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第十章『連戦――十三席、襲来』

蟻塚洋一ありづか よういちは、不運な男だった。


生まれた日に産院が停電した。初めて歩いた日に階段から落ちた。小学校の入学式で鳩のフンが頭に直撃した。中学の修学旅行では旅館の天井が抜けた。高校受験の日にインフルエンザにかかった。大学の合格発表を見に行く途中で車に撥ねられた。就職の面接に向かう電車が脱線した。


序列第九位《No.9》――不運伯爵≪アンラッキー・マン≫蟻塚洋一。


二十八歳。中肉中背。特徴のない顔。目の下にはいつも隈があり、肩はいつも少し落ちている。全身から「ついてない」という空気が滲み出ている男。


彼の異能は、十三席の中でも一際風変わりだった。


≪幸運の欠片フォーチュン・クッキー≫。


蟻塚が不幸な目に遭うたびに、左手の甲に星型の痣が浮かび上がる。不幸が大きいほど、星は明るく、大きく刻まれる。


その痣を一つ消費することで、一つの「幸運」が蟻塚に舞い降りる。


不幸を貯蓄して、幸運に変換する。人生で散々な目に遭い続けてきた蟻塚にとって、この異能は皮肉な救いだった。不運であればあるほど、幸運の貯蓄が増える。世界で最も不幸な男は、同時に世界で最も多くの幸運を蓄えた男でもあった。


今、蟻塚の左手の甲には、十個の星型の痣が輝いていた。


十個。これは蟻塚のこれまでのストックの中でも最大級の備蓄量だった。先週、階段を踏み外して骨折したのと、その翌日に入院先の病院で食中毒になったのと、退院の日にスマートフォンを便器に落としたのと、その他諸々の不幸が重なった成果だ。


「十個あれば……いける、かもしれない」


蟻塚は左手の甲を見つめて、自分を奮い立たせた。


盟主からの極秘指令。元No.13、榊原悠真を倒せ。報酬は、盟主の座。


鬼嶋十夜が失敗した。あの人間武器庫≪アルティメット・ウェポン≫が、手も足も出なかったという。


だが、蟻塚には蟻塚の戦い方がある。


確率操作の≪虚数演算≫に対して、確率系の≪幸運の欠片≫をぶつける。同じ土俵なら、勝機がないとは言い切れない。


「……よし」


蟻塚は拳を握った。


「行くぞ。俺の不幸の蓄積、全部賭けてやる」


* * *

放課後。桜ヶ丘高校。裏門。


悠真が自転車を押して裏門を出ると、道路の向かいに一人の男が立っていた。


中肉中背。隈の深い目。肩が落ちている。左手の甲に、何か光るものがある。


「……蟻塚か」


悠真は自転車のスタンドを立てた。


「元No.13。盟主の指令により――」


蟻塚が名乗りを上げようとした瞬間、頭上の電線から鳥のフンが落下し、蟻塚の右肩を直撃した。


「…………」


沈黙。


悠真は無表情で蟻塚を見つめた。


蟻塚は右肩の白い汚れを確認し、深い溜息をついた。そして左手の甲を見た。十個の星型の痣の隣に、十一個目がうっすらと浮かび上がっていた。


「……十一個になった。まあいい」


蟻塚は気を取り直して、構えた。


「元No.13、榊原悠真! 不運伯爵≪アンラッキー・マン≫蟻塚洋一が、勝負を挑む!」


悠真はポケットに手を入れたまま、首を傾げた。


「お前の異能、≪幸運の欠片≫だったよな。不幸の蓄積を幸運に変換する。面白い能力だとは思うけど……俺相手に使うのは、分が悪いぞ」


「それはやってみなけりゃわからない!」


蟻塚の左手が光った。


≪幸運の欠片フォーチュン・クッキー≫――第一星、消費。


星型の痣が一つ消えた。同時に、蟻塚の身体を「幸運」が包んだ。


何が起こるかは、蟻塚自身にもわからない。≪幸運の欠片≫は発動タイミングこそ蟻塚が選べるが、発生する幸運の内容は制御できない。ただ「その瞬間、蟻塚にとって最も幸運な事象」が自動的に選択される。


