第九章『号令――十三の刃、解き放たれる』(前編)
夜。高層ビル屋上。
盟主――原初の設計者≪アーキテクト・ゼロ≫は、夜空を見上げていた。
以前と同じ場所。同じ姿勢。しかし、その目に映るものの意味は、あの夜とは決定的に変わっていた。
星の配置が、動いている。
肉眼では見えない。天文学者が最新の観測機器を使っても、まだ気づいていないかもしれない。だが盟主には、わかる。夜空の向こうにある「それ」が、確実に近づいてきていることが。
「……いよいよ、運命の時が来る」
風が盟主の黒衣を攫った。
都心の夜景が眼下に広がっている。無数の灯り。無数の命。何も知らずに眠り、何も知らずに明日を迎える人々。
盟主は夜空から目を離し、コートの内ポケットから通信端末を取り出した。
暗号化された端末。天叡結社≪エデン・オルド≫の最高機密通信チャンネル。盟主だけが発信権を持つ、十三席への直通回線。
盟主の指が、端末の上を走った。
* * *
同夜。天叡結社≪エデン・オルド≫各所。
十三席の序列保持者たちの端末が、同時刻に震えた。
受信したのは、暗号化された指令書。発信者コード――A-ZERO。盟主直々の極秘指令。
これが届くのは、結社の歴史上でも数えるほどしかない。十三席の全員が、端末を手に取った瞬間に空気が変わったのを感じた。
指令書の内容は、簡潔だった。
【極秘指令:最優先】
【発令者:序列第一位《No.1》原初の設計者≪アーキテクト・ゼロ≫】
【指令内容:以下に記す】
一、元序列第十三位《No.13》虚数領域の観測者≪イマジナリー・オブザーバー≫榊原悠真を無力化せよ。
二、榊原悠真に随行する以下の二名には、いかなる状況においても危害を加えないこと。可能な限り、両名の身体の安全を確保すること。
・遠山紅音(No.7 万象の簒奪者≪オムニ・テイカー≫)
理由:現役の序列保持者であり、結社の資産である。
・氷室環奈(一般人)
理由:父親が結社と取引関係にある重要企業の重役である。同人物への危害は結社の利益を損なう。
三、本指令を達成した序列保持者には、天叡結社≪エデン・オルド≫序列第一位《No.1》の座を譲渡する。
四、危険を察知した場合は、即座に撤退せよ。生きて帰れ。
【以上】
* * *
地下四十七階。ラウンジ。
簑島秀一は、端末の画面を三度読み返した。
「……盟主の座を、譲る?」
声が裏返った。
隣のソファで雨貝ハルキがチャンドラーの続きを読んでいた。こちらも端末を確認した後だったが、表情に変化はない。サングラスの奥の目は、相変わらず読めない。
「生きて帰れ、か」
雨貝がぽつりと呟いた。
簑島は雨貝を見た。
「盟主がこんなことを言うのは初めてだ。いつもは『結果を出せ』の一点張りなのに……『生きて帰れ』なんて」
「優しいじゃないか」
「優しい、って……盟主が?」
簑島には理解が追いつかなかった。天叡結社の盟主≪アーキテクト・ゼロ≫は、冷徹で、合理的で、感情を見せたことのない存在だった。その盟主が、指令の末尾に「生きて帰れ」と書いている。まるで――部下の身を案じる上司のように。
「それに、盟主の座を譲る、というのも異常だ。No.1の椅子を手放すなんて、何を考えている……?」
「さあな」
雨貝は本を閉じ、伸びをした。
「だが、面白い指令だとは思う」
* * *
別の場所。久能昌の個室。
モニターの群れに囲まれた久能は、指令書を読み終えた後、回転椅子を一回転させた。
「盟主の座、ねえ」
興味がないわけではなかった。だが、久能の関心はそこではなかった。
「榊原悠真を打倒せよ、か。俺の電子戦であいつの確率操作を突破できるかどうか……正直、五分五分だな」
久能は顎に手を当てた。
「だが、『生きて帰れ』とも言っている。盟主がわざわざそう書くということは、死ぬ可能性が高いということだ。あいつと本気でやり合えば」
久能はコーラを一口飲んだ。
「……遊園地の時みてえに、ちょっかい出す程度ならともかく、ガチの戦闘は別だからな」
『久能さん、参加するんですか?』
「うるせえ、考え中だ」
* * *
また別の場所。地下施設の武装保管庫。
一人の男が、端末の画面を見つめて、にやりと笑った。
序列第十位《No.10》――人間武器庫≪アルティメット・ウェポン≫鬼嶋十夜。
