入門編その1 とある少年の
カルロス・レ・ゼルの住んでいる家は東京の自由ヶ丘にある普通のマンションだ。
銀髪。緋色の目。
名前と見た目はフランス人だが、母親が日本人のハーフで日本生まれ日本育ちの日本人だ。フランス語なんて挨拶もままならない。
カルロスという名は現実ではスペインやポルトガル人の名前だが、母が感覚で付けてくれた名なのでカルロス自身は気に入っていた。
その母はカルロスが小学生の時に亡くなった。それから、長らく父親と東京での生活が続いた。
父親、シャルルは料理人で日本の高級ホテルに勤めている。背は高いし、カルロスの銀髪は父親譲りだ。
だから、ない話ではない。
しかし、突然過ぎる話にカルロスは目が点になった。
「……再婚!?」
それは、中学生最後の冬。クリスマスディナー。カルロスの誕生日に父から告げられた。
「ああ。日本人女性と再婚する」
「……え、そう……」
こういう時。カルロスはどういう反応をすればいいのか分からなかった。おめでとう? 何故、言ってくれなかったのか? そんな感情にすらカルロスは到達していない。
ディナーテーブルにコン、とフォークが落ちる。
シャルルは勝手に続けた。
「相手女性も夫を亡くしていてね。カルロスと同じぐらいの息子もいるんだ」
「……え?」
「今日から、四人家族だな!」
「はぁあああああ!?!!!!」
カルロスはクリスマスの夜に、プレゼントの箱ではなく、パンドラの箱を開いて絶叫した。
「そうそう、彼女はトチギに住んでいるから引っ越すぞ。年末までに荷物をまとめてくれよ」
「え、ホテルは……?」
「トチギにある支部に移動になったんだ。彼女はそこの従業員でね」
「あ……そう」
カルロスはただ、機械のように頷いた。
「懐かしいな。お前は良く、スポーツの出来る兄が欲しいとごねただろう。叶ったな」
「……は? 兄!?」
「そう。彼女の息子はお前の二つ上の高校生だ。バドミントンの凄い選手だそうだ」
「兄……高校生……」
カルロスは機械のように繰り返す。
「お前と同居する頃には高校三年生になるんだ。……写真はあったかな。……ああ、彼女が雑誌をくれたんだ」
父は放心状態のカルロスを置いて話をどんどん続ける。そして仕事用の鞄から雑誌を取り出した。
自慢気に広げ、カルロスに渡される。
一面に写真が広がっていた。
バドミントンのラケットを構える日本人。
名前は鷹飛国雪。
「たかとび、くにゆき」
「ああ、そう。くにゆきだ。イケメンだろう?」
日本語はカルロスの方が上手いし、漢字も分かる。
全国高校バドミントン大会優勝、とある。
今にもスマッシュを放った瞬間だ。躍動感のあるいい写真だった。
兄、云々は置いておいて、写真の青年はイケメンと言うよりは男前の好青年だ。身長は178cm。63kg。データを見て、カルロスは思わず、「軽っ」と叫んだ。普通にスポーツ雑誌を読むのは好きだ。
スポーツが好きなカルロスには分かる。その人はまるで、只者ではないオーラを放っている。
髪は短く、体育館の光源によって少し深い濃紺に見えた。
瞳が大きいから少し童顔に見えるが、その視線は鋭い。
生年月日、出身地、好み、使用ラケットまで書いてある。
11月1日。確か陰暦の朔旦冬至と呼ばれる日だ。出身地は栃木県。好きな食べ物はラムネ。飲み物の。ラケットの名は難しく分からないが、高校は栃木ではなく群馬の群青大学付属高校とある。だからユニフォームが青いのだろう。
「カルロス、私もまだ途中なんだよ! 彼の好みはなんて書いてあるんだ? 出会った時に手作りを渡すんだ」
「……ラムネ」
「……は?」
「サイダー、じゃねぇ……ラムネ、飲み物! 作るのは無理!」
「何だって!?!!! ユキナに他にはないか聞かなきゃ!!」
ユキナ、間違いがなければ雪名が父の再婚相手の名前なのだろう。
だから息子は国雪。
鷹飛。写真に映る飛んだシャトルの羽が似合う名前だ。
父はどこまで分かっているんだか。
「……カルロス、くにゆきって良くある名前かい?」
「スノウ、カントリー。母親はネーム、スノウまぁ、漢字は珍しいな。響きはそうでもない。鷹飛、ファルコンの方が珍しいけど」
カルロスは簡単な英単語を父に告げる。シャルルは何やらそれを必死にメモしていた。そんな姿を眺め、思考を放棄して雑誌をペラペラ捲った。
バドミントン。もっと楽しく、穏やかな競技だと思っていたが違うのだろうか。
「……カルロス、シャーベットのラムネは作れるだろうか?」
「……まぁ、それなら出来るんじゃね?」
父親ならば可能だろう。
「いいかい、カルロス。これはチャンスだ。新しい家族。意味は分かるな?」
「……何が」
「その横暴な態度はくれぐれも注意してくれよ。きっと向こうもお前と同じ気持ちだ。しかし、私はユキナと決意した。新しい家族になると」
「……勝手に決めるなよ」
カルロスは雑誌を投げて席を立つ。そのまま、部屋に隠った。父親の叫び声が聞こえたが、知ったことか。
ベッドにダイブする。
兄なんて今更いらない。
新しい家族?
