の確率場が、異常を示している。具体的に何がおかしいのかは特定できない。ただ、悠真の直感が——これまで一度も外れたことのない、天才の直感が——全力で警告を発していた。


この男は、危険だ。


「盟主の指令で来たんだろ」


「まあな。盟主の座には興味ないが、頼まれたことだしな」


雨貝は軽く首を回した。関節がぽきぽきと鳴る。


「じゃ、行くぞ」


それだけだった。


宣戦布告も、名乗りも、能力の誇示もない。ただ「行くぞ」の一言で、雨貝は——走り出した。


正面から。真っ直ぐに。愚直なまでの直線。


九十三キロの肉体が、驚くべき加速で地面を蹴った。百メートルを十一秒台で走れる脚力。筋肉の塊が、弾丸のように悠真に向かって突進してくる。


悠真は即座に≪虚数演算イマジナリー・カリキュレーション≫を発動した。


蟻塚の時と同じ。鬼嶋の時と同じ。最も効率的な無力化手段。


「雨貝ハルキが次の一歩でバランスを崩し、転倒する確率」——百パーセント。


「転倒時に足元のコンクリートに頭部を打ちつける確率」——百パーセント。


確率場が書き換えられた。雨貝の足元の微細な凹凸、靴底のグリップ係数、体幹の重心位置——全てが「転倒」に収束するよう操作された。


紅音の時と同じだ。全力で走っている人間が転倒すれば、慣性で盛大に地面に叩きつけられる。九十三キロの体重なら、なおさら。


雨貝の右足が地面を踏んだ。


——何も起きなかった。


雨貝は転ばなかった。


バランスを崩さなかった。足元は滑らなかった。重心は微動だにしなかった。九十三キロの肉体は、寸分の狂いもなく直進を続けた。


悠真の瞳が、初めて——見開かれた。


(効いて——いない……!?)


≪虚数演算≫が確率場を書き換えた。間違いなく発動した。百パーセントの確率操作を実行した。それなのに、雨貝は転倒しない。確率操作が、無効化されている。


理解が追いつかないまま、雨貝が目の前に迫った。


距離ゼロ。


雨貝の右拳が、悠真の左頬を捉えた。


鈍い衝撃。視界が一瞬白く飛んだ。口の中に鉄の味が広がる。頬の内側が切れて、血が溢れた。歯がぐらついている。


吹き飛びかける身体を、悠真は片足で踏ん張って堪えた。だが雨貝は間髪入れずに左ボディーを叩き込んだ。肝臓の位置を正確に狙った一撃。内臓が揺れる衝撃。


悠真は咄嗟にスウェーバックで上体を反らし、ボディーの威力を七割殺した。それでも衝撃は体幹を貫き、息が止まりかけた。


後方へ跳んで、距離を取る。


五メートル。


悠真は片膝をついた。口の端から血が流れている。左頬が腫れ始めている。腹部には鋭い痛みが残っている。


傷を負った。


榊原悠真が、傷を負った。


* * *

「悠真……!」


電柱の陰から、環奈の悲鳴に近い声が響いた。


環奈は目を見開いていた。心臓が、恐怖で激しく脈打っている。


悠真が殴られた。悠真が血を流している。


初めて見る光景だった。


裏山で簑島に襲われた時、悠真は涼しい顔で現れて環奈を救った。蟻塚の七連続攻撃を、ポケットに手を入れたまま全て回避した。鬼嶋の超長距離狙撃を、三日前から察知していた。


悠真の能力は確率操作。あらゆる攻撃が当たらない。あらゆる危険を事前に回避できる。それが、≪虚数演算≫の絶対性だったはずだ。


なのに——殴られている。


血を流している。


それは環奈にとって、世界の法則が崩れたに等しい衝撃だった。


(なぜ……? 確率操作が効かない……? そんなことがあり得るの……?)


