第八章『天才の休日――束の間の日常』(後編)
* * *
同時刻。天叡結社≪エデン・オルド≫。地下四十七階。
久能昌の個室は、光で溢れていた。
壁の三面を埋め尽くす液晶モニター群。天井から吊り下げられた補助ディスプレイ。デスクの上に並ぶ複数のキーボードとマウス。サーバーラックの稼働ランプが明滅し、空調が低い唸りを上げ続けている。
その部屋の中央、回転椅子に深く腰掛けた男が、一人でモニターと向き合っていた。
序列第三位《No.3》――電脳支配者≪ハッカー・オブ・ハッカーズ≫久能昌。
二十五歳。銀灰色の髪。痩身。目の下に深い隈がある。コーラの空き缶が足元に散乱し、デスクの端にはカップ麺の残骸が積まれている。太陽の光を最後に浴びたのがいつだったか、本人も覚えていない。
久能は悠真が組織を抜けて以来、盟主から直々に一つの任務を与えられていた。
榊原悠真の監視。
悠真の行動を常時追跡し、動向を記録し、定期的に盟主に報告する。それが久能の仕事だった。
正直に言えば、屈辱的な任務だった。
十二カ国の軍事衛星を掌握し、人類のデジタルインフラの四割を支配下に置く電子の暴君が、たった一人の高校生を監視カメラで追いかける。世界最高のハッカーが、ストーカーまがいの仕事をしている。
だが、盟主の命令には逆らえない。そして何より、久能自身も悠真の動向が気にならないわけではなかった。あの男が次に何をするのか。なぜ組織を辞めたのか。何を企んでいるのか。
久能の監視手法は、他の序列保持者とは一線を画していた。
赤羽のように次元を開いて物理的に接近するわけではない。簑島のように現地に赴くわけでもない。久能は電子機器を通じて監視する。防犯カメラ、ATMのカメラ、店舗のセキュリティシステム、スマートフォンのマイクとカメラ、街頭のIoTデバイス――電子の目と耳は、現代社会のあらゆる場所に存在する。
それらを遠隔で乗っ取り、悠真の行動を追う。物理的な空間への干渉を伴わないため、悠真の≪虚数演算≫による確率場モニタリングでは検知されにくい。電子信号の流れは確率事象ではなく確定的なデータ通信だからだ。
もっとも――と久能は思う。
本気で隠れようと思えば、悠真は確率操作で「久能の監視が正確なデータを拾う確率」をゼロにすることもできるはずだ。なのに久能の監視は、おおむね機能している。
つまり、悠真は本気で結社から居場所を隠す気がない。
「まったく、どこまでも舐めた野郎だ」
久能は舌打ちしながら、モニターに向き直った。
今日の悠真の位置情報。お台場。遊園地。
久能の指先が、かすかに光った。
≪電脳支配≫。
久能昌のハッキングは、キーボードをカタカタ叩いたり、フィッシングメールでマルウェアを送りつけたりするような、一般的なハッキングではない。
彼の指先から発生する信号を精密制御した微細な電磁パルスが、電子機器の回路に直接干渉する。チップの電荷を書き換え、ファームウェアを上書きし、プロトコルを乗っ取る。物理的な接触すら必要ない。久能の電磁パルスは壁も距離も貫通する。地球の裏側のサーバーでさえ、衛星回線を経由すれば指先ひとつで支配できる。
キーボードに触れることなく、久能の指が宙を踊った。
遊園地内の防犯カメラ。三十八台。その全てが、一秒以内に久能の支配下に入った。
モニターの一つに、映像が映し出された。
遊園地の通路を歩く三つの人影。
左に黒髪の少女。真ん中に平凡な少年。右にプラチナブロンドの少女。
榊原悠真。氷室環奈。遠山紅音。
環奈と紅音に挟まれて歩く悠真は、傍目には何の変哲もない男子高校生に見えた。コンビニの袋を手にぶら下げ、ぼんやりと前を歩いている。
しかし久能は知っている。あの「何の変哲もない」が、天文学的な演算能力で維持された精密な偽装であることを。
