YOSEI
絶望というものは、生活の隣に佇んでいる。しずかに。日常の邪魔をしないように。
朝起きると、酔っ払った夫がソファでぐんにゃりと軟体生物のように寝ている。風邪をひいて会社を午前中休んだのに、昼出社しても誰も声をかけてくれない。楽しみにしていた美術展には忙しすぎて行けなくて、私を絶望させるためだけに理由もなくトイレは詰まる。
とはいえ私の人生は悪いことばかりじゃない。少なくとも結婚しているし、同僚は冷淡な人たちだけれどブラックでもホワイトでもないグレー企業にお勤めできているし、たまに会う友人たちはみんな良いやつだ。結婚生活も、仕事も、趣味も、そこそこ楽しくやっている。
――と、信じていた。
前々から彼が、なにか動物を飼いたがっているのは知っていた。
でも動物なんてお金もかかるし家も散らかすし、ようやく結婚して家を購入したばかりの余裕のない若い夫婦が手にできるものじゃない。きちんとそう反論していたはずなのに、彼はその都度、「ちがうよ、忙しい現代人にこそ、動物っていうのはこころのゆとりのようなものを与えてくれるんだ」なんて言っていた。きれいごとだ。どうせ世話なんてしないくせに。
ペットは家族だ。そして私も勿論家族だ。だから、家族を増やすときにはちゃんと相談してくれると思ってた。まさか、突然買ってくるなんて。
「妖精を買ってきたよ」
にっこりと、私が喜ぶと疑っていない笑顔で夫が言う。
その右手に下がった籠の中で、妖精がにっこり笑って座っている。林檎三つぶんの大きさ、熟れた桃みたいなほっぺ、お花の蕾みたいなスカート。そりゃあ可愛い。でも。
もう、ほんと、妖精、妖精――よりによって、妖精!
観賞用・飼育用の妖精が、最近再び人気を取り戻しているのは知っていた。そのブームに乗っかってか、朝の番組には「今日の妖精ちゃん」なんてものもある。天気予報と一緒に、視聴者が飼っている妖精がご飯を食べたり散歩したりしているだけの投稿ムービーを流すのだ。飼っている人からしたら、妖精というものは可愛くて可愛くてしょうがないものらしい。お天気マークの背景として映っている分には私の生活に影響ないけれど、家にいるのは無理。距離が近すぎる。
「ねぇなんで、勝手に買ってきちゃったの?」
うん、実はね、と子どもの悪戯を告白するような言いぶりで夫が言う。
「一緒に選んだほうがいいかなとは思ってたんだけど、とっても可愛かったし気に入ってもらえると思って。……というか、この子、会社の先輩んとこの子なんだ」
「え、貰ってきたってこと? じゃあ返せるの?」
「そんなこと言うなよ。先輩だって、すごく必死に貰い手探してたんだぞ。このままじゃほんとに保健所行きにするしかないかもって、夜も眠れてないみたいでさ……」
そんなの知らないよ。と言いたい。すごく言いたい。でも子どもみたいに喜んでいる夫を見ると、言葉を選ばなくてはならないとも思う。
「あのね」
「うん?」
夫は指を妖精のケージの中に突っ込んで、機嫌良さそうにしている。家でこんなに機嫌がいいの、野球で勝った時ぐらいの気がする。ていうか、それ、噛まれないの? 大丈夫?
「動物飼うの、反対だよ。それに、何かを飼うにしても、妖精だけは無理。鳴き声とかも苦手だし、世話も大変だよ。今からでも返してこれない?」
「なに言うの? 籠も全部貰ってきたんだよ。干し草だって準備したし」
「え? 車にあるの?」
慌てて窓に近づき、駐車スペースのほうを見る。大きな積み藁が、愛車の上に乗っかっている。草とはいえ、車のボディは傷つかないんだろうかとか考えると眩暈が……
「何あれ! どこに置くの?」
「なんとか場所作るよ。それよりほら、見ないの?」
なにを? と思ったけれど、勿論妖精のことだろう。夫が籠を、トロフィーみたいに持ち上げる。
「見れば分かるよ、ほら」
「待って! 籠からは出さないで。とにかく、しばらく預かるっていうなら……」
「預かるんじゃないよ、今日からうちの子になるんだよ」
夫が眉をひそめて私を見ている。いやいや、機嫌悪くなりたいのは私のほうなんだけど。
「まだ認めたわけじゃないから。ここからまた貰い手探すこともできるでしょ?」
「そうは言ってもさあ……」
「そもそも、いつこんな話になったの。今日話を聞いて、今日貰ってきたってわけじゃないんでしょ? いつからこんなこと相談してたの」
夫はすぐ嫌になったらしい。呆れたように、大げさに大きくため息をつく。またこれだ。こうやって遺憾な気持ちを表明すれば私が気を使ってあげるものだと思っているんだろう。いや、多少のことならそうしてあげるけど、ものには限度ってものがある。無理、無理。
「ねえちょっと、どうなの?」
ため息だけで済ませてリビングへ向かおうとする背中に声をかける。負けない。
「分かった、分かったよ。今日は俺も疲れたからさ、申し訳ないけどちょっと明日にしよう」
「明日って、木曜だけど、残業ないの?」
「あ、いや、明日は無理か……明後日は?」
「分かった。ところで明日の妖精の世話は?」
「もちろん俺がやるよ」
嘘つけ。
どうせ数日で飽きるだろう。明日か、明後日ぐらいまでは出来たにしても、一週間も経たずに妖精の世話は私の仕事になってるに違いない。でも――私、妖精苦手なのに!
