第一章 平均点の嘘
この作品は『作者の思いつく限りの中二設定を、全部詰め込んだらどんな物語が完成するのか?』という、中二病要素全部盛りの実験小説です。中二要素が好きな方も、ネタとして楽しむ方も、どちらも楽しめるかと思いますので、是非ご笑覧くださいませ。
四月の教室は、まだ春の湿った空気を孕んでいた。
窓際の席で頬杖をつく少年――榊原悠真は、何の感慨もなさそうな目で黒板を眺めていた。
いや、正確には眺めてすらいなかった。
視線こそ前方に向いているが、その瞳の奥では別の演算が走っている。今朝、暗号通信で届いた一七六桁の素因数分解。脳の片隅で因数の候補を潰しながら、彼は数学教師の退屈な二次関数の説明を聞き流していた。
「――じゃ、中間テスト返すぞー」
数学教師の野太い声が教室に響く。答案用紙の束が前列から回されてくる。悠真は自分の答案を受け取り、一瞥した。
六十七点。
学年平均は六十七・三点。誤差〇・三。今回も許容範囲内。
「さっかきばらー、またビミョーな点だなぁ!」
隣の席の男子――田中が、遠慮なく覗き込んできた。
「うるさいな……俺だって一応勉強してんだよ」
悠真はわざとらしく答案を裏返し、苦笑してみせた。この苦笑も、もう何十回と練り上げた「平凡な少年の表情テンプレートC」だ。困ったように眉を下げ、口角をほんの少しだけ上げる。自嘲と照れの最適配合比率。
テスト問題の正解は、配布された瞬間に全て分かっていた。
だから悠真がやるべきことは「解く」ことではなく「間違える」ことだった。どの問題を落とすか。どの計算過程で、どんなミスを"犯す"か。不自然にならないよう、ケアレスミスの統計分布に沿って誤答を配置する。解答用紙にペンを走らせる五十分間は、満点を取るよりもはるかに高度な知的作業だった。
――完璧な凡人を演じることは、完璧な天才であることよりも遥かに難しい。
悠真はそのことを、誰よりもよく知っていた。
午後の体育。種目は一五〇〇メートル走。
校庭のトラックに並んだ男子生徒たちが、号砲とともに走り出す。
悠真は集団の中程に位置取った。呼吸を意図的に乱し、苦しそうな顔を作る。実際には心拍数は安静時と大差ない。筋肉の出力を二割八分に抑制し、腕の振りをわずかに非効率なフォームに崩す。ストライドを三センチ短く。ピッチを毎分六回落とす。
その全てを、走りながら同時に制御する。
六分十二秒。学年男子の平均タイムにほぼ一致する、見事な凡庸。
ゴールした悠真は膝に手をつき、肩で息をしてみせた。
「悠真おっせーな!」
「うるせぇ……元から走るの苦手なんだって」
笑い合うクラスメイトたちの輪の中で、悠真は安堵する。今日も、透明な存在でいられた。
誰の目にも留まらない、どこにでもいる高校二年生。それが榊原悠真という少年に割り振られた――いや、自ら選び取った役割だった。
だが。
世界には必ず、計算を狂わせる変数が存在する。
放課後、悠真が鞄を手に教室を出ようとした時だった。
「榊原くん」
澄んだ声が背中を刺した。
振り返ると、夕陽に染まった廊下に一人の少女が立っていた。
氷室環奈。
学年一位。全国模試偏差値七十八。容姿端麗にして文武両道。男子の九割が一度は見惚れ、女子の半数が密かに憧れるクラスの絶対的アイドル。長い黒髪が西日に透けて、琥珀色の光を帯びている。
「……なに、氷室さん」
悠真は平凡テンプレートを維持したまま、首を傾げた。
環奈は一歩近づいた。その切れ長の瞳が、悠真の目を正面から捉える。
「ひとつ、聞きたいことがあるの」
「なんだよ、改まって」
「あなたの中間テストの平均点、五教科全て学年平均との誤差が〇・五以内。一学期の期末も、去年の中間も期末も、全部そう」
悠真の心臓が、ほんの一瞬だけ鼓動を速めた。
だが表情は動かさない。
「……たまたまだろ」
「たまたま?」
環奈は小さく笑った。しかしその笑みに温度はなかった。外科医のメスのように精密で、冷たい。
