第3話 無防備な素顔
その日の夕方。放課後の図書室で、俺は幼馴染の桜井陽菜に捕まった。
「悠真! ちょっと! 聞いてないよ!」
陽菜は、ショートカットの髪を揺らしながら、勢いよく俺のいるテーブルに駆け寄ってきた。白いカーディガンとチェックのスカートがよく似合っていて、その姿はまるで春風のようだ。彼女のトレードマークは、いつもぴょこんと結ばれたアホ毛で、怒っている時はそれが少し小刻みに揺れる。今まさに、そのアホ毛が激しく揺れていた。
「なんだよ、陽菜。そんな怒って」
「なにって、お母さんから聞いたんだよ! 悠真の家に、氷室さんが泊まってるって!」
陽菜は俺の顔に指を突きつけ、唇を尖らせた。その仕草は、昔から駄々をこねる時の彼女の癖だ。
「ま、待て! 事情があるんだ! 弱みを握られたとかじゃなくて……」
「弱みを握られた!? 逆に氷室さんが悠真に何かされたんじゃないの!? あんな美人なんだから、怪しい人に狙われてるに決まってる!」
陽菜は俺の腕をプニプニと掴んで(これは彼女が不安な時にする、子供っぽい仕草だ)、真剣な眼差しを向けてきた。
「悠真は、家事が得意なのはいいけど、お人好しすぎるんだよ! あの氷室さんのこと、どうせほっとけなくて世話焼いてるんでしょ? でも、あんな完璧な人が、悠真に何を見せてるか分からないじゃない! 私だって、悠真の役に立ってるんだからね!」
陽菜は、まるで自分の領域を侵された子犬のように、小さな身体を揺らして訴える。彼女の言う「役に立ってる」とは、俺の家でたまに夕飯を作ったり、家事の手伝いをしてくれることだ。俺にとって、陽菜は安心できる大切な家族のような存在だった。
陽菜の言葉に、俺は一瞬、言葉を失った。陽菜が言っていることは正論だ。しかし、俺の脳裏には、ソファで丸まって寝ていた、無垢な天使のような氷室の寝顔が浮かんでいた。
その時だった。
「星野。貴様、無駄な会話に時間を費やしている暇があるのか」
冷徹な声が、図書室の隅から響いた。氷室怜奈だ。
「……不要な介入だ。私は、星野に正当な報酬を提示している」
「報酬って、何よ!」
陽菜は、氷室から一歩も引かず、対抗した。その小さな体からは、予想外の強い意志が感じられた。
氷室は陽菜を無視するように、俺の腕を掴んだ。
「行くぞ、星野。今日の夕食は、貴様が作ったハンバーグと、昨日の味噌汁のお代わりが必要だ。一秒でも早く、帰宅しろ」
陽菜は、氷室が俺の腕を掴んだことに、明らかにショックを受けていた。彼女のアホ毛がピタリと止まり、その瞳には、初めて見る露骨な嫉妬の色が浮かんでいた。
「……ずるいよ、氷室さん……」
陽菜は、誰も聞こえないほどの小さな声で、そう呟いた。
俺は陽菜に謝罪し、氷室に引きずられるように図書室を出た。
歩きながら、俺はチラリと氷室の横顔を見た。彼女の表情は硬い。そして、その耳の先が、わずかに赤く染まっていた。




