帝と平凡な恋 第三十二話 突拍子もないこと
第三十二話
「沙々、妃になってくれ」
橙は突然そんなことを言い出す。
「え?」
(一応確認するために妃にならないかとは言ったことはあるが)橙がなぜ、いきなり本気で妃になってくれと言ったかと言うと、さかのぼること一時間前
「なぁ、香蘭。最近沙々との絡みが少ない気がするわけ」
「はぁ」
ため息とも返事ともいえない声をもらす。
橙がいきなり香蘭に会いたいと言ったかと思えば、会った瞬間、駄弁り始めたのだった。
「ほら、俺って沙々のことを好きなわけじゃん」
大前提を忘れそうになる時もある橙だった。
「なのに、告白しようとしたらなんか、邪魔は入るし、戦争が起こってそれどころじゃなくなる…」
短く切った髪をくるくると指で遊ぶ。
「それになんか、もう陰謀みたいなものまで登場して来るし…」
酔っ払ったような声で喋るので本当に酒を飲んでいるのかと思うが、橙は酒が苦手なので飲んでいないのだろう。
「それで、もういっそのこと制度を変えてしまおうと思って…それだったら妃にしても今までみたいにいられると思って」
突拍子もないことをすらすらと言ってのける橙がすごく感じる。
「例えば、妃という立場自体を無くしてみんな女官という立場に…」
「んな、滅茶苦茶な」
香蘭はため息をついた。
「沙々しか娶る気はないし、他の妃たちは解散ということで…」
「馬鹿なの?」
香蘭はさらに深いため息をつく。
「じゃあ、…あ!」
橙は何か思いついたのか勢いよく立ち上がった。
「香蘭、俺ちょっと良いこと思いついたから帰るわ」
「はぁ、はいはい。突拍子もないこと言って家臣を困らせるなよ」
「分かってるって」
そんなこんなで橙は帰って来たのだった。
そして、現在。
「どういうことですか?」
沙々は首を傾げた。
「沙々を正式に発表しない正式の妃にする」
「はい?」
もう、言っている意味が分からない。
「つまり、隠れ妃というわけだ」
「よく分からないんですが…」
「妃ではあるが、今まで通りに侍女の仕事をしてもらう。そして、妃にもなってもらう」
気分良さそうに話していく。
「それ、後で妃と分かった時に問題になりません?」
「安心しろ。その時は俺が全てもみ消すから」
胸を張って自信満々に言う橙。
「うわぁ、説得力ありますね」
本当に全て橙は自分の思い通りにしてしまいそうだ。
「大丈夫だ。大丈夫」
ひらひらと手を振った。
「それで、妃になって何をするんですか?」
沙々が聞くと橙はシニカルな笑みを浮かべながら近づいて来た。
「何をしたい?」
沙々の唇を親指で触って顔を近づける。
そのまま、優しくキスした。
「普通、答えを聞いてからするものだと思いますよ」
「別に普通なんて良いだろ?俺の立場上、普通の恋愛なんて出来ないんだから」
「それもそうですね」
別に沙々もこういう不意打ちは嫌いじゃない。
「妃になれば文句なしで好きなことができるからな」
ぎゅっと沙々を抱きしめた。
「あぁ、もうずっと沙々といたい」
「橙さまは私で良いのですか?」
聞かないと決めていたが、不安になる。
「逆にどこがダメなんだ?文句言う奴がいたら俺が潰す」
グッと拳を握った。
冗談には聞こえない…。
「俺が好きなのは沙々しかいない」
沙々の頭を撫でた。
「というわけで、明日からは隠れ妃になってもらう」
明日…いきなりだな。
「分かりました」
「手続きはこちらが全て引き受けるから、沙々は今まで通りにしていてくれ…あ、でもやっぱり侍女とか欲しいか?専用の宮とか」
「大丈夫です。私には分不相応でしょうから。それに、そんな生活をしていれば隠れていることになりませんよ」
そんなに堂々と妃です、って宣言しているような生活をしてどうするのだ。
「橙さまって結構、考えが甘いですね」
失礼な言葉だが、小さく笑った沙々が可愛くて、つい頬を緩ませてしまう。
「そうかな?」
「そうですよ。…それでは私はこれで」
仕事中に呼び出していたので、そろそろ戻らないと怪しまれそうだ。
「沙々!」
帰ろうとしたところで後ろから声が追ってきた。
