第二十八話 たすけてと呼ぶ声がする
鞘に納めた剣に手をかけながら大和がゆっくりと歩いてくる。
怪物を殺すため、恋華を終わらせるために。
「……忘れないで」
せめて、と恋華は望む。
ここにいたことを覚えていて欲しいと、傷になって欲しいと。それがどれほど醜い心根であるかを知りながら。
そして大和は――、
「忘れません」
ひょいと、鞘ごと剣を無造作に放り棄てた。ガシャン、と床に放られた剣が大きな音を立てた。
「え……?」
差し出した首を一刀のもとに断ち切られるものと考えていた恋華が困惑する。思わず顔を上げ、大和を見た。
「――――」
目が合う、合ってしまう。
大和はその醜さから目を逸らさず、ただ恋華だけを見ていた。
「え……あの。大和様……?」
醜い自分を正面から見据え、凛々しい顔つきで視線をけして放さない大和の顔が迫ってくる。
声が震えた。胸の心臓が痛い程にドキドキと高鳴る。カァと頬が強烈に熱くなるのを自覚した。
想い人の視線を独占している。その事実が恋華の中の”女”を強烈に炙り出す。死に際になっても、いいや死に際だからこそその感情は強烈に恋華を揺さぶった。
頭の中の魔女ががなり立てる呪いの叫びが何故か今は遠かった。
「立ってください、恋華さん」
「あ……」
そっと耳元を撫でる心地よい声に囁かれ、思わずその言葉に従う。差し伸べられた手を取り、立ち上がる。二人の視線が同じ高さになった。互いが互いの瞳に移り込む程の至近距離で二人が対峙する。
大和の手が恋華の頬を優しく撫でる。その甘い感触に恋華の胸に震える程の喜びが走った。
事態は何も解決などしていない。
だというのに――恋華は幸せだった。自身に降りかかる全ての不幸が遠く思えた。
当然だ、だって紅恋華という少女の本質は魔女でも怪物でもない。どこにでもいる一人の女の子――”恋する乙女”なのだから。
『大和君、君はあの子を――殺せるか?』
『……出来ない。そんなこと絶対にしたくありません』
三日前、蛇狐の問いかけに大和は否と答えた。根拠なく、子供のように、梃子でも動かないと我が儘を貫いた。
そんな少年へ、蛇狐は薄く笑った。嘲笑ではなく、知っていたと少し呆れたように。
『妥協案や。恋華ちゃんが”魔女”になりかけたら”人”へ引き戻せ。あの子の中のランダとの同調を断つんや』
時間稼ぎにしかならず、失敗すれば殺すしかない。それでも蛇狐は悩む大和へ道を示した。
『同調を断つ……って。どうやって?』
『ンなことボクが知るかいな。まあ、不幸を司るランダから一番縁遠いことをすればいいんやない?』
ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべる蛇狐は完全に分かっていてのソレだった。蛇狐もまた大和のチャンネルの視聴者だった。……恋華を殺したいはずがなかった。
「……恋華さん」
「はい……」
大和の呼びかけに恋華が放心したように答える。
恋華の不幸が強まる程にランダとの同調は高まる。ならば答えはシンプルだ――幸せにするしかない。
二人の影が、ゆっくりと重なった。
「あ……」
ギュッと、痛いくらいに強く大和に抱きしめられている。想い人の腕の中にいる幸福を、恋華は言葉にならない思いとともに噛み締めた。
受け入れられている。受け入れてくれている。怪物の自分を、意図せず溢れる黒い炎で焦がれながら。その一切を気にせずに、想い人が抱きしめてくれている。
「……たとえ我が儘でも、僕は恋華さんを殺したくありません。あなたに死んで欲しくない」
声が震えていた。本心だからこそ震えていた。恋華にもそれが分かった。
辛く、苦しい時。人は時に惑うこともあるだろう。先が見えない暗闇に絶望することだってあるだろう。
だけど、それでも。
何もかもを丸く収める奇跡のような名案がなくとも、時にそばにいるだけで救われることがある。それは”最強”なんて関係ない、誰だって持っている小さくてささやかな”力”。人の……優しい温もり。
「……グスッ」
その温もりに触れた恋華が溜めに溜めていた胸の内の感情が決壊する。次から次へと胸に溢れ出す悲しみがとめどなく涙を流させた。
「……や、やです。やっぱり嫌! 死にたくない、生きていたい! あなたと一緒にいたい。私だって……大和様と!!」
涙がとめどなく零れ落ちる。子供のように、どこにでもいる当たり前の女の子のように、恋華は泣いていた。
美しく咲く蓮華は、一方で清き水では育たず泥中で育まれる。
汚泥に放り込まれた種子はその芽を伸ばし、花を咲かせる。泥から出でて泥に染まらず、気高く咲き誇る蓮華こそが彼女の生き様に相応しい。
苦渋を噛みしめ、苦難を乗り越え、いつか必ず泥中に咲かんと願う恋の華は……今まさに咲き誇らんとしたこの時、無残にも枯れ落ちようとしていた。
「なんで、なんで私だったんですか……!? なんで私ばっかり……! 私じゃなくても良かった! もっと違う形であなたと出会いたかった……!!」
