7話 たった一度でいいから、こんなに深く愛されてみたい
響さんは玄関のドアを開けると私を振り返った。
「ひ……吉野先生、では、私はここで」
私は響さんに持っていた荷物を素早く渡すときびすを返してエレベーターに向かう。エントランスからここまで響さんの背中は私を拒否しているように感じた。もうこれ以上私の存在を否定されたら、今気が付いたばかりの私の気持ちは救いようがないものになってしまう。
先程乗ってきたエレベーターがまだ止まっていたから、乗り込んで一階を押した。もう、廊下に響さんの姿はなかった。
「うっ……ふ……」
口を両手で押えてこらえるけど涙があふれて止まらない。
どうしてこんなに好きになるまで気が付かなかったんだろう? 響さんは今でも結衣さんを愛しているのに。
私のことなんて見ていないのに……。
マンションのエントランスを出ると物凄い暑さが襲ってきた。今年は記録的猛暑だって、テレビのニュースは連日報じている。蝉の鳴き声がとてもうるさい。
自宅にまっすぐ帰る気にはなれず私はふらふらと歩き始めた。マンションのそばには小さな公園があった。さすがに暑すぎて誰も遊んでいない。木陰に木製のベンチが見えたので座ってただ空を見上げた。ああ、青いなぁ。あの日、響さんの部屋から見た空と同じくらい青い。
また、涙があふれてきた。私は空を見上げたままの姿勢で目を閉じた。
「伊織っ!」
突然後ろから強く抱きしめられた。
この低い声は。
「響さん……」
「君はどうしてそうなんだ!」
そうって……? 私は目を開けてちらりとすぐそばにある顔を見た。
「どうしてそう……俺の心をかき乱す……」
響さんは私を抱きしめる腕を緩めて、ベンチをまわって私の前に立った。そして私の手を取る。私は立ち上がって響さんを見上げた。
「行こう」
響さんに手を引かれて私たちはさっき別れたマンションに戻った……。
リビングに入って気が付いた。開かずの扉が開いている……。
「戻ったら部屋が綺麗に片付けられていて、もしかしたらこの部屋のものに君が触ったんじゃないかと思って開けたんだ……」
私は部屋の中を見た。中にあるのは化粧台とチェストだけ、床の隅には丸められたままのカーペットが置かれている。化粧台の上にはうっすら埃が積もっているのが見えた。
「君は結菜にすべて聞いていたのか……」
私は無言でうなずいた。聞いていたからこの扉は開けなかった。中が気にならないと言えば嘘になる。でも、この扉は私が開けていいものではなかったから。
「ここは、結衣と結婚式を挙げた後に新生活を始める為に借りた家だ。……南向きのこの部屋を結衣が気に入って、あいつの部屋にすると決めた。この部屋の中に今でもあいつはいる。そう、信じたかった。だから……当初の予定通りにこの家に越してきた後もずっと扉を開けられなかった。結衣がこの世にいないことを認めるのが怖かったんだ。何度、結菜が遺品を整理したい、一緒に墓に参って欲しいって言ってきても断ってきた」
響さんはすうっと部屋の中に入った。自然な動きだった。化粧台のドアを開けたり、チェストの引き出しの中を確認している。……中には何一つ入っていなかった。
結衣さんの引っ越しはまだだったんだから当然かもしれない。家具だけ運び入れた状態だったんだ……。
「ここが、こんなに空っぽだったとは……」
響さんは跪いてシャツの胸元を握りしめた。
「結衣……」
響さんの瞳から涙が零れ落ちた。
「……君は……もう……いないんだな……」
かすれた声で絞り出すようにつぶやいたから、私はそっと近づいて響さんを優しく抱きしめた。いまの響さんには縋れるものが必要だと思ったから。
響さんはひざまずいたまま私に縋りつき静かに涙を流した。
私達はただ無言で抱き合った……。
「結衣は俺の恩人なんだ……」
響さんは、ぽつりぽつりと結衣さんの事を話してくれた。
「俺が、まだ講師で本採用を目指している間……ずっと支えてくれた。……採用試験に受かるまで結婚も待っていてくれた……これからやっとあいつを幸せにしてやれると思っていたのにっ……」
響さんの悲しい気持ちが伝わって私まで胸が苦しくなる。
「響さん、結衣さんは幸せだったはずです。……結菜さんが言っていました。響さんにあんなに想われて不幸だったはずがないって。……私もそう思います。だって、響さんは、本当に結衣さんを、愛していたから……でなかったら、こんなに思い出に囲まれて七年も暮らせませんっ……」
私は泣きながら想いを伝えた。響さんがどれだけ結衣さんを幸せにしてきたのか、それを分かって欲しかった。結衣さんはきっと素晴らしい女性だ。響さんが今、児童と正面から向き合う先生になれたのは結衣さんの支えがあったからだ。そんな結衣さんを、先生は本気で愛していたんだね。本気で愛していたからこんなに長い間辛かったんだ。響さんの愛は深い。
……私は結衣さんがうらやましい。たった一度でいいから、こんなに深く愛されてみたい。その願いが叶う時は来るのだろうか?