この瞬間、蟻塚にとって最も幸運な事象は――


突風が吹いた。


校舎の裏から巻き上がった砂埃が、悠真の目を直撃した。


「っ――」


悠真が一瞬、目を閉じた。


その隙に蟻塚が距離を詰めた。元傭兵の鬼嶋ほどの戦闘技術はないが、蟻塚もまた結社で鍛えられた序列保持者だ。身体能力は一般人を凌駕している。


右拳を振りかぶる。


だが、悠真は目を閉じたまま半歩横にずれた。蟻塚の拳は虚空を切った。


≪虚数演算≫。「砂埃が目に入っても、身体のバランスと空間認識が維持される確率」を100%に書き換え済み。目が見えなくても、確率場のモニタリングで蟻塚の位置は把握できている。


「くっ!」


蟻塚は第二星を消費した。


今度の幸運は、蟻塚の足元の地面が偶然隆起し、悠真の足場を崩す事象として発現した。アスファルトの下の水道管が経年劣化で破裂し、地面が盛り上がったのだ。


悠真の足元が揺れた。バランスが崩れかける。


しかし、≪虚数演算≫が即座に対応。「水道管の破裂が悠真の足場に影響を与えない確率」を上書き。盛り上がったアスファルトが、悠真の足の形に沿って自然な段差を形成した。まるで最初からそこに段差があったかのように、悠真は涼しい顔で立っている。


「三つ目!」


蟻塚の声に、焦りが混じり始めた。


第三星消費。幸運の発現――上空からトンビが急降下してきた。悠真の頭部を狙う鋭い爪。野生の猛禽が偶然攻撃してくるという、常識外の幸運。


悠真は首を数センチ傾けた。トンビの爪が髪を掠めて通過する。


「四つ目ぇ!」


第四星消費。校舎の壁に取り付けられたエアコンの室外機が、突然爆発して部品が飛散した。金属片が悠真に向かって飛来する。


≪虚数演算≫。金属片が全て悠真の周囲を逸れて飛んでいく。まるで見えない壁に弾かれたかのように。


「五つ! 六つ! 七つ!」


蟻塚は矢継ぎ早に幸運の欠片を消費した。


犬が飛びかかってきた。回避。マンホールの蓋が吹き飛んだ。回避。通りがかった車がハンドルを切って突っ込んできた。≪虚数演算≫で車の進路を逸らし、無人のガードレールに衝突させて停止。


七つの幸運。七つの奇跡的な事象が、わずか一分の間に蟻塚の周囲で発生した。


そして七つとも、悠真には通じなかった。


蟻塚は膝に手をつき、荒い息をついた。


左手の甲に残る痣は、あと三つ。いや、鳥のフンで一つ増えたから、四つか。


「はぁ……はぁ……なんて、やつだ……」


悠真はポケットに手を入れたまま、ほとんど動いていなかった。立ち位置すら、最初からほぼ変わっていない。


「蟻塚。わかるだろ」


悠真の声は穏やかだった。


「お前の≪幸運の欠片≫は確率系の異能だ。不幸の蓄積を幸運に変換する。面白い仕組みだと思う。だけど致命的な弱点がある」


蟻塚は顔を上げた。


「発生する幸運を、自分の意志で選べない」


蟻塚の顔が歪んだ。図星だった。


「お前の異能は『蟻塚にとって最も幸運な事象』を自動選択する。だが、何が『最も幸運』かを判断しているのは、異能そのものだ。お前自身じゃない。だから攻撃の精度が低い。突風、水道管の破裂、トンビ、室外機の爆発――全部ランダムだ。狙いすまして俺の急所を突くことが、構造的にできない」


悠真は指を一本立てた。


「対して、≪虚数演算≫は万物の確率を自由に操作できる。お前が出す幸運が何であれ、俺はそれが『失敗する確率』を100%にできる。ランダムな幸運と、精密な確率操作。この勝負は、構造的に俺が勝つようにできてるんだ」


