第2話 女王様とダメ人間のギャップ
「私の秘密を守る代わりに、この一ヶ月間、私をここに住まわせろ。そして、衣食住、全てを完璧に管理しろ。さもなければ……この写真を学校に流出させる」
氷室怜奈の言葉は、完璧な美貌に反して、まるで悪魔の誘いだった。だが、俺は断れない。写真の流出もまずいが、何より、目の前で力なく座り込んでいる彼女を、あの荒廃した家に帰すことなんて、お人好しの俺にはできなかった。
「……分かった。期間限定だぞ。一ヶ月間だけだ」
俺がそう言うと、氷室はフッと満足げに息を吐いた。
「感謝する。星野。貴様の奉仕の精神は、凡人にしては評価に値する」
「奉仕じゃなくて、家賃は生活態度で支払ってもらうからな」
「善処しよう」
善処、と言ったくせに、彼女は俺の制服のポケットから鍵を見つけ出し、勝手にダイニングテーブルに放り投げた。
「さて、星野。まず、私専用の部屋を用意しろ。そして、風呂。最後に……夕食だ。当然、豪華なものを期待する」
まるで自分が主人であるかのような命令口調。学校での威圧感そのままに、俺の家で女王様として振る舞い始めた。
「まず部屋な。客間でいいか? あそこ、物置になってるけど」
「構わない。ただし、一秒でも早く、寝られる状態にしろ」
俺は慌てて二階の客間に向かう。部屋は確かに埃まみれの物置状態だった。俺が埃を払い、掃除機をかけ、布団を敷き終えるのに三十分。その間、氷室はソファで微動だにしなかったらしい。
「できたぞ、氷室。風呂も沸かした。先に入れ」
「……分かった」
彼女はゆっくりと立ち上がり、バスルームへ向かった。そして十分後、俺の部屋から出てきた氷室を見て、俺は思わず息を飲んだ。
黒髪のロングヘアは無造作に束ねられ、着ているのは、なぜか俺のTシャツとスウェットだ。学校の制服姿では決して見せない、無防備で、幼い雰囲気。いつもの冷たいオーラは消え失せ、まるで、警戒心の強い小動物が初めて安心した巣に入ったような、穏やかな表情をしていた。
「……何を見ている、星野。早く夕食の準備をしろ。腹が減った」
「あ、ああ、悪ぃ。お前、自分のパジャマは?」
「持ってこなかった。面倒だった」
面倒、で片付けてしまうあたりが、氷室怜奈という美少女の真髄だった。
「仕方ないな。今日はこれで我慢しろ」
俺は冷蔵庫を開け、手早く夕食の準備に取り掛かった。メニューは、栄養バランスを考えた生姜焼き定食だ。白米、豚肉、野菜、そして味噌汁。
五分後、ダイニングテーブルに料理を並べ終えると、氷室は音もなく席に着いた。彼女の目は、いつになく真剣だ。いや、真剣というより、獲物を狙う肉食獣の目に近い。
「いただきます」
俺が言うと、氷室は無言で箸を持ち、まず生姜焼きを一口食べた。咀嚼する動きすら優雅に見えるが、そのスピードは尋常ではない。
「どうだ? 食えるか?」
「……悪くない」
彼女の返答はいつもそっけないが、その後の行動が全てを物語っていた。俺が二口目を食べる間に、彼女は生姜焼きを半分、白米を三分の一平らげた。その勢いは、まるで何日も絶食していたかのようだ。
「……お前、本当に家でこんなものまで作らないのか?」
「作れるわけがないだろう。作り方を考えるのも、食材を切るのも、火にかけるのも……全てが多大な労力だ」
「多大な労力って……」
ため息をつく俺を無視して、彼女は味噌汁を飲み干した。
「この汁……味噌と出汁のバランスが絶妙だ。凡人にしては、良い仕事を……している」
「悪くない、じゃなくて、初めて褒めたな」
「錯覚だ。早く残りの肉を寄越せ
彼女の、学校では絶対に見せない食いしん坊な本性。それはあまりにも人間的で、同時に、俺の心臓を強く打った。
(なんだ、このギャップは……。学校の氷室怜奈は、本当に同じ人間なのか?)
食後の片付けも、もちろん俺の仕事だ。氷室は食事を終えると、すぐにソファに寝転がり、腹をさすりながらスマホをいじり始めた。その無防備な姿に、俺は少しずつ、抗いがたい感情を抱き始めていた。
翌朝、俺は目覚ましよりも早く起きてしまった。リビングに降りると、ソファの上に何かがうずくまっている。
「……氷室?」
それは、昨晩俺が貸したスウェット姿の怜奈だった。彼女はブランケットにくるまり、まるで猫のように丸まっている。寝顔は、学校での冷たい表情とはかけ離れた、穏やかで無垢なものだった。長い睫毛が影を落とし、まるで天使のようだ。
(やばい、可愛すぎる……)
俺は心の中で全力で叫び、慌てて目をそらした。彼女の寝顔をじっと見つめているなんて、俺の理性では許されない。
「おはよう、氷室。起きろ。朝飯作るぞ」
「……うぅ……五秒延長」
彼女はブランケットから手だけを出し、まるで何かを掴むかのように空を切った。
「五秒じゃなくて、もう朝の七時だ。学校遅れるぞ」
「……学校は、不要な介入だ。貴様がレポートを書いておけ」
「書くわけないだろ!」
起こしても起きない。俺は仕方なく、彼女の髪に触れないように、顔の近くで指を鳴らした。パチッ、という小さな音。
その瞬間、彼女の瞼がピクリと動き、ゆっくりと瞳が開いた。その瞳は、まだ眠気でぼんやりとしている。
「……星野」
そして、一瞬。本当に一瞬だけ、彼女は俺に向かって、甘えたような、とろけるような微笑みを向けた。それは、まるで氷が溶けた後の、温かい陽だまりのような、奇跡的な表情だった。
「……早く、朝食を」
すぐにいつもの冷たい表情に戻ってしまったが、俺の心臓は完全にノックアウトされていた。
(今の……今の笑顔は、なんだ……!?)
俺はその日から、氷室の学校での態度と、家での無防備な姿のギャップに、日々悶絶することになる。