環奈の頭脳がフル稼働する。恐怖を押し殺して、観察する。分析する。それが今、環奈にできる唯一のことだった。


* * *

悠真は手の甲で口元の血を拭った。


赤い液体が、肌の上に線を引く。


「……虚数演算が通じない」


声に出して確認する。事実を認識するために。


≪虚数演算≫は発動した。確率場は書き換わった。しかし、雨貝の身体には何の影響も生じなかった。まるで確率操作そのものが雨貝の周囲で蒸発したかのように。


答えは、一つしかなかった。


「異能の無効化、か」


悠真は血を拭い終えた手で、雨貝を指差した。


雨貝は五メートル先に立っていた。拳を下ろし、サングラスの奥の目で悠真を見ている。息一つ乱れていない。


「正解」


雨貝は頷いた。


そして、サングラスを外した。


素顔が露わになった。切れ長の目。濃い眉。精悍で、しかしどこか人懐っこさを残した顔。


「俺の異能は——異能破壊者≪スキル・キリング≫」


雨貝の目が、初めて悠真をまっすぐに捉えた。サングラス越しではない、生身の目で。


「あらゆる異能の効果を受けない。確率操作も、才能複製も、次元開閉も、言語支配も。全ての超常の力が、俺の前では無効になる」


朝の風が、二人の間を吹き抜けた。


「だが——」


雨貝は一歩、踏み出した。


「わかったところで、打つ手はないッ!」


雨貝が再び突進した。


今度は悠真も≪虚数演算≫を雨貝本人に向けなかった。効かないとわかった以上、演算リソースの無駄だ。


近接格闘。


雨貝の右ストレート。悠真は頭を横にずらして回避。続く左フック。身体を沈めてかわす。


悠真は反撃に右ミドルキックを返した。雨貝の脇腹を狙う鋭い蹴り。格闘技術は結社時代に叩き込まれている。悠真の身体能力は一般人を遥かに凌駕する。超人的な反射神経と、確率操作に頼らずとも戦える肉体スペック。


しかし。


雨貝はミドルキックを左腕で受け止めた。


衝撃を完全に吸収する腕のクッション。九十三キロの体重と、毎日百四十キロのベンチプレスを上げる筋力が、悠真の蹴りを受け止めていた。


「いい蹴りだ」


雨貝は蹴り足を掴んだまま、前に出た。バランスを崩す悠真に、ショートの右アッパーを放つ。


悠真は掴まれた足を軸にして身体を回転させ、かろうじてアッパーを避けた。着地。距離を詰められる。雨貝のジャブ。悠真のパリー。雨貝のワンツー。悠真のステップバック。


交錯する拳と拳。攻防の応酬。


だが、悠真はじわりじわりと押されていた。


理由は明確だった。フィジカルの差。


悠真の身体能力は超人的だが、雨貝ハルキの身体能力は化物だった。九十三キロの肉体から繰り出される打撃の重さ。毎日欠かさないトレーニングで鍛え上げられた、実戦特化型のフィジカル。速さでは悠真がわずかに上回るが、力と耐久力で雨貝が圧倒的に上回っていた。


雨貝の左ジャブが悠真の顔面を掠めた。鼻の横を擦過する拳。皮膚が切れて、赤い線が走る。


悠真のカウンターの右ストレートが雨貝の顎を捉えた。クリーンヒット。だが雨貝は首を少し揺らしただけで、一歩も下がらなかった。


悠真の一撃を受け止める首の筋肉。異能ではない。純粋な肉体の強靭さ。


「効かないな」


雨貝が呟いた。感想を述べるような淡白さで。


雨貝の回し蹴りが放たれた。


右脚。百キロ近い体重を乗せた、遠心力を活かした弧月の軌道。蹴り足のスピード自体は格闘家のトップレベル。そこに九十三キロの質量が加わる。


悠真は両腕でガードした。


衝撃が、腕を通じて全身に伝播した。


ガードの上から、吹き飛んだ。


足が地面から離れ、三メートルほど横に飛ばされた。道路のアスファルトに背中から落ち、二回転がって止まった。


「がっ……」


肺の空気が吐き出される。背中を打った衝撃で視界が明滅する。両腕がビリビリと痺れている。ガードの上からでも、これだけの衝撃。


悠真は地面に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。


制服は砂と埃にまみれ、左頬は腫れ、口元と鼻の横から血が流れている。両腕はガードの衝撃で痺れが残っていた。


「……こんなに無様を晒したのは、初めてだ」


悠真は血を吐いた。赤い唾液がアスファルトに染みを作る。


雨貝は五メートル先に立っていた。ファイティングポーズ。サングラスを外した目が、真っ直ぐに悠真を見ている。


悠真は——笑った。


血まみれの顔で。砂だらけの制服で。両腕の痺れが引かない身体で。


「……面白い」


その笑みは、鬼嶋と対峙した時の余裕の笑みではなかった。蟻塚をいなした時の苦笑でもなかった。


純粋な——歓喜の笑み。


「初めてだよ。≪虚数演算≫が通じない相手と殴り合うの」


雨貝の目が、わずかに見開かれた。


殴られて、蹴飛ばされて、血を流して——楽しそうに笑っている。


「……変な奴だな」


雨貝は呟いた。だが、その口元にも、かすかな笑みが浮かんでいた。

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