2.「び、……名前なんだったっけ?」
バレないだろう、と高を括っていた昨日の私を一発ぶん殴りたい。
「……そんなところで何してんスか」
弓道部の人たちをじっと眺めてクロッキー帳に黙々と雰囲気を描き留めていると、後ろから低い声がした。慌てて立ち上がる。
「えっ!? えーっと、す、すみません!」
とりあえず頭を下げるも、「べつに謝罪とかはいいスから」と上げさせられた。やっぱりたけちゃんを連れてくるべきだったか? たけちゃんと目の前の人では雰囲気がだいぶ違うけれど。
短い黒髪に、上は黒いTシャツ、下は学校指定の濃紺のジャージで、裸足にサンダルを引っかけた目の前の男の人は、真顔で私を睨んでいる。見上げるほど身長が高く、袖から覗く腕はごつごつと太い。かなり筋肉質な身体つきだ。
「……何してんのって聞いてるんですけど」
「わ、私、一年の小柴仁菜って言って、あの、美術部なんですけど、弓道部の方たちを描こうかなあって思ってて、それで、観察をば……」
「……あ、そう」
「はい……」
気まずいし恥ずかしい。こんなの覗き同然だ。植え込みに隠れて、ただの変態じゃないか。
「……中、入る?」
「ごめんなさい警察は……」
喋り出したのはほぼ同時だった。
「は? 警察?」
「な、中?」
「……走り回ったりうるさくしたりしないなら、入ってもいいけど」
「い、いいんですか!?」
「……どうぞ」
早く練習に戻りたいのか、男の人はちらちらと道場の中を伺っている。横を向いた時、胸鎖乳突筋がきれいに浮き上がっていた。
この人、めちゃくちゃかっこういい、かも、しれない。
この人が矢を射るところを見てみたい。
つり上がった涼しい目元も、すっと通った鼻筋も、輪郭も首筋も、肩や腕のラインも、全てが美しい。服の上からでも、筋肉がきれいについていることが一目でわかる。きっと、たけちゃんもこの人を見たら同じことを思うだろう。
「案内してもらっても、いいですか」
「……こっちです」
この人は道場の裏口のような扉から出てきたらしく、そこから中へ案内された。大股で歩く彼に置いていかれないよう、ローファーを急いで並べて、恐る恐る足を踏み入れる。
ひと三人分くらいの広さの長い廊下を抜けて、先ほどはフェンス越しに見ていた矢を射る場所にたどり着いた。頭上のプレートには『射場』と書かれている。
案内をしてくれた男の人が頭を下げるのを見て、私も丁寧にお辞儀をした。
描くのに夢中で全く気が付かなかったが、弓道部の皆さんは休憩時間に入っていたらしい。それぞれ座ってお茶を飲んでいる。
「青柳、それ誰!? 新入部員!?」
「……美術部員で、矢を射るところを見たいそうだ」
「こ、こんにちは! ごめんなさい、お邪魔にならないようにするので!」
「そっかー、ゆっくり見ていってねー」
コーチや顧問がいるものだと思っていたが、大人はつかずに生徒だけで練習をしているみたいだ。しかしさすが強豪と言うべきか、ちゃんと練習にメリハリがあって、矢という危ないものを扱っているにもかかわらず、統率が取れていて混乱する場面もない。
うちの高校の弓道部は、全国では五本の指に入るくらい強いらしい。インターハイ常連校なんだそうだ。真偽は不明だが、学校が始まった時から部活がある、なんてことも言われているくらいで、深い伝統がある。
「……練習再開するぞ。それぞれ位置に」
部長らしき人が手を叩きながらそう言うと、部員はさっさと休憩をやめて、自分の場所についた。やはり全く音が無い。
私も息を殺すようにして移動し、射場の隅で正座をする。
やはり間近で見ると、迫力が違う。フェンス越しだと感じなかった息遣いが、はっきりとそこにある。筋肉がどう動いて、どう弦を離すのか。離した後の目線、足腰の動き、注目したらきりが無い。
じっと見つめて描く、じっと見つめて描く、を繰り返すうちに、私はあることに気づいた。
――あの人ばっかり描いてる。
もっと近いところに立っている人も居るというのに、案内をしてくれたあの人だけを見て、あの人のクロッキーばかりしている。こんなのおかしい。
もっと全体を見なければ、と意識はするのに、目が勝手にあの人を注視して、その一挙一動を見逃さないようにしている。
弓道のことなんて全然わからないけれど、猛烈に、あの人の弓の引き方が好きだ、と思う。美しくて、静かで、しなやかで、なのに力強い。
かっこういい。恰好いい。
何ページにもわたって、ありえない量のクロッキーを行ううちに、だんだんとイメージがついてきた。
「休憩!」
「ハイ!」
突然響いた大きな声に、びくりと肩をすくめる。こんなにデカい返事は久しぶりに聞いた。
号令をかけたのは案内をしてくれた人だった。もしかすると、あの人は部長とかそういうものなのかもしれない。
「美術部員ちゃん! どうだった?」
先ほども話しかけてきた部員さんが一目散にこちらへやって来る。あの人よりは痩せ型で、しかしやはり腕は筋肉でぼこぼこしている。
「えっと、たくさん描けました。ありがとうございます」
「それはよかった」
「あの……あの人のお名前、聞いてもいいですか」
案内をしてくれた人を指すと、部員さんは「へえ!」と、元々まん丸い目をさらに丸くした。
「二年の青柳哲志。中学からやってるから超上手い。だんとつの一番」
「そうなんですね……」
「び、……名前なんだったっけ?」
「小柴です」
「小柴さん、なかなか見る目あるよ」
青柳先輩は、周りがゆっくりと水分補給をしている中、矢の状態を一本一本確認していた。
話しかけてくれた先輩の名前は宮越と言うらしく、青柳先輩が部長で、宮越先輩が副部長なのだそうだ。美術部の三年の先輩たちはまだ部活をしに来ているが、弓道部の三年生は完全に引退して、代替わりもしたらしい。
「哲志ぃ」
宮越先輩が大きな声で青柳先輩を呼び、手招きをした。青柳先輩は作業の手を止めて、こちらに歩いてくる。
「ちょ、ちょっと、何やってるんですか」
「小柴さん、哲志と話したいんじゃないかな、と思って。余計なお世話だった?」
「い、いいですいいです! 来ちゃってるじゃないですか! 私……帰りますねさようならありがとうございました!」
「え、ちょっと!」
射場を出る時にがばりと頭を下げて、すり足の早歩きで道場の廊下を渡る。幸い、誰も私を追ってきていないようだ。背後から矢が的を射る音がし始めたので、ちょうど休憩時間を終えたのかもしれなかった。