「五教科、四回の定期考査。計二十の得点が全て学年平均の誤差〇・五以内に収まる確率を計算してみたの」
彼女は鞄から一枚のルーズリーフを取り出した。そこにはびっしりと数式が書き込まれている。
「各教科の得点分布を正規分布と仮定して、平均からの偏差が〇・五点以内に収まる確率を求めて、それが二十回連続で起こる複合確率を出した」
環奈はルーズリーフを悠真に突きつけた。
「三億二千万分の一」
沈黙が廊下を支配した。
西日が二人の影を長く伸ばしている。
「宝くじの一等に当選するより低い確率よ。これを『たまたま』と言うなら、あなたは確率論そのものを否定していることになる」
悠真は黙っていた。
環奈の目が細くなる。
「体育の記録も調べた。一五〇〇メートル、一〇〇メートル、反復横跳び、握力……全種目、毎回ほぼ学年平均値。ここまで徹底的に『普通』な人間は――普通じゃない」
風が廊下を吹き抜けた。
悠真は数秒の間、黙って環奈を見つめていた。
それから――
ふっ、と。
今まで一度も教室で見せたことのない、別人の笑みを浮かべた。
「…………やるじゃん」
声のトーンが変わっていた。普段の気の抜けた少年の声ではない。低く、静かで、どこか愉しげな――猛禽類が獲物を認めた時の響き。
環奈の瞳がかすかに揺れた。
「正直、見破られるとは思ってなかった。この学校どころか、この国で俺の偽装を見抜いた人間は――」
悠真は指を一本立てた。
「君が初めてだ、氷室環奈」
* * *
同刻。東京・某所。地下四十七階。
常人には知覚できない周波数で通信が飛び交う、光なき空間。
円卓を囲む十二の椅子のうち、ひとつが空席になっていた。
「――報告する」
闇の中に、低い声が響いた。
「序列第十三位《No.13》――虚数領域の観測者≪イマジナリー・オブザーバー≫榊原悠真が、昨夜未明をもって組織を離脱した」
ざわ、と空気が揺れた。
「離脱だと? あの小僧が**天叡結社≪エデン・オルド≫**を裏切ったというのか」
声を上げたのは、上座に近い椅子に座る長身の男だった。銀灰色の髪が暗闇の中でかすかに光る。
序列第三位《No.3》――電脳支配者≪ハッカー・オブ・ハッカーズ≫久能昌。
世界十二カ国の軍事衛星の制御権を"趣味で"掌握し、各国の国防長官を眠れない夜に追い込み続けている男。通称アキラ。齢二十五にして、人類のデジタルインフラの四割を事実上の支配下に置く、電子の暴君。
「裏切りではない」
報告者の声は冷静だった。
「奴は自ら辞表を提出した。正規の手続きで、な」
「辞表? わたしたちは会社ごっこをしているんじゃないわよ!?」
円卓の反対側から、甲高い声が割り込んだ。
序列第七位《No.7》――万象の簒奪者≪オムニ・テイカー≫遠山紅音。あらゆる才能を「視る」だけで複製できる異能を持つ少女。齢十六。
「理由は聞いたのか」
低く問うたのは、円卓の最上座――**序列第一位《No.1》**の声。
だが、その姿は闇に溶けて見えない。声だけが、まるで空間そのものが震えるように響く。
天叡結社≪エデン・オルド≫盟主――原初の設計者≪アーキテクト・ゼロ≫。本名、不詳。
報告者は一拍置いて、答えた。
「……奴の辞表には、一行だけ記されていた」
沈黙。
「『弱い方についたほうが面白そうなので辞めます』――以上だ」
円卓が凍りついた。
数秒の間を経て、最初に動いたのは久能だった。
「……あのクソガキ」
久能の指がアームレストを叩く。その一打で、地下施設の照明が一瞬だけ明滅した。電子機器が彼の感情に共鳴したのだ。
「史上最年少で結社に招かれ、入隊初日に序列保持者三名を模擬戦で沈め、わずか一年で十三席を与えられた怪物が――"面白そうだから"?」
「追うか」
遠山紅音の赤い瞳が暗闇の中で光った。
「追えるものなら追ってみろ」
久能が吐き捨てた。