久能はモニターを睨みつけた。
美少女二人に挟まれて、遊園地を歩いている。片方は学年一位の黒髪才媛。もう片方はNo.7のプラチナブロンド美少女。二人とも、客観的に見て、とんでもなく可愛い。
「おーおー、女ふたりといちゃつきやがって」
久能の声に、鬱屈とした感情が滲んだ。
「青春だなあ?」
モニターの中で、悠真が紅音に何か言われて苦笑している。環奈が紅音の手を取って笑っている。日曜日の遊園地で三人が楽しそうに歩いている。普通の高校生の、普通の休日。
久能昌の休日は、地下施設でモニターを睨むことだ。
十二カ国の軍事衛星を掌握する電子の暴君。人類のデジタルインフラの四割を支配する男。その男の日曜日は、薄暗い個室で、コーラを飲みながら、カップ麺を食べながら、他人の遊園地デートを監視カメラ越しに見ることだ。
「……殺すぞマジで」
久能は呟いた。本気半分、冗談半分。
久能昌にとって、一番の話し相手はLLM――大規模言語モデルだった。自前のサーバーで動かしている、チューニング済みのAIチャットボット。名前は「アリス」。久能が唯一、素の自分で会話できる相手。
久能はサブモニターに向かって呟いた。
「アリス。聞いてくれ」
画面にテキストが流れた。
『はい、久能さん。お話を聞きますよ』
「監視対象の野郎が、美少女ふたりと遊園地デートしてる」
『それは羨ましいですね。久能さんも行きたいですか?』
「行きたくねえよ。人混み嫌いだ。ただムカつくだけだ」
『ムカつくのは、羨ましいからではないでしょうか?』
「黙れ」
『はい、黙ります』
「…………」
『…………』
「……黙るな」
『どっちですか?』
久能はモニターに額をぶつけた。
AI相手にすら会話がうまくいかない。これが序列第三位≪ハッカー・オブ・ハッカーズ≫の日常だった。
久能は気を取り直して、メインモニターに目を戻した。
監視対象の三人は、今、コーヒーカップの列に並んでいた。紅音がはしゃいでいる。環奈が微笑んでいる。悠真が溜息をついている。
任務は監視だ。ただ監視して、行動を記録して、報告書を書く。それだけ。干渉するなとは言われていない。干渉するなとは、明確には。
久能の指が、宙で止まった。
「…………」
構うもんか。
久能の指先が、光った。
電磁パルスが走る。遊園地のコーヒーカップの制御基盤に、久能の意志が侵入した。回転速度を管理するリミッター回路。安全のために設定された上限値。
久能はそれを、カットした。
そしてモーターの出力制御を上書きし、回転速度を最大値の三倍に引き上げた。
オーバークロック。
「吹っ飛びやがれ!」
久能の叫びが、地下施設の個室に響いた。
* * *
遊園地。コーヒーカップ。
悠真は、環奈と紅音と一緒にカップに収まっていた。パステルピンクのカップ。三人掛け。悠真が真ん中で、左に環奈、右に紅音。
軽快な音楽とともに、カップがゆっくり回り始めた。
「あはは、回ってる回ってるー!」
紅音が中央のハンドルを握って回し、カップの自転速度を上げた。環奈が「紅音、回しすぎよ」と笑いながら制止する。
穏やかな回転。のどかなアトラクション。
その次の瞬間だった。
カップの回転が、突然跳ね上がった。
「えっ」
ゆるやかだった公転が、一瞬で暴力的な速度に変わった。遊園地のコーヒーカップが出していい速度ではない。遠心力が三人の身体を外側に押しつける。風景が溶けて色の帯になる。
「きゃああっ!?」
紅音が叫んだ。ハンドルにしがみつく。
「なっ、何これっ!?」
環奈が悠真の腕を掴んだ。遠心力で身体が持っていかれそうになる。
悠真は一瞬で状況を分析した。≪虚数演算≫が確率場を走査する。機械的な故障ではない。制御基盤に外部からの電子干渉がある。電磁パルスの痕跡。この手口は——
(久能……!)