だって、私が愛して欲しいのは響さんだけだから。……結衣さんにはきっと一生かなわないのに。
響さんが落ち着いたところで、ソファに座ってもらって部屋に用意しておいた常温のミネラルウォーターを手渡した。しばらくはコーヒーも控えなくてはいけないらしい。
病が完治するには半年から一年、食事制限が必要だと言われた。きっと響さん一人だけの力では乗り越えられない。もう、あんなに苦しそうに倒れ込む響さんを見るのはイヤだ。
「響さん……これからも私に響さんのお手伝いをさせてくれませんか?」
私は響さんの隣に腰かけて頼んだ。さっき、響さんは私を遠ざけようとした。……私の事を愛さなくてもいい。結衣さんの事を思い続けても。ただ……せめて近くにいることは許して欲しい。
「君は俺のそばになんていちゃいけない……本当にすまなかった。君は優しいから目の前で俺が倒れて放っておけなかっただけだ。弱っていた俺は無意識にその優しさに付け込んだ。……でも君は君を幸せにしてくれる人と一緒にいた方がいい」
響さんは、私を突き放す。
「君はいい子だ、すぐに君が愛するに値する人が現れるよ。こんな俺なんかのために君の大事な時間を使っちゃいけない」
「こんなってどういう事ですか? ひ、響さんは素敵な人です! そんなふうに自分の事を言わないで下さいっ!」
私は思わず大声を出してしまった。響さんは驚いた顔をしている。でも、我慢がならなかったのだ。響さんは自分の事が分かっていない。自分がどれだけ愛情が深く、素晴らしい人なのか、響さん本人が一番気づいていない。
そんな響さんだから私は好きになったんだ。
「私……私は……私は、響さんの事が好きなんです。好きじゃなかったらこんなに毎日会いたいと思いません!」
自分は愛される価値がない人間の様に思わないで欲しい。ここに響さんの事を思っている人間がいることを知って欲しい。そう、思ってしまった。
想いを告げる気はなかったのに。
気が付いたら私は泣いていた。涙がぽろぽろと頬をつたう。
響さんは、私に向き直ると、大きな手のひらで私の頬に優しくふれた。
「伊織……泣かせてごめん……」
親指でそっと涙をぬぐってくれる。
「俺も、毎日君に会いたかったよ……伊織が俺に会いに来てくれてどれだけ嬉しかったか。……いつも君に会えるのを心待ちにしていた。まるで君が俺の本当の恋人だと錯覚してしまうほど君は尽くしてくれたね。気が付けばこの二十日間、君の事ばかり考えていた」
私は響さんの手のひらに自分の手を重ねて目を閉じる。響さんの声が好きだ。優しく心に沁み込んでくる。
「あの朝、何も覚えていないって言ったのは嘘だ……結衣の命日に、一人になるのが怖くて君を帰さなかった。……すまない。どうして君だったんだろうって、病院で考えていた。……時間だけはあったからね。」
私は何も言わずにうなずく。
「君がいつも叱ってくれるのが嬉しかった、俺の書類が間に合わないと世話を焼いてくれたね。君にとっては単なる仕事できっと迷惑だったと思うけど……誰かに気にしてもらえることがとても嬉しかったんだ。……あの朝、買い物にでたら、今日は家で待っている人がいると思うと顔がにやけて仕方がなかった。自分がどれだけ人のぬくもりに飢えていたのか痛感したよ。体を気遣ってスープを飲むなって叱ってくれた君の顔を何度も思い返してた。入院中、気が付けば結衣の事を忘れていた……」
響さんの体が近づいて来たのが気配で分かった。瞳を閉じた私の耳元で響さんは告げた。
「伊織……俺はとっくに君に惹かれてる」
響さん!
私は響さんの広い胸に飛び込んだ。背中に腕を回してギュッと抱きしめる。
響さんも強く私を抱きかえしてくれた。
「伊織……この部屋……大変だっただろう? 仕事をしながら俺の面倒をみて、おまけにこんなに部屋を綺麗にしてくれていたなんて」
私は響さんの腕の中で首を横に振る。
「……勝手なことをしてごめんなさい……でも、何かしていたかったんです。響さんが退院してこの部屋に帰って来た時に喜んでくれたらいいなってそればかり考えてました」
「うん、うれしいよ……」
響さんの切れ長の黒い瞳がまっすぐに私を見下ろしている。次第に顔が近づいて来て瞳が細められたから私はゆっくり目を閉じた。
初めての口づけがあまりに優しくて、嬉しくて私はまた泣いてしまった。