蟻塚は、がっくりと肩を落とした。


わかっていた。心のどこかでは、最初から。


「……残りの幸運、使うか?」


悠真が聞いた。挑発ではなく、純粋な質問として。


蟻塚は左手の甲を見た。残り四つの星型の痣。不幸の末に貯めた、貴重な幸運の備蓄。これを使い切って、何の戦果も得られなかったら――


蟻塚は天を仰いだ。


「不運だーーーっ!!」


叫んだ。全力で。


裏門通りに、蟻塚の絶叫がこだました。通行人が振り返り、犬が吠え、鳩が飛び立った。


蟻塚は叫び終えると、がっくりと膝をついた。


「……撤退する。俺の負けだ。完敗だ。もう嫌だ。帰って寝る」


「そうしろ。残りの幸運は、もっと有意義なことに使った方がいい」


「有意義なこと……」


蟻塚は疲れ切った顔で悠真を見上げた。


「例えば?」


「さあ。宝くじでも買えば」


「……それは、いいかもしれない」


蟻塚は這うように立ち上がり、ふらふらと歩き出した。去り際にもう一度振り返り、力なく手を振った。


「元No.13。お前、強すぎるよ。もうちょっと手加減してくれても罰は当たらないだろ」


「お前の場合、手加減してもしなくても、罰が当たってるからな」


「…………ひでえ」


不運伯爵≪アンラッキー・マン≫は、とぼとぼと去っていった。その背中に、鳩のフンがもう一発直撃した。左手の甲の痣が一つ増えた。


* * *

同日。夕刻。東京某所。大衆食堂「とんかつ・まるや」


ガラス引き戸。油染みたメニュー表。テレビが壁の上方に据え付けられている。昭和の香りが残る、どこにでもある大衆食堂。


その一番奥のテーブルに、二人の男が向かい合って座っていた。


簑島秀一と、雨貝ハルキ。


約束の、チキンステーキ。


「まるや」のチキンステーキは、鉄板の上でジュウジュウと音を立てていた。バターとガーリックの香りが立ち上り、分厚い鶏もも肉の表面が黄金色にカリッと焼き上がっている。付け合わせのポテトと人参が脇を固め、デミグラスソースの小皿が添えられている。


雨貝はサングラスをかけたまま、フォークとナイフでチキンステーキを切り分けた。一切れを口に運ぶ。


「……うまい」


雨貝の声に、純粋な喜びが滲んだ。サングラスの奥の表情は見えないが、口元が綻んでいた。


「ここのチキンステーキはな、皮目の焼き加減が絶妙なんだ。カリッとしてるのに中はジューシー。火入れが完璧。ニンニクチップも自家製だし、デミグラスは三日煮込んでる。千円でこのクオリティは驚異的だよ」


簑島は向かいの席で、自分のとんかつ定食を前に苦笑した。


「食レポが詳しいな」


「週に二回は来てる」


「週二……」


天叡結社≪エデン・オルド≫、序列第二位。十三席の頂点に近い男が、週に二回、大衆食堂に通ってチキンステーキを食べている。その事実が、簑島にはどうしようもなく可笑しかった。


テレビからニュースが流れていた。


女性キャスターの声がBGMのように店内に広がる。


『本日、中東のハーリド王子が来日し、政府高官との会談が行われました。会談ではエネルギー政策と安全保障について意見交換がなされ――』


雨貝はチキンステーキを咀嚼しながら、テレビを一瞥した。特に関心はなさそうだった。


『続いてのニュースです。NASAおよび国内の天文台の発表によりますと、今週末、小惑星2024-XR7が地球に最接近するとのことです。大きさは直径約八百メートル。地球との最接近距離は約十八万キロメートルで、月の距離の約半分まで近づきますが、衝突の可能性は限りなく低いとされています。専門家は「地球への影響はない」としており――』


