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第八章『天才の休日――束の間の日常』(前編)

日曜日。快晴。気温二十一度。行楽日和。


榊原悠真は、遊園地の入口ゲート前に立っていた。


なぜ自分がここにいるのか、経緯を振り返ってみる。


木曜日の昼休み。環奈と紅音が弁当を食べながら会話していた。


「今度の日曜、遊園地に行かない?」と紅音。


「いいわね。よみうりランド?」と環奈。


「お台場の方がいいな! 観覧車乗りたい!」


「じゃあ、お台場で」


そこまでは、女子二人の休日の約束だった。悠真には関係ない話のはずだった。


ところが次の瞬間、二つの視線が同時に悠真に向いた。


「悠真も来るよね?」と紅音。


「来るわよね?」と環奈。


疑問形であって疑問形ではなかった。YESかYESかを選ぶ二択。


「いや、俺は――」


「「来るわよね(来るよね)?」」


三度目のハモり。もはや様式美だった。


そして日曜日。悠真は遊園地にいた。


お台場の遊園地は、休日の人混みで賑わっていた。家族連れ、カップル、友達同士のグループ。色とりどりの歓声と、アトラクションの機械音と、ポップコーンの甘い匂い。


悠真は入口ゲートの柱に寄りかかって、二人を待っていた。集合時間の十分前。平凡な少年のテンプレートを完璧に纏い、スマートフォンを弄るふりをしている。実際には≪虚数演算≫で周囲の確率場をスキャンし、異常がないことを確認していた。休日でも習慣は変わらない。


「悠真ー!」


声が聞こえて顔を上げると、人混みの向こうから紅音が駆けてきた。


私服姿は初めて見る。白いブラウスに、薄いピンクのフレアスカート。プラチナブロンドの髪がふわりと揺れ、赤い瞳が陽光を受けてルビーのように輝いている。万象の簒奪者≪オムニ・テイカー≫の肩書きを知らなければ、どこからどう見ても可憐な美少女だった。


「待った? ごめんね!」


「いや、今来たところ」


テンプレ。完璧なテンプレ回答。


紅音の後ろから、もう一人が歩いてきた。


氷室環奈。


紺色のワンピースに、薄手のカーディガン。黒髪がゆるく巻かれて、いつもの凛とした雰囲気に柔らかさが加わっている。普段の制服姿とはまるで印象が違う。


「お待たせ」


「いや、今来た――」


「それ、紅音にも同じこと言ったでしょう」


見抜かれた。環奈の観察力は休日でも健在だった。


「……まあ、行くか」


三人はゲートをくぐった。


遊園地の中は、どこを見ても色彩と喧騒に溢れていた。


紅音は入った瞬間から目を輝かせて、あちこちを指差した。


「あれ乗りたい! あっちも! あの回るやつ!」


「紅音、遊園地は初めて?」


「初めてじゃないけど……結社にいた頃は、こういう場所に来る機会なかったから。任務以外で外出することってほとんどなくて」


紅音の声が、ほんの少しだけ曇った。すぐに笑顔で取り繕ったが、環奈はそのわずかな翳りを見逃さなかった。


天叡結社≪エデン・オルド≫。異能者の集団。紅音は十五歳でNo.7の座についた。同年代の友達と遊園地に行くような、普通の青春は、彼女の人生になかった。


環奈は紅音の手を取った。


「じゃあ今日は、全部回りましょう。端から順番に」


「え、全部!? 閉園まで時間足りるかな!」


「効率的なルートを計算してあるわ。昨日の夜、園内マップを分析して最適動線を出したの」


「環奈ってほんとそういうとこ環奈だよね!」


紅音が環奈の手を握り返した。二人の少女が手を繋いで歩き出す。悠真はその後ろを、少し距離を置いてついていった。


≪虚数演算≫のモニタリングは継続しつつ、意識の九割を「平凡な少年」の演技に振り分ける。休日の遊園地で美少女二人と一緒にいる時点で平凡ではないが、せめて態度だけでも。


最初のアトラクションはメリーゴーラウンド。紅音が白馬に跨り、環奈が隣のユニコーンに座り、悠真は仕方なくカボチャの馬車に収まった。


「悠真、カボチャ似合う!」


「うるさい」


次にバイキング。大きく揺れる船型のアトラクション。紅音は最前列で両手を上げてはしゃぎ、環奈は風に髪を乱しながらも涼しい顔を保ち、悠真は平凡な少年らしく「おお」とか「うわ」とか適度に声を上げた。


射的では、紅音が異能を使わずに全弾命中させてしまい、「え、すごい!」と店員に驚かれた。環奈に「絶対にちょっとだけ異能使ったでしょう」と指摘され、「使ってないもん!……たぶん」と目を逸らした。悠真はわざと三発外して景品のキーホルダーひとつだけ獲得した。平凡維持。


三人は園内を巡りながら、ポップコーンを分け合い、クレープを食べ比べ、マスコットキャラクターの着ぐるみと写真を撮った。紅音が着ぐるみに抱きつき、環奈が隣でピースサインを作り、悠真が端っこで微妙な表情をしている写真が、紅音のスマートフォンに保存された。


