3.「……どこに」
裏口に置いていたローファーをつま先ぶんだけ履いて、急いで道場を立ち去った。扉をちゃんと閉めてからもう一度頭を下げる。
玄関で上履きに履き替え、美術室に向かって走った。美術室が特別棟の四階にあることが、この時ばかりは恨めしい。最後の方は膝が笑ってほとんど歩いているような状態だった。
「た、たけちゃん……」
「よお」
「ちょっと……ふぅ、はー……描いてみる……」
昨日と同じく、下書き用の紙を取り出す。全く何も思い浮かばなかった昨日と違って、するすると鉛筆が動いた。
脇腹は痛みを訴えているのに、手が、止まらない。こういう感覚は久しぶりだ。完成した絵がはっきりと頭の中にあって、私はそれを再現するだけ。
私が鉛筆を動かす音も、たけちゃんが筆を動かす音も、うるさい蝉の声すら耳に届かない。
どのくらい時間が経ったのかわからない。鉛筆を置いた時には、窓の外は薄闇に包まれていた。
「……できた」
「おー、いいじゃん」
「ひ、いつからそこに!?」
たけちゃんが前の席の椅子に反対向きに座り、私の下書きをじっと見つめている。
「三十分ぐらい前?」
「声かけてよ」
「かけたし。でも気づかないから」
見てもいい? と声をかけられて、黙って頷く。たけちゃんは私の下書きを持ち、ぴんと腕を伸ばして顎を引いて眺めた。
「でもこれ……Tシャツにジャージ姿でいいわけ? 弓道って袴じゃないっけ」
「あーーーー!!」
「うるっさ、心臓止まった」
「袴見てくるの忘れた……Tシャツで練習してたし……」
「小柴はほんっとうにあわてんぼうでうっかり屋だねえ〜、さすがだわ」
がつんがつんと机に額を打ち付ける。いやでも、袴に着替えるなんて面倒だろうし、言い出せるわけもない。たけちゃんに肩を押されて、渋々起き上がる。
「また明日、だな」
「はあー、気まずい」
「気まずいことしてきたのか」
「そういうんじゃないけど」
そうだ、なんで気まずいと思ったんだっけ。青柳先輩と宮越先輩から逃げてきたから? もう道場に行くことはないだろうと思っていたから?
一目見ただけなのに、青柳先輩を、かっこういいと思ってしまっている自分がいるから?
「わーーーー!!」
「今度は何!」
首から上の全部が熱い。耳の裏まで赤くなっているはずだ。
「なんでそんな顔真っ赤にしてんの〜? あ〜、まさか」
「い、言わないで……」
上目遣いでたけちゃんを窺うと、彼はにやにやと私を見下ろしている。たけちゃんは察しがいいので、私が何をどう考えてここへ帰ってきて、この下絵を完成させたのか、全てお見通しのようだ。
「へえ? で、このモデルも?」
「ええそうですよ……でもたけちゃんも絶対見惚れちゃうからね、絶対」
「確かに、小柴の絵の通りなら、筋肉の感じいいな」
たけちゃんは「まあ俺も負けてないけど」と袖を捲って細っこい腕を剥き出しにした。
「ほっそ。私より細いんじゃない?」
「そんなわけねえだろ。腕相撲するか?」
「やめておきまぁす」
「小柴にしては賢明な判断だな」
どういう意味よ、と睨みつける。たけちゃんは「それが通じないのが小柴のいいところだから」と何も教えてくれなかった。
次の日の放課後、私はまたしても弓道場に訪れていた。昨日のようにフェンス裏に腰を下ろしてしばらく待っていると、弓道部の部員たちがぞろぞろと袴を着て射場に出てきた。うそ、なんで!? と思わず立ち上がる。
どうしよう、昨日みたいに中に入りたいけど、自分から頼むのは気まずい。どうしてか、青柳先輩を避けている自分がいる。
クロッキー帳を胸元に抱えて、矢を打ち始めた弓道部をぼうっと眺める。
「……あの、」
「えっ!? は! え!?」
折り目のない、真っ白い上衣に、飲み込まれるような黒い袴。袴姿の青柳先輩が、二メートル先に立っていた。
「昨日の美術部員……柴……」
「さ、昨日はどうも!!」
「……今日はどうしたんスか」
「弓道着でやってるところを見られなかったなあと思って来たんですけど、……どうして皆さん今日は袴なんですか?」
昨日や一昨日とは違い、弓道部の部員たちは個人で練習をしていた。米俵を大きくしたような茶色い的に、一人ひとり矢を放っている。
「……明日、練習試合で」
「あー、なるほど」
青柳先輩の弓道着姿は、眩しすぎて直視できない。きょろきょろと視線を彷徨わせている私の姿は、青柳先輩からは不自然に映っているだろう。
「また、見ますか。近くで」
「……い、いいんですか? 集中の日なんじゃ」
ずば、ずば、と矢が俵に刺さる音だけが響いている。
「見られただけで、集中が途切れるとかは……ないんで」
その言葉に驚いて青柳先輩を見つめると、バチっと音がするみたいに目が合った。
「青柳先輩」
青柳先輩は鋭い瞳で真っ直ぐこちらを見ている。
「私と付き合ってください」
彼の瞳を見つめたまま、ぽろ、と口から勝手に言葉が漏れ出た。
「……どこに」