では、カルロスの母親はどうなると言うのだ。
父に期待なんてしていなかった。
元々、勝手に決めてそれが息子のカルロスの幸せだと勝手に思っている。
知的で、親切で、更に理性的だから質が悪い。いつでも正しく。カルロスはいつでも間違っている。
訪れるのは、いつでもやり場のない感情だった。
そんな感情を、受け流す事ばかりが上手くなってしまった。
ただ、ひとつの希望は父の再婚相手がカルロスに過剰に干渉して来ないように、と祈るばかりだ。
翌年、カルロスは名前が変わる。
何でも父がどうしても、日本の漢字の名字がいいそうだ。
その時にはカルロスは無気力状態だったから適当に首肯く。
鷹飛カルロス。まぁ、悪くないか、と適当な返事をする。
そして、高校は栃木の男子校に行くことになった。これには概ね、賛成だった。環境が変わり過ぎたのだ。今までと同じ場所だなんて考えただけでもゾッとする。
誰も知らない。
場所も知らない。
そんな所がいい。
カルロスはしばらく、父と距離を置いていた。荷造りは勝手にやったし、戸籍も書類だけ書いて渡した。独立心、と言えばいいのか、関わりたくないと言えばいいのかカルロスには分からなかった。
新天地。新しい人生。そう前向きに考えるしかない。
電車はどんどん、民家の間を進む。
「すっげ~! 同じ関東だ、って聞いてたけど、案外近いんだな」
しかし、そこからは一駅、一駅の感覚が長くなり、カルロスは今までの精神的な疲労から気が付いたら眠っていた。
『~駅、駅、お出口は……』
「……着いたっぽい?」
カルロスはきょろきょろと周囲を見渡して電車から降りる。
瞬間、頬に当たる風に驚いた。
「空気が、美味しい!!」
思わず、両手を上げて叫ぶ。
匂いが違うのだ。
少し湿った空気は清涼感に溢れ、懐かしい自然の匂いがした。
「いいかも、いいかも!! 飛んだら気持ち良さそー」
カルロスは駅から降りてはしゃぐ。
何事もポジティブでなければやってられない。
多い車。看板を見るに大通りらしく人の通りも東京程ではないが多い。
しかし、思っていたより田舎でもない。不思議な感覚だった。
着いたのが夕暮れ時だったので自転車の学生がたくさんいる。
「制服の学生とジャージの学生は何か違いがあるのか?」
街を散策しながら歩く。小さな定食屋が点々と並び、何故かコンパクトな料金駐車場が多く、思ったよりも街は綺麗だった。
カルロスは真っ先に、自分の通う高校を探す。駅から近く、学生の多い高校だと聞いていたので周辺を爆走しているとそれらしい高校を見つける。
大きな門は青錆色。クラシックなデザインの石床に奥には大きな校舎。
「きっと、ここだ!」
休日だからか、門は開きそうにない。くるくる、見渡しているとどこからか声が聞こえる。校舎裏の方だった。
「うわ、でっけ!」
校舎裏には体育館があった。
天井は緩やかな半円でやはり青錆色のデザインが目立つ。
入り口からは僅かに光りが漏れていた。
「部活、部活かぁ。小学校はサッカー、中学はテニス。やっぱ球技がいいよなぁ……出来れば個人の」
そこでカルロスは足を止める。
最初の転勤は小学校の時だった。
小学校のサッカー部は楽しく、カルロスはエースストライカーで、皆で全国を目指していた。
そんな時の母の死。
今でも苦い思い出だ。
母は誰よりもカルロスを応援してくれた。
そんな母が死んだのだ。
続けられる訳がない。
チームメイトに、裏切り者、と石を投げられたのは。
そんな暗い思い出にカルロスは体育館の扉を開こうとした手を止める。
『……カルロス』
半分開いた扉を閉めようとした。
その時、コンッと何かが頭に当たる。
「……え?」
落ちたそれは羽だった。
純白の羽が何枚も重なり、まるで翼の様に見えた。
カルロスはその羽をまじまじと見つめる。
「……羽だ」
「そんな所で、何やってんの?」
「うわぁああ!!」
突然、声をかけられカルロスは戸惑う。
「え、……あの、……」
「……新入生?」
扉はガラッと開いた。
目の前の青年によって、開かれた。
明るい体育館にはバレーボールのコートに似たネットが張られている。
「あ、……あの、これ!」