どうしようもない現実を前に諦めていた少女が、溜めに溜め込んでいた怒りを爆発させる。彼に見せたくないはずの、醜い本音を洗いざらいぶちまけた。
行き場のない怒りを宿した両の手が大和を突き飛ばし、その胸を何度も叩く。怒りに呼応し燃える炎が少年の皮膚を焦がす。小さくない苦痛を伴うそれを、それ以上の苦しみに叫ぶ恋華を思って大和はただ受け止め続けた。
「恋華さん」
「大和様……私、私は……」
一息。落ち着いた瞬間を見計らって大和が声をかけた。
恋華は喘ぐように答え、彼を見上げた。
大和も恋華を見、頷いた。
「生きてください」
「ッ、本当に……ひどい人」
絶望の淵にある少女へ告げる言葉を聞いて恋華は泣いた。
慈悲の刃ではなく、無慈悲な願いを与えられた恋華は縋りつくように黒の制服を握り締め、その胸に泣き顔を押し付ける。溢れ出る涙がシャツを濡らしていく。とても温かい……命の温かさを宿す涙だった。生きたいと、恋華はただ叫んでいた。
「お願い……たすけて」
親からはぐれた一人ぼっちの迷子のような、途方に暮れた声に――大和はゆっくりと首を横に振った。
「……ごめん。僕一人じゃ恋華さんを助けられない」
極めて単純な事実として黒鉄大和は人類最強である。だが紅恋華を救う手段を持たない、ちっぽけな存在だ。最強などその程度だと、大和は痛い程に知っていた。
だがそれは決して大和が諦めたということではない。
「だから」
己が矮小だと、誰よりもそれを知っているからこそ少年は足掻く。そしてその足掻きこそが誰かの心を動かすのだ。
「それができる人たちに伝えましょう、もう一度助けて、と」
「できる、人? こんな……こんな私にそんな優しくしてくれる人なんて!?」
恋華が悲鳴を上げる。
他ならぬ大和の言葉でも薄ら寒い絵空事にしか思えない。こんな醜い自分を、怪物である自分をと。
「います、絶対に。いいや、いないはずがない!」
だが大和は恋華の言葉に強く首を横に振った。
だって、当たり前ではないか。
頑張り屋で、不器用で。諦めかけながらも諦めきれずたった一つの願いを支えに頑張って、頑張って、頑張った少女が! 報われないまま怪物になって終わるなんて……そんなの絶対に間違っている!
「――そうでしょう?」
恋華の諦めを力強く否定した大和がゆっくりと振り返り、問いかける――今もドローン越しに見守り続ける”あなた”に向けて。
転生者限定で流れた緊急配信の通知を……《文明崩壊ダンジョンライバーズ》を”あなた”は見た。他にいくらでも選択肢はあった。世に溢れる無数のコンテンツのどれでもなく、今、ここにいることを選んだ。偶然でも、気まぐれであっても。その事実に、ただ心からの感謝を。
「助けたい人がいるんです。幸せになって欲しいって、そう思うんです」
少年が抱くのはどこまてもありふれた義憤の念だ。
「――僕一人じゃ彼女を助けられないんです!」
”あなた”もまたどこにでもいるささやかな善性の持ち主だ。才能はあるかもしれない、だが世界を救う動機など持たないただの人だ。
だからこそ、そんな”あなた”が恋華を襲う理不尽な運命に何も思わないはずがなかった。
『――――』
沈黙。
画面の向こうで”あなた”はただ沈黙を続けた。だがそれは、決して告げるべき言葉を持たないからではない。
「”あなた”の力が必要です、聞こえたのなら応えて欲しい」
”あなた”の背を押すために大和がドローン越しに視線を合わせ、たどたどしくも精一杯の言葉を紡ぐ。
最強に出来ることなどたかが知れていると、かつて黒鉄大和はそう言った。
その言葉は正しい。暴力が救えるモノなど……実のところさして多くはない。目の前の敵は倒せてもたった一人の少女は救えない。その程度のものでしかない。
「覚悟なんて要らない。些細な気まぐれだって構わない。それでも……それでもこのバッドエンドを蹴飛ばして、ご都合主義のハッピーエンドが欲しいって、ほんの僅かでもそう思ったなら!」
だから続く言葉もきっと正しいのだ――世界を救うのは何時だって愛と勇気と数の力だ。たとえ一人の持つ力がほんの僅かで、些細な思いだったとしても寄り集まればきっと望む未来に届きうる。
「助けてください、”あなた”の力が必要なんです」
黒鉄大和から救援要請が届きました。受諾しますか?
――Yes / No
『――――』
配信を通じて視聴者のもとへ届いた救援要請。この要請に強制力はない。報酬も、ない。拒もうと、無視しようと何一つ責められる謂れはない。
だから己の心に問うべきはたった一つだ――少女を助けたいと思うか、否か。
『――――』
答えを確かめる一拍の沈黙を挟み、”あなた”はゆっくりと片方のボタンを押した。
その瞬間、時計の長針が戻る。破滅を告げる終末時計が僅かに1分、だが確かに定められた終わりから遠ざかった。
未来へ続く道行は霧に阻まれていまだ見えず、だが確かに『可能性』は開かれた。
ここから先は黒鉄大和と紅恋華――そして”あなた”が紡ぐ物語だ。