「なんですか?」
「いつか、絶対に堂々と妃だって言うからな」
「楽しみにしておきます」
沙々は笑いながら帰って行った。
「さてと、こちらも裏から手を回しますか」
今まで、自分の地位を無駄にしてきたことしかなく、欲がない皇帝と言われていたが、今回はこの地位を最大限使わせてもらおう。
橙は悪い笑みを浮かべたのであった。
沙々は九嬪の妃に空きがあったので、見る人が見れば胡散臭い空いているようで空いていない席が出来上がるのだ。
そして、数日後…。
珍しく医官に呼び出された。
何事かと思って行くと、まず茶を出された。
その後に茶菓子が出されて、ただ医官が話し出すのを待った。
「…それで、橙さま」
日々、暗いオーラを纏っているまだ若い医官は薬草をすり潰しながら言った。
小柄で肩くらいの髪をまとめた青年は橙を見ることなく続けた。
「そろそろ本格的に子を作っていただけませんかね?」
お茶を飲んでいた橙は一気にお茶を吹き出してしまった。
「ゴホッ、い、いきなり、…エホッ、何、ゴホッ」
むせてしまい、喋れなくなる。
医官は橙の背中をさすった。
「…いきなりではありません。最近、子ができたという報告が極端に少ないものでして。というか、数年前から一人も聞いていないのです」
そういえば、この医官は妊娠、出産の専門の医官だったな。と、今さら思い出した。
「…まだ、橙さまは若いとはいえ、何が起こるか分かりませんので早めに跡継ぎを作ってもらいたいのです」
「わ、分かってるから」
「…橙さま。報告によるとニ週間に一人のペースでしか妃の元に通われていないようですね。しかも、あれだけたくさんの妃がいるというのに」
ずいっと顔を近づけて来る。
橙は少し体を反る。
「…先代の皇帝も亡くなられる5年前ほどから、後継ぎを作っておりません」
「つまり…」
橙は渋い顔をする。
「つまり…致命的な皇族不足ですね」
「うぅ」
橙もそれは分かっていた。
だが、それを人に言われるとなんとも…
「…橙さま。私は医官という立場から言わせてもらっております。後継ぎを作れるのは橙さまくらいしかいません」
相変わらず、薬草を潰しながら話す。
「…ただ、橙さまの気持ちも完全にではありませんが分かります」
「…」
橙はただ黙った。
後宮というこの場所自体が橙には合わなかった。
だが、合わなかったからと言って変えることは出来ない。
そんな世界である。
「なので、いっそのこと制度を変えては?」
「はい?」
橙は耳を疑う。
制度を変えるなんて、無茶苦茶である。
いや、でも自分でも言っていたけど…
「…例えば、妃を減らしてしまうとか。後宮自体を無くしてしまうとか」
なんだろう、この医官。
常識を持っていそうに見えて、相当すごいことを言っている。
しかも、薬草を潰しながら。
無意識に話しているのだろうか?
いや、それともちゃんと考えた上で話しているのだろうか?
「僕は実際、後宮なんてどうでも良いです。けど、妃たちには同情してしまいます」
「なぜ?」
橙が訊ねると医官はやっとこちらを向いた。
「帝の子を産むために集められた彼女たちに自由はないんでしょうか?出産はかなりのリスクを伴います。政治の道具だからと言って自由がないのはどうかと思います」
この医官、静かそうに見えてかなり喋る。
「…なんて、今のは全て忘れてください。ただ、後継ぎを作ってください。子供が産まれないので私の仕事はいつからか薬草潰しになってしまったのです」
あぁ、だからずっとこれ見よがしにすり潰していたのか。
納得した橙は申し訳ない気持ちになる。
「すまない」
「…出来れば、言葉ではなく、行動で示して欲しいです」
皆、揃いに揃って帝の扱いが雑すぎる気がする。
まぁ、接しやすいならそれで良い。
「それじゃあ、一週間に一回は通うことにする」
「せめて、二回でお願いします」
「安心しろ。これからは、別に出来るかもしれないから」
それだけ言って、深く聞かれないうちに帰ることにした。
手続きは済んだ。
楽しみでニヤけてしまう橙だった。
ありがとうございました。