カルロスは青年に白い羽を渡す。
「ああ、サンキュ」
青年はカルロスより少し背が高いか、同じぐらい。瞳は大きい。どこか風格がある。
おそらく上級生だ。
何処かで見たことがあるのは気のせいだろうか。
「これ、何のスポーツですか?」
「はぁ? 知らねぇの? 何だ、新入部員じゃねぇんだ」
怖い訳でも、脅している訳でもないが少し強い口調。しかし、カルロスに向ける目線は親切そうな人だった。
「それは……その、見学次第で……」
「ふぅん。名前は?」
「か、カルロス・レ・ゼル……です」
新しい名前を言うのは流石に憚られる。
「……外人?」
「いや、ハーフっす、えっと、フランスとの」
「へぇ。だから銀髪なのか。俺は今年から、このバドミントン部の部長」
足首のサポーターの位置を直すその人はまるで、只者ではないオーラを放っている。
髪は短く、体育館の光源によって少し深い濃紺に見えた。
多くのスポーツの経験でカルロスには分かった。
この人、強い。
しかし、どこかで見たことがあるような気がした。
「あの……もしかして」
「何、って……バドミントンだよ、バドミントン」
そう言いながらその青年はブンブンとラケットをペン回しのように綺麗に回す。
野球、サッカー、バレー、バドミントン。
バドミントン。
「……あぁああああ!!!!」
「ん?」
カルロスの絶叫に部長はキョトンとしている。
バドミントン、あの鷹飛国雪が続けているスポーツ。
カルロスは興味が湧いた。焦って、続けた。
「それって、俺にも出来ますか!?」
「……え?」
「運動神経はいい方っす! 初心者でも出来ますか!」
カルロスの勢いに弱冠引きながら青年は答えた。
「出来る……ってどこまでかって次第だけど、まぁ出来るんじゃね? ヤンキー君。つうか、体育でやらなかったのか?」
「サッカー、バレーとバスケだったので、本格的にはやったことないっす! 後、ヤンキーじゃないです! ハーフっす!」
「……運動神経、ふーん。面白い。教えてやるよ、新入生?」
青年はニヤリと笑った。
横から驚いた様にもう一人の部員が顔を出す。
「え、本気!?」
「いいじゃん。体験入部。清水、ラケット貸してやれ」
「……えー、ったく、しょうがねぇな」
どうやら、この人達は口調は少々ぶっきらぼうだが面倒見のいい先輩達の様で、清水と呼ばれた、サラサラした髪の背の高い先輩がカルロスにラケットを投げて渡す。
真っ白なラケットだった。
「あれ、テニスラケットより軽い」
「格好は……動きやすそうだからいいか。清水、審判」
「へいへい」
清水という先輩とカルロスは青年に指示された場所に立つ。
厳つい訳ではないが、やはりこの青年は只者ではないらしい。
カルロスは純粋に、もっとバドミントンのことが知りたかった。ただ、それだけだ。
バドミントンのコートは少しテニスに似ていた。
しかし、カルロスのやったことがある簡単なバドミントンとは少し様子が違う。簡単に打ち合って、落ちたら一点。そんな感じのバドミントンしかカルロスはやったことがない。
「入門編、ルールはザックリでいいや。オマケにハンデ。俺から一点でも取れたらヤンキー君の勝ち」
「えー!」
つまりは舐められている、ということだ。
「サーブ、どうぞ」
羽がぽーんと飛んでくる。カルロスは慌ててその羽を打ち返す。
バシュッと音がして来た方向に飛んでいく。
「……って、おいおい、サーブ、打たねぇのかよ!?」
「えー?」
青年は上手に飛んでいった羽を動かず、手の動きだけでもう一度カルロスの元に返す。
「うあ! ふわってなった!」
「あー、もういいよ。好きにやれば」
「優しい~」
清水という先輩が茶化す。
「うるせぇ」
その瞬間、カルロスが打った羽は物凄いスピードで戻って来た。音はシュッと空気を裂くような音で、風が吹いた瞬間に羽は落下している。
カルロスは瞳を見開く。
「はい、一点」
今のは全力ではない。軽く打っただけだ。しかし、綺麗な動きだった。カルロスは羽を拾って、同じ様に打ち返した。
「へぇ、物真似ね。面白い」
カルロスが打った羽は華麗に返される。先程と同じ様に。しかし、場所が違う。コートギリギリだ。
届く!
