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第七章『嵐の前――天叡結社、動く』(後編)

* * *

四月下旬。都立桜ヶ丘高校。


裏山の一件以来、三人の関係は変わった。


氷室環奈が、天叡結社≪エデン・オルド≫の存在を知り、悠真と紅音の正体を知り、異能という概念を知った。秘密を共有したことで、環奈と紅音の間にあった目に見えない壁が溶けた。


以前は互いを分析し、探り合い、水面下で火花を散らしていた二人の天才美少女が、今は——普通に、友達として、話すようになっていた。


きっかけは、些細なことだった。


裏山の翌日。昼休み。紅音が環奈の席にやってきて、こう言った。


「ねえ環奈。……環奈って呼んでいい?」


「いいわよ。じゃあ私も、紅音って呼ぶわね」


それだけだった。それだけで、二人の距離が一気に縮まった。


命を助けられた恩と、秘密を共有した連帯感。それは、テストの成績や運動能力を比べ合うよりもずっと強い、人と人を結びつける力だった。


水曜日の昼休み。


環奈と紅音は、中庭のベンチに並んで座っていた。環奈は手作りの弁当、紅音はコンビニのサンドイッチ。


「紅音、毎日コンビニなの?」


「うん。料理は……その、苦手なんだ。なんか、ご飯くらい自分で作りたいなって思うのに、壊滅的にセンスがなくて……」


「異能でミシュラン三ツ星シェフの才能を複製すればいいんじゃないの?」


「それだと、なんか負けた気がするの!」


環奈は小さく笑った。万能の異能を持ちながら、料理だけは自力でやりたいという紅音の謎のこだわりが、妙に人間臭くて好ましかった。


「今度、教えてあげましょうか。簡単なお弁当の作り方」


「え、いいの!?」


紅音の赤い瞳がきらりと輝いた。年相応の、無防備な喜びの表情。


「うんうん! 教えて教えて! 卵焼きが上手に巻けないの!」


「卵焼きはコツがあるのよ。火加減と、箸の返し方と……」


二人の天才美少女が、中庭のベンチで卵焼きの巻き方について真剣に議論している。その光景は、客観的に見れば微笑ましい日常のワンシーンだった。


しかし、客観的に見ている側は微笑ましいどころではなかった。


中庭に面した校舎の窓という窓から、男子生徒たちの視線が降り注いでいた。


「氷室さんと遠山さんが二人で弁当食ってる……」


「天使か? 天使が二人いるのか?」


「あの空間だけ光って見える」


「写真撮りたい……いや、撮ったら怒られるか……」


「撮らなくていいから目に焼き付けろ」


男子たちのざわめきは、二年B組に限った話ではなかった。一年生も、三年生も、窓際に集まって中庭を覗き込んでいる。学年一位の才媛と、万能の転入生美少女。学校の二大看板が仲良く並んでいるのだ。注目しないわけがない。


そしてそんな中、もう一人が中庭に現れた。


榊原悠真。コンビニの袋を手にぶら下げて、二人のベンチに近づいていく。


「よう。隣いいか」


「いいわよ」と環奈。


「いーよー」と紅音。


悠真は環奈と紅音の間に座った。美少女二人に挟まれる形。


校舎の窓から、男子たちの悲鳴が聞こえた。


「誰だあいつ!」


「同じクラスの……榊原、だっけ?」


「知らない……全然印象ない……」


「なんで氷室さんと遠山さんの間に座ってんだ!?」


「いや待て、あいつ確かテストの点数いつも平均くらいの……」


「なんでそんな平凡な奴があの二人と!?」


悠真はコンビニのおにぎりを齧りながら、全身に降り注ぐ視線を感じていた。


(……まずい)


悠真の≪虚数演算≫は常時起動しているが、今モニタリングしているのは確率場の異常ではなく、自分に向けられた視線の本数だった。推定四十二本。校舎の三フロア分の窓から。


これまで丹念に築き上げてきた「平凡で目立たない少年」の偽装が、音を立てて崩れていく。


「なあ、環奈、紅音」


「なに?」


「何よ?」


「頼むから昼休みくらい別々に食わないか。俺、目立ちたくないんだけど」


環奈と紅音は顔を見合わせた。


「嫌よ」と環奈。


「嫌」と紅音。


即答。ハモった。二人は思わず顔を見合わせて笑った。


「お前ら……」


悠真は深い溜息をついた。≪虚数演算≫で自分の存在感を薄くする確率操作をかけようとして、やめた。二人の隣にいる以上、いくら確率を操作しても無意味だ。太陽の隣で灯りを消しても、太陽が照らしてしまう。しかも二つ。


