第九章『号令――十三の刃、解き放たれる』(後編)
三日後。
鬼嶋十夜は、都立桜ヶ丘高校から千八百メートル離れた高層マンションの屋上にいた。
早朝。日の出前。空は紺色から灰色に変わりかけている。気温は十二度。風速は毎秒二・三メートル。湿度五十八パーセント。
鬼嶋は全てのパラメータを計算に入れ、バレットM82A1を屋上の縁にセットした。バイポッドを展開し、伏射姿勢を取る。スコープを覗く。
千八百メートル先。桜ヶ丘高校の校門前。
まだ誰もいない。登校時間まで四十分。悠真は毎朝、ほぼ同じ時間に校門を通る。久能の監視データから割り出した行動パターン。
鬼嶋は待った。
狙撃手にとって、待つことは呼吸と同じだ。傭兵時代、四十八時間にわたって微動だにせず目標を待ち続けたこともある。四十分など、瞬きの間だ。
三十分が経った。
校門前に、ちらほらと生徒が現れ始めた。鬼嶋はスコープ越しに一人一人を確認する。
そして――いた。
自転車に乗った少年が、校門前の横断歩道に差しかかった。黒髪。中肉中背。制服。平凡な外見。
榊原悠真。
鬼嶋の心拍数が落ちた。戦闘集中状態。指先の震えが消え、呼吸が深くなる。
スコープのクロスヘアが、悠真の頭部を捉えた。
千八百メートル。風速補正、二・三メートル毎秒、右から左。湿度補正。コリオリ効果補正。弾道落下補正。全てを加味した照準点を設定。
鬼嶋の右手の人差し指が、トリガーにかかった。
一呼吸。
二呼吸。
三呼吸の間に撃つ。心臓の拍動と拍動の間。身体が最も静止する瞬間。
一呼吸。
二呼吸。
三――
「よう、鬼嶋」
声が、真後ろから聞こえた。
鬼嶋の全身の毛が逆立った。
ライフルから指を離すより早く、身体を転がして振り返った。伏射姿勢から瞬時に膝立ちに移行し、腰のホルスターに手をかける――ホルスターはない。実体の武器は≪無限凶器≫で生成するスタイルだ。右手に念を込め、ベレッタM92を瞬時に実体化させ、声の方向に銃口を向けた。
屋上の給水タンクの陰に、一人の少年が寄りかかっていた。
制服姿。鞄を肩にかけ、ポケットに手を突っ込んで、欠伸を噛み殺している。
榊原悠真。
「……な」
鬼嶋の声が掠れた。
ありえない。千八百メートル先の校門前にいたはずだ。たった今、スコープで確認した。
悠真は欠伸の涙を指で拭いながら、のんびりと言った。
「三日前から気づいてたよ、鬼嶋」
鬼嶋の顔から、表情が消えた。
「三日前……だと?」
「お前がこのマンションの屋上を下見に来た時。≪無限凶器≫で武器を生成する時、確率場にごく微細な歪みが出るんだ。実体のない空間から実体のある物質を生み出すわけだから、質量保存則に反する事象が発生する。その確率的異常を、俺の≪虚数演算≫は拾える」
悠真はポケットから手を出し、指を一本立てた。
「三日前。このマンションの屋上で、お前はライフルを生成してスコープの調整をした。その時の確率場の歪みを捉えた。方角、距離、高度から射点を特定。生成された武器の質量から、対物ライフルと推定。千八百メートルの距離。.50BMG。狙撃だな、と」
鬼嶋はベレッタを構えたまま、動けなかった。
「じゃあ……校門前にいたのは……」
「ああ。≪虚数演算≫で周囲の人間の認識を操作した。『悠真が校門前にいると誤認する確率』を上げただけだ。実際には、俺は三十分前からここにいた」
悠真は給水タンクから背を離し、鬼嶋の方に歩いてきた。両手はポケットに入ったまま。無防備。だが、その無防備さこそが最大の威圧だった。
「超長距離狙撃で意識の外から仕留める。発想は悪くない。正直、十三席の中でも上位の戦術センスだと思う」
「…………」
「でもな、鬼嶋。≪虚数演算≫は確率場を常時モニタリングしてるんだ。百メートルだけじゃない。俺が本気を出せば、半径二キロ以内の全ての確率的異常を検知できる。千八百メートルは、俺の守備範囲の内側だよ」
鬼嶋の手から、ベレッタが滑り落ちた。
落ちる前に実体が霧散し、虚空に還った。
「……完敗だ」
鬼嶋は膝をついた。
プライドの高い男ではなかった。元傭兵。勝てない戦いからは退く。それが戦場で生き残る鉄則だ。