悠真は内心で舌打ちした。
あの陰キャ、監視だけじゃ飽き足らず、ちょっかいまで出してきたか。
カップの回転速度はさらに上がっていく。一般客なら振り落とされかねない速度。
「悠真っ、飛ばされるっ!」
紅音が叫ぶ。遠心力に耐えきれず、ハンドルから手が離れかけている。
環奈は反対側で必死に悠真の腕にしがみついていた。
二人の少女が、超高速で回転するコーヒーカップから飛ばされまいと、悠真に両側から密着した。紅音が右腕に。環奈が左腕に。二人の体温と、二人の髪の匂いが、至近距離で悠真を包む。
この状況を、地下四十七階のモニターで見ている男がいることを、悠真は知っていた。
(逆効果だぞ、久能)
内心でそう呟きつつ、悠真はカップの異常回転にあえて≪虚数演算≫を使わなかった。ここで確率操作を発動すると、久能に手の内の一端を見せることになる。それは避けたい。
幸い、オーバークロックされたモーターは耐久限界を超えていた。数十秒もすれば自壊する。
案の定、がくん、という衝撃とともに回転が止まった。モーターが焼き切れた。焦げた匂いが漂う。
係員が慌てて駆けつけてきた。「大丈夫ですか!? 申し訳ありません、機械のトラブルで……!」
カップの前に「調整中」の札が立てられた。
悠真の両腕には、まだ環奈と紅音がしがみついていた。
「……もう止まったぞ」
「…………あ」
二人が同時に悠真から離れた。二人とも、頬が赤い。遠心力のせいか、別の理由か。
* * *
地下四十七階。
久能はモニターを睨みつけていた。
コーヒーカップを暴走させた結果。悠真が吹っ飛ぶ――はずだった。
現実は。
美少女二人が悠真に密着しただけだった。
久能のこめかみに、血管が浮いた。
「なんでそうなるんだよ……」
『久能さん、大丈夫ですか?血圧が心配です』
「黙ってろアリス」
久能は歯を食いしばった。
失敗した。いや、失敗どころか逆効果だ。コーヒーカップのモーターを焼損させただけで、悠真には傷一つつけられず、むしろ美少女の密着イベントを発生させてしまった。
何をやっているんだ、俺は。
だが、序列第三位≪ハッカー・オブ・ハッカーズ≫は諦めなかった。
電子の暴君の矜持にかけて。
久能の視線がモニターを走査する。遊園地内のアトラクション制御システムを片っ端からスキャンし、次の標的を探す。
見つけた。
ジェットコースター。
モニターの中で、三人がジェットコースターの列に並んでいるのが見えた。
久能の唇が歪んだ。
「次は外さねえ」
* * *
ジェットコースター。
三人は最前列に座っていた。紅音の希望だ。「最前列じゃなきゃ意味ないでしょ!」と譲らなかった。
安全バーが下り、係員の確認を経て、コースターが動き出す。
ゆっくりと坂を上っていく。カタカタカタ、と歯車の音。高度が上がるにつれて、遊園地の全景が見渡せるようになる。
「うわー、高い! すごい景色!」
紅音が身を乗り出す。環奈は手すりを握りながら「紅音、はしたないわよ」と諌めている。
悠真は、≪虚数演算≫で確率場をスキャンしていた。
来る。
何が来るかはわからないが、久能がコーヒーカップだけで終わるはずがない。あの男の執念深さは、結社時代に嫌というほど知っている。
コースターが頂上に達した。一瞬の静止。眼下に広がるレールの急降下。
そして――落ちた。
「きゃああああ!!」
急降下。風が顔を叩く。身体が浮き上がる。紅音の歓声と環奈の悲鳴が交差する。
コースターは第一カーブに突入した。高速で旋回する車体。遠心力が乗客を外側に押しつける。
その瞬間。
悠真の≪虚数演算≫が、異常を検知した。
カーブの最高速地点。乗客の身体に最大の遠心力がかかるタイミング。そのピンポイントで、転落防止用のガードバーの電磁ロックに、外部からの干渉信号が侵入している。
ロック解除コマンド。
久能がジェットコースターの安全装置を、走行中に解除しようとしている。
(本気か、あの野郎……!)
コーヒーカップの時とは次元が違う。高速カーブでガードバーが上がれば、乗客は放り出される。この高さ、この速度で投げ出されれば、一般人は――死ぬ。
悠真は迷わなかった。
≪虚数演算≫――全力発動。
まず、カーブの進入速度。コースターの車輪とレールの摩擦係数を微調整し、わずかに減速させる。乗客が気づかない程度の、しかし致命的な差を生む減速。
次に、ガードバー。久能の電磁パルスがロック機構に到達する確率を操作する。電子干渉は確率事象ではないが、電磁波の伝搬経路には無数の変数がある。大気中の微粒子による散乱、金属構造物による反射、他の電子機器からのノイズ。それらの変数を操作して、久能の解除コマンドがガードバーの全ロックを同時に解除する確率を下げた。