簑島はとんかつに箸をつけながら、テレビの画面を見上げた。小惑星の軌道をCGで描いたイメージ映像が流れている。青い地球の傍を通過する白い点。


「小惑星か。物騒な話だな」


「衝突しないんだから、別にいいだろ」


雨貝はチキンステーキの最後の一切れを口に入れた。


「そんなことより、簑島。聞いたか」


「何をだ」


「十三席の連中が、次々と元No.13に挑んで、次々と負けてるらしいな」


簑島は箸を止めた。


「……ああ。鬼嶋が失敗した話は聞いた。超長距離狙撃を仕掛けて、三日前から気づかれていたとか」


「今日は蟻塚も負けたらしい。幸運の欠片を使いまくって、かすり傷ひとつつけられなかったそうだ」


簑島はとんかつを一切れ口に運び、ゆっくりと噛んだ。


「蟻塚はともかく……鬼嶋なら、あるいは、と思っていたんだが」


雨貝は水を一口飲んだ。


「いや……」


簑島は箸を置いた。


「俺も不本意ながら、一戦交えたことがあるからわかる。あれには誰も勝てんよ」


裏山での記憶。声帯を枯らされ、鳩尾を殴り飛ばされた。言語世界≪ワード・オブ・ワールド≫が完全に封殺された。あの時感じた絶望を、簑島は忘れていない。


「無茶苦茶な理由で結社を辞めるだけのことはある。弱い方についたほうが面白い、だと? 自分の力に、それだけの自信があるんだ。いや……自信とすら呼べないかもしれない。あれはもう、事実だ。あいつは、とんでもなく強い」


簑島は味噌汁を啜った。


雨貝は黙って聞いていた。サングラスの奥の目が、簑島の言葉を一語一句、受け止めているようだった。


そして。


「となると、俺が動くしかないか」


あっさりと、雨貝は言った。


デミグラスソースの最後の一滴をパンで拭い取りながら。まるで「今日は曇りだな」とでも言うような気軽さで。


簑島の箸が、皿の上で止まった。


「……あれに、勝てるっていうのか?」


簑島の声には、驚きと、わずかな畏怖が混じっていた。


鬼嶋十夜。超長距離狙撃を仕掛けた戦闘のプロ。敗北。蟻塚洋一。幸運の欠片を大量に消費するも何もできず。敗北。簑島秀一。言霊で身体を支配しようとした。敗北。誰ひとりとして、悠真に傷一つつけられていない。


その悠真に戦いを挑もうという人間が、大衆食堂でデミグラスソースの最後の一滴をパンで拭っている。


雨貝はナプキンで口を拭き、椅子から立ち上がった。


「まあ、なんとかなるだろ」


いつもの調子。いつもの声。力みもなく、気負いもなく、虚勢もない。ただ事実を述べているだけのような、穏やかなトーン。


簑島は、この声を知っていた。ギャラクシー・チップの回収を申し出た時と、同じ声だ。あの時も雨貝は「できるよ」と言って、実際にやってのけた。悠真にも紅音にも気取られずに。


「チキンステーキ、旨かったぞ。ごちそうさん」


雨貝はレジではなく簑島に向かって手を合わせ、にかっと笑った。サングラスの奥の目が笑っているのが、初めてわかった気がした。


そして、そのまま食堂を出て行った。ガラス引き戸がからからと音を立てて閉まる。


簑島はテーブルに一人残された。


とんかつが、半分残っている。


テレビでは天気予報に切り替わっていた。週末は晴れ。行楽日和。


「……雨貝」


簑島は呟いた。


結社に入って以来、簑島が誰かのために本気で心配したことは一度もなかった。結社の仲間は仲間であって仲間ではない。利害で結ばれた関係。誰がどうなろうと、自分には関係ない。


だが今、簑島は確かに心配していた。


雨貝ハルキのことを。


本を貸し合い、チキンステーキを奢り、くだらない話で笑い合った、初めての――友人のことを。


「……勝てるのか、あいつ。本当に」


簑島はとんかつの残りを口に詰め込み、味噌汁で流し込んだ。


味がしなかった。


第十一章『最強の矛と最強の盾――No.2、覚醒』 に続く

――不運伯爵は去り、人間武器庫は退き、言霊遣いは敗走した。


十三席の刃は、ことごとく折れた。


残る者は、少ない。


だがその中に、一人の男がいる。


本を読み、筋トレをし、チキンステーキを愛する男。


正体不明≪アンノウン≫の二つ名を背負う、序列第二位。


彼が動く時、何かが変わる。


――その何かが、吉と出るか凶と出るかは、まだ誰にもわからない。

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