「ふふ、悠真の顔。なにその、いやいや連れて来られました、みたいな顔」


「いやいや連れて来られたんだが」


「嘘。ちょっと楽しそうだったよ、バイキングの時」


「……気のせいだ」


普通の、休日。普通の、高校生の遊び。


紅音にとっては初めてに近い経験で、環奈にとっては久しぶりの経験で、悠真にとっては――たぶん、生まれて初めての経験だった。


午後二時。三人はアトラクションエリアの奥に足を踏み入れた。


「次、何乗る?」


紅音が園内マップを広げる。環奈が指で最適ルート上の次の目的地を示した。


「ここ。お化け屋敷」


紅音の目が輝いた。「お化け屋敷! いいね!」


悠真は特に異論なく頷いた。


だが、環奈の足が、わずかに止まった。


「……」


お化け屋敷の入口は、薄暗いゴシック調の門構えで、スピーカーから不気味なBGMが流れている。入口の脇には「恐怖度MAX」「心臓の弱い方はご遠慮ください」の看板。


環奈の顔色が、かすかに変わった。


紅音が気づいた。


「環奈? どうかした?」


「……いえ、何でも」


「顔色悪くない?」


「大丈夫よ。行きましょう」


環奈は先に歩き出そうとした。だが、その足取りが普段より明らかにぎこちない。


悠真は黙って見ていた。≪虚数演算≫による確率場の分析では、環奈のバイタルに僅かな変動が見られた。心拍数の上昇。末梢血管の収縮。アドレナリンの微量分泌。


——ストレス反応。恐怖のそれ。


悠真は口を開きかけて、やめた。


三人は入口をくぐった。


お化け屋敷の中は、期待通りに暗かった。


細い通路。赤黒い照明。壁の隙間から吹き込む冷気。遠くで悲鳴のSEが反響し、足元の床板がところどころ軋む仕掛けになっている。


紅音は先頭を歩いていた。きょろきょろと周囲を見回し、「ここから出てくるかな」「あ、あの人形動くやつだ」と実況している。万象の簒奪者は、お化け屋敷のギミックを分析するのに異能を使わなかった。使ったらつまらないから。これは紅音なりの矜持だ。


悠真は真ん中。平凡テンプレートで「うわ」とか「おっ」とか適度にリアクションを取っている。実際にはお化け屋敷のギミック全てを≪虚数演算≫で事前に予測できているが、それを表に出すような無粋はしない。


そして環奈は、最後尾。


暗い。狭い。何が出てくるかわからない。


氷室環奈は、学年一位の才媛で、偏差値七十八で、統計学で天才の仮面を剥がし、異能者の世界に知的好奇心だけで踏み込んだ女だ。天叡結社の序列保持者に命を狙われても、恐怖を変数と言い切った女だ。


その女が、お化け屋敷で震えていた。


「ちょっと……」


環奈の声が、小さく漏れた。


「幽霊は……苦手で……」


紅音が振り返った。赤い瞳が暗闘の中でぱちくりと瞬いた。


「環奈でも、苦手なものってあるんだ」


「あるわよ……人間だもの……」


「でも、裏山で異能者に命を狙われた時は平気だったじゃん」


「あれは理屈で理解できるもの……異能は未知の物理現象として分析できる……でも幽霊は、理屈がないから……理屈がないものが、一番怖いの……」


環奈の声が震えていた。偏差値七十八の頭脳が、お化け屋敷のギミックが作り物だと理解している。しかし理解と恐怖は別の回路で動く。暗闇と不気味なBGMと、何が出てくるかわからない不確定性が、環奈の原始的な恐怖本能を直撃していた。


その時、通路の壁から白い手がぬっと伸びた。


「ひっ――!」


環奈の右手が、反射的に悠真のブレザーの裾を掴んだ。


「……環奈?」


「は、離さないから……!」


環奈の指が、悠真の服を強く握りしめている。いつもの凛とした才媛の面影はどこにもなかった。顔は青白く、目は潤み、唇はきゅっと結ばれている。


紅音が後ろに回り込んできた。


「環奈、大丈夫? 私がいるから安心して!」


環奈の左手が、今度は紅音のブラウスの裾を掴んだ。


右手に悠真。左手に紅音。両方の服の裾をぎゅっと握りしめて、一歩も離れまいとする氷の才媛。


通路の奥から不気味な笑い声のSEが響いた。


「いやあぁ……」


環奈が悠真の背中に顔を埋めた。


悠真と紅音は顔を見合わせた。


暗闘の中、二人の間に、同じ感情が浮かんでいた。


(かわいい)


いや、口には出さない。出したら環奈のプライドが粉砕される。二人ともそれは理解していた。


「よし、環奈。俺が前を歩くから、ずっと掴まってていい」


「私は後ろから守るから!何が出てきても大丈夫!」


「……ふたりとも、ありがとう……でもこれ、誰にも言わないでね……絶対に……」


「言わない言わない」


「約束するわ」


三人は隊列を組んで進んだ。悠真が先頭、環奈が真ん中、紅音が殿。環奈は両手でそれぞれの服を握りしめたまま、目を半分閉じて歩いた。


通路の曲がり角からゾンビの人形が飛び出すたびに「ひぅっ」と小さな悲鳴を上げ、悠真の背中にぴったりと張りつく。天井から蜘蛛の巣のオブジェが垂れてくれば「いやぁ」と首を竦め、紅音の腕にしがみつく。


知的好奇心で異能者や天叡結社に物怖じせず近づける氷の才媛が、お化け屋敷の作り物の幽霊に怯えている。


少し滑稽で、少し微笑ましくて、少し――愛おしかった。


出口の光が見えた時、環奈は深い深い溜息をついた。


「……二度と入らない」


「環奈、顔真っ白だよ」


「知ってる……」


太陽の下に出ると、環奈はようやく二人の服を離した。手のひらに汗が滲んでいた。恥ずかしさで頬がうっすら赤くなっている。


「……本当に、誰にも言わないでね」


「言わないって。ね、悠真」


「ああ、墓まで持っていく」


「大袈裟よ……」


環奈は照れ隠しに髪をかき上げた。


三人は次のアトラクションに向かって歩き出した。環奈はもう二人の服を掴んでいなかったが、歩く距離が、お化け屋敷に入る前よりも少しだけ近くなっていた。

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