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第七章『嵐の前――天叡結社、動く』(前編)

天叡結社≪エデン・オルド≫。地下四十七階。ラウンジ。


十三席の序列保持者に開放されたラウンジは、その名に反して簡素な空間だった。革張りのソファがいくつか、低いテーブルが数台、壁際にコーヒーメーカーと小さな本棚。世界を裏から操る超常犯罪結社の施設にしては、拍子抜けするほど地味だ。


そのソファの一つに、簑島秀一は沈み込んでいた。


文字通り、沈み込んでいた。背もたれに身体を預け、天井を仰ぎ、がっくりと肩を落としている。手元のコーヒーはとっくに冷めていた。


ギャラクシー・チップの回収。結社から与えられた任務。SDカード型の黒い物体を、桜ヶ丘高校の裏山から見つけ出し、誰にも気取られずに持ち帰る。それだけの仕事だった。


それだけの仕事のはずだった。


現実はどうか。


チップは見つかっていない。捜索は中断を余儀なくされた。一般の女子高生に目撃され、口封じのために崖から突き落とそうとしたら、よりにもよって元No.13と現No.7が駆けつけてきて、≪虚数演算≫で喉を潰されて≪万象の簒奪≫で鳩尾を殴り飛ばされて、命からがら撤退した。


「……最悪だ」


簑島は呻いた。


チップ回収の期限まで、あと四日。たった四日。しかし裏山には元No.13≪イマジナリー・オブザーバー≫榊原悠真とNo.7≪オムニ・テイカー≫遠山紅音がいる。あの二人が警戒を強めている状況で、再び裏山に潜入して捜索を続けるのは、自殺行為に等しい。


言語世界≪ワード・オブ・ワールド≫は強力な異能だが、相手に声が届く距離まで近づかなければ使えない。そして悠真の≪虚数演算≫は、近づく前に声帯を潰してくる。天敵だ。相性が悪すぎる。


「詰んでる……完全に詰んでる……」


簑島はコーヒーカップを口に運び、冷たさに顔をしかめて、そのままテーブルに戻した。


任務失敗。結社はその結果に寛容ではない。十三席の席次を失う可能性もある。最悪の場合、結社そのものから「処分」される可能性だって——


「暗い顔してるな」


声が降ってきた。


簑島が顔を上げると、ラウンジの奥のソファに、一人の男が座っていた。


上半身にはTシャツ一枚。その上から隆起する筋肉の稜線。サングラス。そして手には——ハードカバーの本。


序列第二位《No.2》――正体不明≪アンノウン≫雨貝ハルキ。


いつからそこにいたのか、簑島は気づかなかった。雨貝はソファに深く腰掛け、足を組んで本を読んでいた。今日の一冊はレイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』だった。


「……雨貝か。いたのか」


「ずっといたぞ。お前が入ってきた時から」


「全然気づかなかった……」


「まあ、俺は存在感ないからな」


No.2が自分で言うか、と簑島は内心で突っ込んだ。だが口には出さなかった。


簑島と雨貝。十三席における序列は12位と2位。大きく離れている。任務で一緒になったこともない。接点は皆無に等しい——はずだった。


しかし、この二人には意外な共通点があった。


読書家である、ということ。


結社のラウンジの本棚は、主に簑島と雨貝の二人によって維持されていた。他の序列保持者は本など読まない。久能はデジタルデータしか読まないし、紅音は異能で必要な知識を瞬時に複製できるから本を読む必要がない。


だが簑島と雨貝は、紙の本を愛した。


きっかけは些細なことだった。ある日、簑島がラウンジでカミュの『異邦人』を読んでいたら、雨貝が隣のソファに座って「それ、いいよな」と言った。そこから本の話になり、互いの蔵書リストを交換し、おすすめを貸し借りするようになった。


結社の中では珍しい、利害関係のない、純粋な趣味の繋がり。


「で、何があった」


雨貝がチャンドラーから顔を上げた。サングラスの奥の目は見えないが、声のトーンは穏やかだった。


簑島は迷った。任務の詳細を他の序列保持者に話すのは、原則として禁じられている。だが、チップの正体すら知らされていない簑島にとって、話せる範囲はそもそも限られている。そして何より——簑島は今、誰かに愚痴を聞いてほしかった。


「……回収任務で、ヘマをした」


簑島はぽつりぽつりと話し始めた。ギャラクシー・チップという正体不明の物体の回収を命じられたこと。場所が桜ヶ丘高校の裏山であること。そして——捜索中に一般人に目撃され、口封じをしようとしたら、元No.13と現No.7に阻止されたこと。


「元No.13。榊原悠真か」


雨貝が呟いた。


「ああ。≪虚数演算≫で喉を潰された。声が出なきゃ俺の異能は使い物にならない。そしてNo.7の≪万象の簒奪≫で殴り飛ばされた。ヘビー級チャンピオンの右ストレートだとよ。鳩尾、まだ痛い」


「災難だな」


雨貝は同情するでもなく、嘲笑するでもなく、ただ事実として受け止めた。


「期限はあと四日ある。だが、あの二人が張ってる以上、俺一人での回収は無理だ。かといって、他の序列保持者に応援を頼めば、俺の評価は地に落ちる。十三席が一般人の目撃ごときで任務を中断したなんて知れたら……」