なんとなく生活にゆとりを持たせたいだけなら、頼むからサボテンにしてくれ。
「……って、ことがあったの。信じられない!」
一通り愚痴り終えた私は、舞台役者みたいに大きく両手を開く。
ていうか、あれから鼻がムズムズする。ストレスのせいなのか、妖精の鱗粉のせいなのか。
久しぶりの女子会だった。学生時代の仲間たちで、メンバーは五人で固定。だいたい三か月ごとに会っている。子どもが生まれてたり、まだ独身だったりと、ライフスタイルは様々だけど、おおよその生活レベルが一致しているので、会話の内容やお店選びに気を使わなくていいのが楽だ。ホテルのアフターヌーンティー、二時間四五○○円がしっくりくる人たち。
「旦那さん、元から犬とか猫飼いたいって言ってたんだもんね。一回、フクロウ飼いたいとかも言い出してなかった?」
「そうなの! そのたびに、ダメってちゃんと言ってきたのに。突然貰ってきちゃうなんて信じられない。普通、LINEでいいからその場で私に聞いたりしてこない?」
「まあ、よっぽど可愛かったんだろうねぇ~。相談したら断られるって分かってたとか?」
「あ、ありえる……」
「うちの夫は逆に動物大嫌いだから、ちょっと寂しいぐらいかも? 動物、好きな人は好きだもんねえ」
そう、そう、本当にそう。動物が好きな人の気持ちなんて分からない。
でもそもそも、夫の気持ちが本当に分かったことなんてあったんだろうか。相手の気持ちが分からなくても好きにはなれるし、考えていることがよく分からなくても「好き」だと言われれば「そうか、この人は私のことが好きなんだ」と納得できる。そこに本当の共感とか理解とかは別に必要ない。だから気が付かなかったのかも。
「ねぇ、その妖精ちゃんってさあ」
と、マリが呟くみたいに言う。あ、まずいまずい。ちょっと頭のなかで他のこと考えてた。なあに? とマリに微笑み返す。彼女けっこう真剣な顔で私を見ていたから、もしかして真面目なアドバイスが聞けるかもって期待しちゃったり。
「彼女がかわいそうじゃないの?」
え? しーん、と、突然おばあちゃんが軒先から出てきて水でも打ったみたいに静かになった。
「え、どういうこと?」
「だからほら、彼女」
「誰のこと?」
「その妖精ちゃんよ! たった一人で知らない家に来たばかりで、家の女主人に嫌われてるなんて、可哀そうだと思わない?」
「いやいやいや。待って、待って」
女主人って誰? あ、私のことか。
すー、はー。え、なにこれ、この説明、女同士でもやらなきゃいけないの?
「――私はかわいそうじゃないっていうの?」
「そんなこと言ってない」
でもね、とマリの顔は真剣そのもの。え、怖。私も夫に対してこの顔してたの? って思うぐらい、怖い。
「妖精だって生きてるの。可愛いとは思うんでしょ?」
「可愛いとか綺麗とか関係ないの。アレルギーなのかもしれない。咳が止まらなかったし」
「品種は? ものによっては一年もたたないうちに死んじゃうのよ、かわいそうに」
「待って待って。そもそも、夫はね、絶対世話しないの。最終的には私に押し付けるつもり……っていうか、なんなら、そのつもりすらない。考えてないの。とにかくミーハーなだけなの」
「何もやらない……って、そんなの家事だって子育てだって一緒だよ。いつもあなた言ってたでしょ? 今に始まったことじゃないでしょ?」
「だからこそ、嫌なの! 共働きなのに、掃除も洗濯も料理も、明らかに比率がおかしいんだもん。妖精の世話こそは、絶対、絶対、一つも手貸さないんだから!」
キャンキャン鳴いてる犬みたいだ、と自分のことをそう思う。他の子も引いてるかも。と、思う、思うけど! 怒らなきゃいけないことに対してちゃんと怒ることって、そんなに悪いこと?