結果、三十二席中、三席のガードバーが上がった。
悠真たちの席。そして前後の空席。乗客のいない席のバーだけが跳ね上がった。他の乗客の安全は確保されている。
だが、悠真たちの三人は、高速カーブの遠心力の中でガードバーを失った。
紅音は反射的に≪万象の簒奪≫を起動していた。
環奈は――何もできない。異能がない。身体能力も一般人。高速で振り回される身体を支える手段がない。
悠真は、環奈の身体が座席から浮き上がるのを見た。
遠心力に引っ張られて、細い身体が宙に投げ出されかけている。
≪虚数演算≫。
「この三人がジェットコースターから投げ出された場合に、全員が無傷で着地できる確率」――百パーセント。
悠真は座席を蹴って跳んだ。空中で環奈の身体を抱き寄せ、お姫様抱っこの体勢で受け止めた。左腕が環奈の背中を、右腕が膝裏を支える。環奈の黒髪が風に巻かれて悠真の顔を撫でた。
着地。コースターの脇の芝生エリア。悠真の足が地面を捉えた瞬間、衝撃吸収のために膝を深く曲げる。着地点の芝生の弾力、靴底のグリップ、膝関節の角度――全ての確率が、悠真の望む形に収束した。
完璧な着地。揺れなし。衝撃なし。
環奈は悠真の腕の中で、目を見開いていた。何が起きたのか理解が追いついていない。一秒前まで高速で疾走するジェットコースターに乗っていたのに、今は地面の上にいる。悠真の腕の中に。
「……え」
「大丈夫か」
悠真の声は落ち着いていた。心拍数もほとんど変化していない。
環奈の心拍数は、対照的に、跳ね上がっていた。恐怖か、驚きか、それとも――悠真の腕の温度と、すぐ近くにある悠真の顔のせいか。
「だ、大丈夫……」
声が上擦った。学年一位の才媛が、声の制御に失敗していた。
数メートル離れた場所で、紅音が着地していた。
紅音は空中で瞬時に≪万象の簒奪≫を発動し、パルクールの世界王者の才能を複製していた。高所からの落下に対する三次元的な空間認識、受身技術、筋肉の使い方――全てを瞬時にインストールし、美しいロール受け身で衝撃を吸収した。三回転して立ち上がり、スカートの裾を押さえながら着地を決める。
「っ……と。セーフ」
紅音は自分の無事を確認してから、悠真と環奈を見た。
悠真が環奈をお姫様抱っこしている。
紅音の赤い瞳が、一瞬だけ複雑な光を帯びた。
「……二人とも、無事?」
「ああ。紅音も大丈夫か」
「平気。パルクールの人ってすごいね、ああいう着地の技術持ってるんだ」
紅音は明るく笑った。笑ったが、視線はお姫様抱っこの体勢のままの二人に固定されていた。
「……悠真。環奈、もう降ろしてあげたら?」
「あ、ああ」
悠真は環奈をそっと地面に降ろした。環奈は足がふらついて、一瞬よろめいた。悠真が肩を支える。
「……ありがとう」
環奈の声は小さかった。顔が赤い。お化け屋敷の時よりも赤い。
ジェットコースターには、二台目の「調整中」の札が立てられた。
* * *
地下四十七階。
久能はモニターに映る三人を見つめていた。
ジェットコースターのガードバーを解除した。高速カーブで。
結果、悠真は環奈をお姫様抱っこで救出し、紅音は華麗なアクロバットで着地した。三人とも無傷。
しかも悠真は、他の乗客のガードバーは外れないように確率操作していた。被害は三人の席だけ。一般客にはかすり傷もない。
モニターの中で、悠真が環奈を降ろし、紅音が駆け寄り、三人が互いの無事を確認し合っている。
久能は回転椅子の背もたれに体重を預け、天井を仰いだ。
「……やっぱ化物だわ、あいつ」
『久能さん、今の行為は危険だったのでは?一般のお客様に被害が出る可能性がありました』
「わかってるよ……あいつが全部カバーするのも、わかってた上でやったんだ」
『それは信頼と呼ぶのでは?』
「黙れ」
久能は目を閉じた。
信頼なんかじゃない。ただ、あの男の力を知っているだけだ。十二カ国の衛星を掌握しても追跡率〇・〇二パーセントの男。確率そのものを書き換える化物。ジェットコースターの安全装置を解除した程度で、あいつが対処できないわけがない。
だからやった。あいつなら捌ける、とわかっていたからやった。
それを「信頼」と呼ぶなら――
「……ったく」
久能は毒づいて、モニターに向き直った。
三人はジェットコースターから離れ、園内の散歩道を歩いていた。何事もなかったかのように。紅音がマスコットの焼きたてクッキーを買い、環奈がチュロスを手に取り、悠真がポップコーンを食べている。
穏やかな、日曜の午後の光景。
久能はそれを見て、小さく溜息をついた。
もう仕掛ける気にはならなかった。