「俺の全衛星ネットワークを使っても、あいつが本気で隠れたら捕捉率は〇・〇二パーセント以下だ。No.13の固有能力≪虚数演算≫――現実の確率そのものを演算で歪める、ふざけた能力をなめるな」
盟主の声が、再び空間を揺らした。
「放っておけ」
「盟主……!」
「面白いと言うなら、面白がらせてやればいい。どのみち――この世界の行き着く先は、我々が既に設計済みだ」
闇の中で、見えない口元が笑みの形を作った気配がした。
「弱者の側に立ったところで、結末は変わらない。あの子供もいずれ理解する。世界とは、強者が描いた図面の上に建つ建築物に過ぎないということを」
* * *
一方。
ワシントンD.C. ペンタゴン(米国防総省)。
最深部の会議室で、合衆国統合参謀本部議長マーカス・ウォレンは、一枚の極秘ファイルを見つめて深い溜息をついていた。
ファイルの表紙には赤いスタンプが押されている。
【COSMIC TOP SECRET ― EYES ONLY】
【OPERATION: GRAY GHOST】
「大将。日本側の内閣情報調査室から続報が入りました」
副官の声に、ウォレンは顔を上げた。
「……例の少年か」
「はい。コードネーム"グレイ・ゴースト"――榊原悠真。天叡結社≪エデン・オルド≫を離脱した模様です」
ウォレンの眉が跳ねた。
「離脱? あの組織を? ……生きているのか」
「それどころか、一般の高校に通い始めたとのことです」
ウォレンは信じられないという顔で副官を見た。
「高校?」
「はい、大将」
「……世界の軍事バランスを左右しうる人間が、日本の公立高校で二次関数を習っていると?」
「左様であります」
ウォレンは両手で顔を覆った。
「我々は去年、あの少年一人のために空母打撃群の配置を変更した。NSA(国家安全保障局)の予算の七パーセントが"グレイ・ゴースト"の動向監視に充てられている。大統領への日次ブリーフィングの最重要項目のひとつだ」
彼はファイルを開いた。そこに貼られた写真は、教室で居眠りしている平凡そうな少年の盗撮写真だった。
「この少年の存在はアンタッチャブルだ。NATO加盟国の首脳でさえ、知っているのは米英仏の三カ国のみ。日本の総理と官房長官は知っているが、防衛大臣にすら知らされていない」
ウォレンはペンを握り潰すような力で写真を見つめた。
「もし彼が敵に回れば、合衆国の全戦力を結集しても対処できない。だが味方につけることもできない。なぜなら彼は――どちらの側にもつかない。面白いかどうかでしか動かない」
副官は黙っていた。
「我々にできることはひとつだ」と、ウォレンは呻くように言った。
「祈ることだ。あの少年が退屈しないことを」
* * *
翌朝。
榊原悠真は、いつも通りの時間に起き、いつも通りの速度で自転車を漕ぎ、いつも通りの表情で教室に入った。
「おはよー悠真」
「おう、おはよ」
平凡な挨拶。平凡な笑顔。平凡な朝。
自席について鞄を開けると、机の中に一枚のメモが挟まれていた。
几帳面な筆跡。
『放課後、屋上で待っています。――氷室環奈』
悠真はメモを見て、小さく唇の端を上げた。
昨日のやり取り以来、彼女はまだ諦めていないらしい。あの計算力、あの観察力、あの胆力。確率論で凡人の仮面を剥がしにきた少女。
――面白い。
この言葉が、榊原悠真という人間を動かす唯一の燃料だった。
世界最大の悪の組織を辞めた理由も。
天才であることを隠す理由も。
全てが、この三文字に帰結する。
悠真は窓の外を見た。
雲ひとつない、退屈な青空。
だが今日は――ほんの少しだけ、退屈じゃないかもしれない。
第二章『屋上にて――天才と秀才の邂逅』 に続く
――これは、世界を設計した者たちと、その設計図を書き換えようとした少年の物語である。
あるいは単に、退屈を殺すために世界を敵に回した、どうしようもない男の子の話だ。