三十代前半。がっしりとした体格。軍人のように短く刈り上げた髪。鋭い目つき。首から胸にかけて、銃弾の形をしたタトゥーが刻まれている。
鬼嶋は元傭兵だった。世界各地の紛争地帯を渡り歩き、あらゆる兵器を手にし、あらゆる戦場を経験した男。異能に目覚めたのは二十代半ば。それ以来、彼の戦い方は根本から変わった。
≪無限凶器≫。
念じるだけで、あらゆる実体を持った武器を生成できる異能。拳銃、ライフル、刀剣、爆発物、対戦車兵器――想像できる全ての武器を、虚空から実体化させる。
ただし、条件がある。
生成する武器に対する正確な知識を持っていなければ、生成は成功しない。銃であれば、口径、弾種、薬莢の寸法、銃身のライフリング、撃発機構の構造、反動特性――全てを正確に理解していなければ、虚空から引き出すことはできない。曖昧な知識では不完全な武器が生成され、暴発するか、そもそも形を成さない。
だからこそ鬼嶋は、兵器の知識を蓄積し続けた。古今東西のあらゆる武器。刀剣の鍛造技術から、最新鋭のミサイルシステムまで。彼の頭脳に格納された武器のデータベースは、世界のどの軍事機関よりも精密で包括的だった。
人間武器庫。その二つ名は伊達ではない。
「盟主の座、か」
鬼嶋は端末をポケットにしまった。
「悪くない報酬だ。だが、報酬以前に――元No.13を狩るってのは、戦士として燃える仕事だな」
鬼嶋は目を閉じた。
榊原悠真。≪虚数演算≫。確率操作。あらゆる事象の確率を書き換える、理不尽の極致。正面から挑めば、銃弾が「当たらない確率」を100%にされる。近接戦闘を仕掛ければ、こちらの動きが「失敗する確率」を100%にされる。
普通に戦えば、勝ち目はない。
ならば――普通に戦わなければいい。
鬼嶋は元傭兵だ。正面戦闘だけが戦争ではないことを、身をもって知っている。
「確率操作は万能に見える。だが、操作するには対象を認識していなければならないはずだ。銃弾の軌道を歪めるにも、まず銃弾が飛んでくることを知覚しなきゃならない。知覚できない攻撃は、確率操作の対象にならない。――ではどうするか」
鬼嶋は保管庫の壁に寄りかかり、腕を組んだ。
「答えは単純だ。あいつの意識の外から仕掛ける」
≪無限凶器≫で生成する武器。あらゆる武器を選択できる。近接武器から大量破壊兵器まで。その中から、鬼嶋は一つの武器を選んだ。
ドラグノフSVD――ロシア製半自動狙撃銃。
有効射程八百メートル。7.62x54mmR弾。初速八三〇メートル毎秒。ガス圧作動方式。回転ボルト閉鎖。PSO-1スコープ装備。
いや、待て。八百メートルでは足りない。悠真の確率場モニタリングの範囲が不明だ。結社時代のデータでは百メートル程度とされていたが、あれは悠真が手を抜いていた可能性が高い。安全マージンを取るなら、もっと遠くから――
鬼嶋は思考を修正した。
ドラグノフSVDではなく、対物ライフル。
バレットM82A1。口径.50BMG。有効射程千八百メートル。最大射程六千八百メートル。
鬼嶋の脳内に、バレットM82A1の全構造が展開される。セミオートマチック。ショートリコイル作動。回転ボルトロッキング。マズルブレーキ付き。全長一千四百四十八ミリ。重量十二・九キロ。発射速度は毎分十発。スコープはリューポルドMark4。
完璧な知識。一ミリの曖昧さもない。
鬼嶋は右手を掲げた。
≪無限凶器≫――発動。
虚空が歪み、光が収束し、手の中に重量が生まれた。
バレットM82A1。全長一・四メートルの巨大な対物ライフルが、完全な形で実体化した。金属の冷たさが掌に伝わる。重量十二・九キロ。ずしりとした、命を刈り取るための重さ。
鬼嶋はライフルの動作確認をしながら、笑みを深めた。
「千八百メートル先から.50BMGをぶち込む。音速を超える弾丸が到達するまで約二秒。その二秒間に、あいつが弾丸を知覚できるか? 確率場のモニタリングで銃弾を捉えられるか?」
鬼嶋の答えは、NOだった。
超長距離狙撃。射手と標的の間に千八百メートルの距離。発射音は弾丸より遅い。弾丸が到達してから、銃声が届く。つまり悠真が銃声を聞いた時には、既に弾丸は頭蓋を貫通している。
「いくら確率を操作できても、存在を認識していない弾丸は操作できない。知覚の外からの一撃。これなら――」
鬼嶋はライフルを肩に担いだ。
「元No.13でも、死ぬ」