マリを睨んじゃいそうになってると、横から別の子が宥めてくれた。
「でも、もう居るわけだし。妖精の良いところ探ししてみたら?」
う。一理あるのかもしれない。適応力の発揮というやつ。
「なんて品種なの?」
「えーっと、ヴァイオレット・ソフィー。ちょっと混種らしいけど」
「え、あの人気の? すごいじゃない!」
人気なの? スマートフォンで調べてみると、相当な値段がすることがわかった。
これ、わたしの指輪よりも高いんじゃないの?
はあ、と肺のなかの空気をぜんぶ吐き出したくなった。なんなのこれ。いったいわたしがどんな悪いことをしたっていうの。っていうかこんなに人気の妖精なら、尚更うち以外に貰い手がいるんじゃないの。
「ほら見てよ、歌も歌えるし、簡単なボードゲームぐらいならできるんですって」
「犬ならフリスビー遊びができるし、番犬もできるわよ。歌うぐらい誰だってできるわ!」
「まあでも、妖精がほしい人にとっては夢よ。確かに少し高いけど」
「うわ、しかも寿命! この子、十年近くあるんだけど!」
「その分いい妖精ってことよ」
みんなが慰めてくれる。いや、これ慰められてる? もう分からない。だってどうせ、誰も貰ってくれないでしょ?
マリがわたしをのぞき込む。え、なに?
「馬鹿な旦那さんだよね」
「う、うん。そう思うでしょう?」
「だって私なら、妖精嫌いの人と結婚しようと思わないもの」
「……え?」
な、なんて言った、この子!?
でも結局真意を聞くことはできなかった。たまたま(だと信じたいけど)その後すぐにマリの携帯が鳴って、そのまま彼女は電話をとりに外に出た。しばらくしたら戻ってきて、電話を耳に付けたままコートを椅子から引きはがし、ごめーん、とジェスチャーして五千円札一枚置いて出ていった。
マリのこういう行動は、珍しいことじゃない。この五人の中では一番の出世頭で、上場企業でリーダー職についていて、休日遊びに行っても必ず仕事が影みたいに付いてくる。だから、たぶん、今日も……。
「気にしないで。あの子、昔妖精飼ってたのよ。妖精一度飼ってた人って、妖精に人権を与えるべし、とかまで考えてることあるから……妖精ってなまじ人間に似てるだけ、ねぇ?」
そう言って他の子が慰めてはくれたけど、なんだか私に対しても呆れてるような物言いだった。
っていうか、隣の席の人も妖精の話してない? さっきまでアイドルの話してたくせに。あー、こっちの声が聞こえていたんだろうな、と思うとまたひとつ憂鬱が深まった。
帰り。電車を乗り換えるたびに少しずつメンバーが減っていく。いつ切り出そうか悩んだすえ、結局ぎりぎり最後まで待った。子どもが一歳になったばかりのユミが電車を降りていく。バリキャリのリカと私だけが残される。リカは次の次の駅で降りるから、話せる時間はたったの六分。
「みんな、変わってなかったねー」
まずは当たり障りのないところから話を広げた。そうねえ、とリカが笑う。
「でもどうかな。こんな年齢になってまで言うことじゃないのかもしれないけど、みんな少しずつ大人になってるなー、とは思ったけどね」
ぐっ。あんな騒ぎを起こした後だと、こういう言葉が胸に刺さる。
「たしかにそうかも……ねえ、私、ちょっと痛い奴だった?」
ああ、とリカが笑う。その、ちょっと澄ました感じの苦笑い、セーラー服を着てた頃から変わらない。仲良くなったのは大学に進学した後だけど、彼女は元々同じ高校出身だった。
「みんな、ヒートアップしちゃったよね、一瞬」
「私はただの愚痴のつもりだったんだけど……なんかゴメン。ペットの話って、結局、命の話だし、やっぱり人によって意見ぜんぜん違うよね。リカはどう思った?」
「うーん……寿命が十年もある、とか……あの言い方は、ちょっとどうかなと思わなくもなかったんだけど。まあ、あなたも大変だもんね。でも」
命なんだよ? とリカが私を窘めるみたいに言う。いや、私も命なんだけど。ほんとにこれって私がおかしいの?
そもそも可愛いからなにかを飼うとか、大切にするとか、一緒に暮らすとかって、そんなに立派なことなのか。可愛いね、うちの子になりましょう、ということで持って帰ってきました。というロジックにほんとうに誤謬はないのか。みたいなことを考えながら油まみれの鍋を洗っていた。麻婆豆腐が食べたかったのは私なので、この油は私のせい。だからいつもよりはマシ。
誰かが飼ってる犬に「いくつ?」って聞くのは、「あと何年で死ぬの?」って聞くのと同じことのような気がしている。人間に対してはそんなこと思わないのにね。なんて言ったらまたあの人たちは私のことを冷酷無比で感情のない女だと馬鹿にするんだろう、分かり切ってる。ああ嫌だ。
ゴシゴシと力強くタワシを上下に擦るたびに、小さな泡が私へ飛ぶ。キー、と後ろのほうから小さく妖精の声がする。夫がビール缶を開けながら、そういえばさあ、と雑談してくる。
「経理のミユちゃんってね、妖精が好きなんだって」
「……え、もしかして妖精の話、してくれたの?」
他へやるって話、考えてくれてたの!