「降参する。盟主の指令で来たが……お前には勝てない」
悠真は鬼嶋を見下ろして、そのまま背を向けた。
「帰れ、鬼嶋。お前は良い戦士だ。こんなところで死ぬ必要はない」
勝負のついた相手を屠ってもつまらない。悠真にとっては、それだけのことだった。
鬼嶋は屋上のコンクリートに膝をついたまま、悠真の背中を見つめていた。
「……榊原」
「ん?」
「お前は、なぜ結社を辞めた」
「弱い方についたほうが面白そうだったから」
「……そうか」
鬼嶋は立ち上がり、バレットM82A1を消滅させた。虚空に還る金属の残響。
「面白い理由だな。傭兵時代なら一笑に付したが……お前が言うと、妙に説得力がある」
悠真は片手をひらりと振った。
「褒め言葉として受け取っておく」
鬼嶋は屋上の扉に向かって歩き出した。途中で足を止め、振り返った。
「一つだけ忠告しておく。俺は最初の一人だが、最後じゃない。盟主の指令を受けた十三席が、これから次々にお前を狙う。中には俺より遥かに厄介な連中もいる」
「知ってる」
「No.2の雨貝ハルキ。あいつだけは……気をつけろ。俺も詳しくは知らないが、あの男は何かがおかしい」
悠真は振り返らなかった。
「忠告、感謝する」
鬼嶋は去った。
屋上には悠真一人が残された。
朝日が昇り始めていた。東の空がオレンジ色に染まり、都市のシルエットが黒く浮かび上がる。
悠真は朝日を眺めながら、呟いた。
「十三席の総攻撃、か」
口元に浮かんだのは、いつもの——退屈とは正反対の、危険な笑み。
「……面白いじゃないか」
* * *
同日。放課後。教室。
紅音は、自分だけ指令を受け取っていないことに気づいていた。
朝から十三席の通信チャンネルが活発に動いているのを、異能で複製した通信傍受スキルで察知していた。しかし、紅音の端末には何も届いていない。
何かが動いている。自分を除いた形で。
「……悠真」
放課後の教室。帰り支度をしている悠真の背中に声をかけた。
「何かあったでしょ。朝から雰囲気が違う」
悠真は振り返った。いつもの飄々とした顔。だが紅音は見抜いていた。あの目の奥にある、戦闘前の冷たい光を。
「今朝、鬼嶋と会った」
「No.10!? 人間武器庫≪アルティメット・ウェポン≫が……?」
「超長距離狙撃で仕掛けてきた。対処済みだ」
紅音の顔色が変わった。
「十三席が、本気で狙ってきたっていうことは……盟主から指令が出たのね。私だけ届いてない。つまり、私は外されてる」
「そうだろうな。お前は俺の味方だと、盟主もわかってるんだろう」
紅音は唇を噛んだ。
「これから、十三席が次々に来るってこと?」
「たぶんな」
「…………」
紅音は悠真の顔を真っ直ぐに見た。
「私も戦う」
「紅音」
「結社の指令なんか知らない。私は私の意志で、ここにいるの。悠真の敵は、私の敵よ」
環奈が教室の入口で立ち止まっていた。二人のやり取りを、聞いていた。
「……私にも、何か手伝えることはある?」
悠真は二人を見た。
異能を持たない才媛と、万能の異能を持つ少女。どちらの目にも、引き下がる気配はなかった。
悠真は溜息をついた。
「環奈。お前にしかできない仕事がある」
「何?」
「分析だ。俺の≪虚数演算≫は確率場の異常を検知できるが、敵の行動パターンや心理を推測するのは得意じゃない。お前の観察力と論理的思考が必要だ」
環奈の瞳に、光が灯った。
「任せて」
悠真は三人の間を見渡した。
確率を操る天才。万能の才能を複製する少女。そして、異能を持たないが、誰よりも鋭い知性を持つ才媛。
三人のチームが、今、正式に動き始めた。
十三席の刃が迫る中で。
「よし」
悠真は鞄を肩にかけた。
「戦争の時間だ」
第十章『連戦――十三席、襲来』 に続く
――盟主の号令が下った。
十三の刃が、一人の少年に向けられた。
だがその少年は笑っている。
退屈な日常は終わった。始まるのは、世界で最も贅沢な戦争。
最強の異能者たちが、最強の少年を倒すために全力で襲いかかる。
そして少年は、それを――「面白い」と言う。