カルロスは瞬間的に走って羽を追った。ギリギリ線の内側に落ちる羽を打ち返す。
しかし、その羽は青年の正面に調度飛んで彼はそのままラケットに力を入れずに当てた。
羽は飛ばずに落ちる。
カルロスはもう一度走った。
しかし、羽は目の前で落ちる。
数秒間の出来事だった。
カルロスは立った。
「……まさか……見えてるのか?」
清水泉は驚愕して言う。
「いいや。モーション使ってねぇし、言うだけあってそこそこ動けるんだな、ヤンキー君」
「俺はヤンキーじゃない」
カルロスは青年を睨む。
その瞬間、カルロスは何か妙なものが見えた気がした。
気のせいだろうと、目を擦ってもう一度構える。
「次、行くぞ」
静かな声にカルロスは頷いた。
カルロスはサーブが打てないので青年がサーブを打つ。ルールも何もないな、と泉はぼんやりコートを眺めていた。
しかし、青年から綺麗なインパクトのスマッシュが入りそれどころではなくなる。
「ちょっとぉ! 相手、初心者!」
「問題ねぇ!」
確かに、カルロスは見えていた。先程より強い羽が来る。同じ様に返してはまた同じ様になる。スマッシュの打ち返し方、なんてお遊びのバドミントンではやらない。カルロスはそのまま、そのスマッシュを打ち落とした。
やはり、華麗に返される。
相手はほとんど動いていない。
それなのに羽が鋭角に飛んで来る。
受けるので精一杯だった。
少し動いただけなのに汗が止まらない。
呼吸が乱れる。
せめて、一点でも取りたい。
しかし、その瞬間、妙な違和感があった。
青年とカルロスの間には距離がある。
また、あのシュバッが来るとカルロスの体は動いた。
しかし、彼の手、足、体は先程よりも力が入っていなかった。
さっきの、シュバッじゃない!
カルロスは走った。もっと手前に羽は落ちる。コートに片手を付いて、その羽を拾った。
羽はゆっくり、反対側のコートに落ちる。
「いてっ」
カルロスはそのままコートに転がった。
体育館は静まる。
ゆっくり、青年が羽を拾った。
「……ヤンキー君、お前ここの高校生じゃねぇな」
「……なっ」
カルロスを見下ろし言った。
「え、俺」
「え? ……ここ、群青大附属高校は伝統あるバドミントン部だけど……」
清水という上級生の言う言葉にカルロスは今度こそ固まる。
「ぐんじょうだい?」
「そうだよ。ここは群馬群青大附属高校バドミントン部。彼は部長」
「バドミントン部部長?」
そして、ぐいっと距離を詰めて青年を見つめる。
「ああ。俺は部長の鷹飛国雪」
鷹飛国雪。群青大付属高校バドミントン部。確かにあの雑誌にもそう書いてあった。つまり、ここは藍夕高校ではない。
「……マジでぇえええええ!!!!」
ま、間違えたぁああ!!!
カルロスが通うのは隣県の藍夕工業高校だ。つまり、完全に場所を間違えたのだ。
そんなこと、今更恥ずかしくて言えない。
しかも、これから家族……になるかもしれない相手に、だ。
「……ありがとうございましたぁあ!!!」
カルロスは勢い良く体育館から飛び出した。
「あ、ちょっと!!」
泉が叫ぶが、既に遅くカルロスの姿はない。