わずかだった期待が、膨らんでバルーンみたいに大きくなる。このまま気球になって飛んでいっちゃいそう。嬉しい!
「そうそう、小さい頃は妖精と話ができた気がするとか言い出してさ、いやー笑っちゃうよな」
「じゃあ、もしかしてあの子も?」
「うん、コヨリの話もしたよ。写真見せたら、可愛いねってすごい羨ましがってくれた」
コヨリ? ああ、あの妖精の名前。
「じゃあ、貰ってくれるって?」
「……え? いや、そんな話はしてないよ。もう、お前まだ言ってんのか、しょうがないなあ」
夫はビール缶を置いて伸びをする。その悠然とした態度。まるでサバンナの真ん中にいる獅子みたいに自由。
「せいぜい数年だよ。十年も生きられないんだよ」
「せいぜい? その十年未満の、短い期間の間に私は子どもを育てて幼稚園と小学校にやって、仕事もして家の面倒まで見なきゃいけないっていうのに、その間ずっと妖精のせいで咳して健康不調でいろっていうの」
ああ、また長々と喋っちゃう。こんなんじゃ昼と同じことになっちゃうって、分かってるのに。
「待って、子ども? 子どもがいつ生まれるの?」
「いや、今のところ別に予定はないけど、十年もあれば生まれるでしょ、そりゃ!」
タイミング悪く、妖精の歌が隣の部屋から聞こえてくる。歌、って言ってもべつに旋律がしっかりしているわけじゃない。私からしたら、キーキーしていて煩いとしか感じられない。
「子どもとか……そういうことはお互い話し合ってからじゃないと」
「もちろんそのつもりだよ」
「とにかく、そんなこと急に話題に出されても困るよ」
「今回の妖精のことだって、私にとっては急なことだったよ」
「だから、それは悪いと思ってる。でも、子どものことはそれとは別の話だろ。そういう態度を取られるなら俺、安心できないよ。頼むからすこしは落ち着いてくれよ」
どっちが? と言ってしまいたい。怒りが沸点に達しているのに、我慢するのに慣れすぎてなにも言えない。なんなのこれ、悲しくもない。
でも悔しいことがあるとすれば、もしここで癇癪を起こして離婚を迫ったところで、夫の中では『ヒステリックな妻が我儘を聞き入れてもらおうと離婚届を盾に迫ってきた』としか解釈されないであろうということ。
「お前も、この子を見れば分かるよ」
夫が穏やかに言う。まるでこれからプロポーズでもするみたいに慎重そうに、愛おしそうに。彼がいつの間にか掲げているのは妖精の籠だ。待って、開く気? ありえない。
「そっちこそ落ち着いて」
「ミユちゃんはさ、妖精は俺たちの心を映す存在だと思ってるんだって。ロマンチックすぎるなあとは思うけど、そういう風に思えば、きっとお前も可愛くてたまらなくなるよ」
「なにそれ、妖精好きだったら偉いの? じゃあその子と結婚すればいいじゃない」
「は? ……そんなヒステリーな女じゃなかっただろ、お前」
圧倒的な不理解。妖精。名前はなんだっけ、ココミだったかココロだったっか。形はある意味女だし、これにも子宮があるんだろうか。と思うと気持ち悪くてたまらなくなってきた。なんてことを言葉にして口にすれば、きっとまた『冷淡な人』扱いされるんだろう。わたしはこのままこの家に住んでいたくなんかない。これは尊厳の問題だ。そう思うのに、ただ見つめるだけで彼に何も言えない。その子を外に捨ててきてよ。一番言いたいことを言ってしまったら、きっと世界中の人が私との離婚を彼に薦めるようになるだろう。証拠を差し出してしまう、不貞も何もしてないのに。
籠の戸が開く。スカートを揺らし、知らない女が部屋中をわが物顔で飛び回る。たしかにこれを可愛いと思う人もいるんだろう、でも思わない。私は思わない。これは私のせいじゃない。
絶望というのは、生活の隣に佇んでいる。しずかに。日常の邪魔をしないように。
でもその中でも一番私のこころを蝕むのは、意図的に起こされた絶望だ。意図的に看過された、といってもいいかもしれない。私が絶望することを知っていたはずなのに、だれも止めなかった、そんな類の絶望。