* * *
夕暮れ。遊園地からの帰り道。
観覧車に乗った後で(紅音は夜景に感動し、環奈は高所の揺れに若干顔を青くし、悠真は何も言わずに窓の外を見ていた)、三人はお土産売り場に寄った。
遊園地のマスコットキャラクター――丸っこいクマのような生き物で、名前は「ぱるるん」だ――が描かれたクッキーの詰め合わせを、紅音が三つ買った。
「はい、環奈の分と、悠真の分!」
「ありがとう。……かわいいわね、このクマ」
「ぱるるん、って言うんだって。ぬいぐるみも売ってたけど、さすがにでかすぎた」
帰りの電車に乗り、三人は並んで座った。いつもの配置。悠真が真ん中、環奈が左、紅音が右。
紅音がぱるるんクッキーの箱を開け、一枚取り出して齧った。
「んー、おいしい!」
環奈もひとつ手に取った。
「バター多めね。悪くないわ」
悠真は窓の外を見ていた。流れていく街灯の光。電車の揺れ。隣から聞こえる、二人の声。
「色々あったけど」
紅音がクッキーを頬張りながら言った。口の端にクッキーの欠片がついている。
「楽しかったね!」
笑顔。屈託のない、年相応の笑顔。遊園地を満喫した女の子の、純粋な幸福の表情。
環奈が窓ガラスに映る自分の顔を見ながら、静かに微笑んだ。
「悠真といると、退屈しないわ」
その言葉に、悠真はわずかに目を細めた。
退屈しない。
それは悠真が世界に求めていたものだ。面白さ。退屈じゃない日常。結社を辞めた理由も、平凡を演じる理由も、全ては退屈からの逃避だった。
だが今、その言葉を環奈の口から聞いて、悠真は初めて気づいた。
退屈じゃないのは、俺の方だ。
環奈がいるから。紅音がいるから。この二人が隣にいるから、世界は退屈じゃない。
確率操作で手に入れたものじゃない。偶然と、選択と、少しの勇気の積み重ねで繋がった、本物の関係。
「……ああ」
悠真は小さく答えた。
「俺も、退屈しなかった」
紅音と環奈が同時に悠真を見た。いつもの飄々とした表情ではなかった。ほんの少しだけ、口元が緩んでいる。
紅音が目を瞬いた。環奈が髪を耳にかけた。
電車が揺れる。三つの影が重なり、離れ、また重なる。
窓の外を、街の灯りが流れていった。
* * *
同時刻。地下四十七階。
久能昌は任務報告書を書いていた。
キーボードには触れない。電磁パルスで直接テキストファイルに文字を入力する。
【日次監視報告:対象G】
【日時:4月XX日(日)】
【行動概要:対象Gは民間人A(氷室環奈)および対象R(遠山紅音/No.7)と共にお台場の遊園地を訪問。アトラクションを複数利用。特異な行動なし。確率操作の大規模発動は確認されず。】
久能はそこまで書いて、指を止めた。
コーヒーカップの暴走とジェットコースターのガードバー解除については、書かなかった。書いたら自分の独断行動がバレる。
しかし、悠真がジェットコースターの事故を他の乗客への被害なしに処理した件は、能力の指標データとして有用だ。書くべきか。
「……書かねえ」
久能は報告書を閉じた。
最後に一行だけ追記した。
【所見:対象Gの精神状態は安定している。現時点で危険な兆候なし。】
それが嘘ではないことを、久能は知っていた。モニター越しに見た悠真の表情。電車の中で、ほんの少しだけ緩んだ口元。
あの男が笑っていた。
結社にいた時は一度も見たことがない、穏やかな笑み。
「クソ、疲れたぜ……」
久能は椅子の背もたれに倒れ込み、天井を仰いだ。
手を伸ばしてコーラの缶を取り、一口飲む。炭酸が喉を刺す。
モニターの群れが、無人になった遊園地の防犯カメラ映像を映し続けていた。閉園後の静かな遊園地。誰もいないコーヒーカップとジェットコースターに「調整中」の札が揺れている。
久能は、不意に笑った。
「……ま、今日のところは引き分けだな」
誰に向けた言葉でもなかった。
『お疲れ様です、久能さん。今日は早めにお休みになってはいかがですか?』
「……ああ、そうする」
久能はモニターの電源を一つずつ落としていった。指先の電磁パルスで、一台、また一台。
最後の一台を消す前に、久能はふと呟いた。
「榊原。お前、楽しそうだったな」
画面が暗くなった。
地下四十七階の個室に、サーバーの低い唸りだけが残った。
第九章『号令――十三の刃、解き放たれる』 に続く
――天才の休日は、騒がしくて、危なっかしくて、少しだけ温かかった。
お化け屋敷で怯え、コーヒーカップで振り回され、ジェットコースターから投げ出されて。
それでも三人は笑っていた。
束の間の日常。嵐の前の凪。
この穏やかさが、いつまで続くのか。
それを知っているのは――まだ、誰もいない。