「ねえ悠真、ちょっとこっち向いて。ほっぺにご飯粒ついてる」


紅音が悠真の頬に手を伸ばした。


「自分で取れる」


「いいから動かないの!」


紅音が悠真の頬を指先でつまむ。その光景を、環奈が半眼で見ている。


「……紅音、距離が近いわよ」


「え? ご飯粒取ってるだけだけど?」


「ご飯粒を取るのに顔を十五センチまで近づける必要はないわ」


「細かいなぁ、環奈は!」


悠真は二人の間で、おにぎりの海苔を噛みちぎりながら、遠い目をした。


校舎の窓際では、男子たちが別の意味で死にかけていた。


「あいつ……美少女二人に世話焼かれてる……」


「なんだよあの……なんだよ……」


「田中ー! 榊原って一体何者なんだよ!」


「知るかよ! ただのクラスメイトだよ! テスト平均点の普通の奴だよ!」


田中の絶叫が虚しく校舎に響いた。


悠真は心の中で田中に詫びた。すまない田中。俺はお前が思っているような普通の奴じゃない。でもその説明をするわけにはいかない。


昼休みが終わるまでの残り二十分。悠真は美少女二人に挟まれながら、凡人としての存在感を消す努力を続けた。


結果は、惨敗だった。


放課後、田中に「お前って実はすごい奴なんじゃねえの?」と問い詰められ、悠真は平凡テンプレートの全パターンを総動員して否定する羽目になった。


木曜日。五限目の休み時間。


紅音が環奈の席にやってきて、スマートフォンの画面を見せた。


「環奈、見て見て。このレシピ、簡単そうじゃない?」


「ああ、オムライス。いいわね。基本の卵料理ができるようになったら挑戦してみましょう」


「えへへ、楽しみ! ……あ、できたら悠真にも食べさせたいな」


「…………」


環奈のペンが、一瞬止まった。


「……紅音」


「ん?」


「それ、私も作るわ」


「え、環奈も? じゃあ、悠真に食べ比べしてもらう?」


「……いいわね。そうしましょう」


二人の間に、微妙な火花が散った。友情と別の何かの境界線で、二つの瞳が静かに燃えている。


当の悠真は窓際の席で居眠りをしていた。確率場のモニタリングは寝ていても稼働しているが、女子二人の間に流れる微妙な空気を検知する機能は搭載されていなかった。


金曜日。放課後。


帰り支度をしていた悠真の両脇に、環奈と紅音が並んだ。


「帰りにクレープ食べに行かない?」と紅音。


「駅前に新しいカフェができたの。スコーンが美味しいらしいわ」と環奈。


「いや、俺は……」


「「行くわよ(行くよ)」」


ハモった。二度目。


悠真は空を仰いだ。


虚数演算イマジナリー・カリキュレーション。世界の確率を書き換える、最強の異能。天叡結社の十三席を敵に回しても生き延びる力。


しかしこの力をもってしても、美少女二人の誘いを断る確率を上げることは——なぜか、できなかった。


いや、「できない」のではなく「やらない」のだ。


なぜか。


悠真は自分でもわからなかった。


三人は校門を出た。夕陽が三つの影を長く伸ばしている。悠真を真ん中に、環奈が左に、紅音が右に。


校門の前で、帰宅途中の男子生徒たちが振り返り、目を剥いた。


「おい……榊原が氷室さんと遠山さんと一緒に帰ってる……」


「しかも両手に花……」


「この世界にはもう希望がない」


「いや待て、あいつの何がいいんだ。顔は普通、成績は普通、運動も普通……」


「……もしかして、普通じゃないのか?」


その推論は正しかった。しかしそれを証明する手段を、彼らは持っていなかった。


悠真は前を向いて歩きながら、小さく溜息をついた。


平凡な少年の仮面が、日に日に剥がれていく。テストの偽装も、体育の手抜きも、存在感の抹消も、全てが無駄になりつつある。


原因は明白だ。隣を歩く二人の少女。異能者の世界を知る才媛と、異能者そのものである戦闘少女。この二人が傍にいる限り、悠真は「平凡」でいられない。


だが——


不思議と、嫌ではなかった。


夕陽が温かい。風が心地いい。隣で環奈と紅音がクレープの味について議論している声が、耳に心地いい。


退屈じゃない。


この日常は、確かに——退屈じゃない。


「……まあ、いいか」


悠真は呟いた。


誰にも聞こえない声で。


三つの影が、夕陽の中を歩いていく。


平凡な少年と、二人の非凡な少女。


嵐の前の、束の間の穏やかさ。


それが永遠に続かないことを、悠真だけが知っていた。


第八章『天才の休日――束の間の日常』 に続く

――天叡結社≪エデン・オルド≫は動き始めている。


ギャラクシー・チップは回収された。盟主は夜空を見上げて呟いた。


「すべてが順調に回っている」と。


だが、順調に回っているのは何なのか。


結社が本当に目指しているものは何なのか。


その答えを知る者は、まだ――盟主ただ一人。

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