簑島は頭を抱えた。


沈黙が流れた。


雨貝はチャンドラーの栞を挟み、本を閉じた。


「それなら、俺が回収してきてもいいぞ」


簑島は顔を上げた。


「……は?」


あまりにもあっさりした申し出だった。まるで「コンビニで牛乳買ってきてやろうか」とでも言うような軽さ。


「いや、だが……元No.13と現No.7がいるんだぞ? あの二人に気取られずに裏山に入って、チップを見つけて、回収して帰ってくるなんて……」


「できるよ」


雨貝はソファから立ち上がった。九十三キロの肉体が、ゆっくりと伸びをする。関節がぽきぽきと鳴った。


簑島は雨貝を見上げた。


正体不明≪アンノウン≫。異能の詳細は不明。模擬戦は全て拒否。コネで入ったとか、実は弱いとか、噂は山ほどある。


だが、簑島は知っていた。


この男の目が——サングラスの奥の、誰にも見えないその目が——嘘をつかないことを。


本の趣味が合う人間は、だいたい信用できる。簑島の二十年来の持論だった。非科学的で、根拠もない。だが、カミュとチャンドラーを愛する男が、できもしないことを「できる」と言うとは思えなかった。


「……いいのか?」


「人の任務を手伝ったら、借りを作れるだろ。悪い取引じゃない」


雨貝はサングラスの位置を直しながら、にやりと笑った。


「あとでチキンステーキ奢れよ」


「チキンステーキ……?」


「地上に出た時に食う飯屋があるんだ。チキンステーキが絶品でな。ただ、一人で行くと寂しいから、誰か連れて行きたかったんだよ」


簑島は数秒、呆然とした。


天叡結社≪エデン・オルド≫、序列第二位。十三席の中でも頂点に近い実力者。その男が、任務の報酬として要求したのが、チキンステーキの食事代。


「……わかった。チキンステーキでいいなら、いくらでも奢る」


「よし、決まりだ」


雨貝は手をぽん、と叩いて、ラウンジを出て行った。Tシャツにサングラスのマッチョマンが、鼻歌を歌いながら廊下を歩いていく。歌っているのはビートルズの『Let It Be』だった。


簑島はソファに一人残されて、しばらく動けなかった。


「……あの人、何者なんだ、本当に」


呟きは、誰にも届かなかった。


* * *

翌日。


簑島が朝、ラウンジに行くと、テーブルの上に小さな黒い物体が置かれていた。


SDカード型。外装黒色。


ギャラクシー・チップ。


その横に、雨貝の字でメモが添えられていた。丸っこい、意外に可愛らしい筆跡。


『回収完了。岩場の裂け目の奥にあった。チキンステーキ忘れるなよ。――雨貝』


簑島は椅子に崩れ落ちた。


「あっさり……」


数日間、雑木林を這いずり回って見つけられなかったチップを、雨貝は一晩で回収していた。しかも——


完全な無音。完全な不可視。痕跡ゼロ。


榊原悠真の確率場モニタリングを潜り抜けて、裏山に入り、チップを見つけ、回収して、帰ってきた。世界の確率を操作できる男の監視網に、一切引っかからずに。


「……底知れない男だ」


簑島は黒いSDカードを手に取り、しみじみと呟いた。


正体不明≪アンノウン≫


その二つ名の意味を、簑島は初めて実感した。


「正体不明」とは、弱さを隠すための煙幕ではなかった。文字通り——何ができるのかわからないという、最も恐ろしい種類の強さを示す名前だったのだ。


簑島はチップをポケットにしまい、事務方への報告書を書き始めた。


報告書には「自力で回収した」と記載した。雨貝の関与は書かなかった。借りは借り。チキンステーキで返す。それでいい。


ペンを走らせながら、簑島は少しだけ笑った。


結社に入ってから、こんな気分になったのは初めてだった。誰かに助けてもらって、その代償がチキンステーキ。ばかばかしくて、くだらなくて、でもどこか——温かい。


本の趣味が合う人間は、だいたい信用できる。


簑島は改めて、その持論の正しさを確信した。


* * *

同日。深夜。東京某所。高層ビル屋上。


風が強かった。


地上四十二階。都心のビル群を見下ろす高さ。眼下にはオレンジ色の街灯と車のヘッドライトが脈動する夜景が広がり、頭上には澄み切った夜空が無限に開けていた。


一人の男が、屋上の縁に立っていた。


長い黒衣が風にたなびいている。顔は闇に溶けて見えない。だが、その存在が放つ圧は、夜の空気そのものを重くしていた。


天叡結社≪エデン・オルド≫盟主――原初の設計者≪アーキテクト・ゼロ≫。


星が遠くに輝いている。


冬の大三角。オリオン座。その向こうに、肉眼では見えない暗闇が広がっている。


盟主の目は、星を見ているようで、星よりも遥かに遠いものを見ていた。


「……あと、どのくらいだ」


独り言。風に攫われるほど小さな声。


答える者はいない。


だが盟主には、見えていた。この夜空の向こうから、何かが近づいてきていることが。この星に向かって、ゆっくりと、しかし確実に。


「運命の時は、近い」


盟主はフェンスから手を離し、夜空に背を向けた。


「No.13がああも早く結社を離脱することだけは想定外だったが――」


コートの裾が風に翻る。


「今のところは、すべてが順調に回っている」


盟主は屋上の扉に向かって歩き出した。


「順調に、な……」


最後の呟きには、独白にしては不似合いな、かすかな苦みが混じっていた。


扉が閉まった。


屋上には風だけが残った。


夜空の星々は何も答えず、ただ無数の光点が、冷たく瞬き続けていた。

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