6話 そ、そんなことを言われたら困ってしまうよ 顔から火が出そうだ……
「響さん」
定時に仕事を終えると急いで病院に向かった。面会時間は二十時までだから、少しは余裕がある。
「伊織」
響さんは私の顔を見るととても嬉しそうにほほ笑んでくれた。手には読みかけの文庫本。
「何を読んでいるんですか?」
「あ、これ? ミステリー小説。暇を持て余していたら同じ部屋の人が貸してくれた。今はもう名探偵が推理を披露中」
「響さんの推理はあたりました?」
「いや、見事にだまされたよ……」
響さんは苦笑すると本を閉じた。
「何か、必要なものとかありませんか?」
「ああ、それなら……」
響さんは少し言いにくそうにしている。
「実は髭剃りの」
「はい」
「充電が出来ない」
あ! しまった! 充電中の本体だけ持ってきてしまった……。コードを取りにいかないと。
「響さんの家からとって来ますね」
「悪いね」
「他にも必要なものがあれば言ってくださいね」
「うん……助かるよ」
とりあえず洗い物を持って帰ろう。私は折りたたんでいたエコバッグを鞄から取り出すと洗濯物を入れていく。その様子を響さんはじっと見ている。
「どうかしましたか?」
「ああ、いや、伊織はいい奥さんになるだろうなって思っただ……け……」
そ、そんなことを言われたら困ってしまうよ。
顔から火が出そうだ……。恥ずかしくって、真っ赤になった顔を見られたくなくて、私は早々に響さんの家に向かった。
エレベーターで十五階まで上がっている間は考え事をして気分をごまかす。だって……本当に高いところが苦手なの! それ以外の事を考えて気分を紛らわせたい。
響さんのマンションはオートロックなのに、あの日結菜さんは玄関のインターフォンを直接押した。……結衣さんが持っていたカギを預かっているのかな? それとも……過去の犯歴から響さんに逃亡の恐れがあると踏んで悟られない様に誰かと一緒にオートロックをスルーしたとか? 例えば宅配便の人と一緒に……? なんて考えていたら響さんの家の前だった。ふふっ、おかしい。響さんがミステリーを読んでいるなんて言うから、私まで名探偵気取りで推理してしまった……。
私はすっかり勝手知ったる他人の家と化した響さんの玄関のカギを鼻歌交じりに開けて中に入った。早速髭剃りのコードを取りに洗面所に向かう。
ふと、目に入った洗面台が汚れているのが気になってしまった。
ううう、ここだけ、ここだけだから。洗面台だけ掃除したらすぐに病院に戻ろう。
気になったら仕方がない性格はどうしようもないよね……。
しっかり洗面台を磨いてから急いで病院に戻った。
こうなると掃除好きの私は止まらない。毎晩、まずは仕事から帰宅して乾かしておいた洗濯物を持って病院にお見舞いに行く。それから響さんの家を訪れては気になるところを一か所ずつ掃除していった。
いやー、楽しい! 掃除のし甲斐がある! もとは素敵な部屋なんだもん。埃を払って、綺麗に磨いたらそれはもう素晴らしい空間に変身した。
この部屋の主がいないのがもったいない。
響さんの経過は最初は順調だった。三日間の絶食絶飲後、流動食から始まった食事はしばらくするとお粥になった。
「こんなにお米が美味しいなんて知らなかったよ……最近は何を食べても味がしなかったから」
そう言って三分粥を時間をかけて食べている姿がなんだかいじらしくてかわいい。大人の響さんにそう思うのはちょっぴり失礼かな?
「こんなにかわいい彼女が毎日洗濯した物を持ってお見舞いに来てくれるなんて本当に吉野君は幸せだねー」
ってすっかり仲良くなった隣のおじさんがからかってくる。
彼女ではないんだけどね……。
私は心の中で否定するけど、
「ええ、そうですね。幸せ者です」
って響さんが真顔で返すから私もおじさんも絶句してしまった。
……響さん、ホントに勘弁してください。
響さんの退院が決まった。ただ、当初二週間と言われた入院生活は二十日間も続いた。世間は今お盆休み真っただ中だ。夏休みも、もう半分が過ぎた。響さんは自宅での生活が恋しそうだ。そりゃそうだよね、全然一人の時間がとれない病院生活は落ち着かないと思う。響さん、良く頑張ったね。
私はすっかり保護者の心境だ。『退院の説明をしますので原さんも一緒に来てください』と担当の看護師さんに促されて当然の様に二人並んで先生の説明を受けた。
……私、一体何者なんだろう? 響さんにとって私って何? 私にとって響さんは?
……もう退院したらこんなふうに会う事もなくなるのかな? この二十日間、まいにち響さんの事を考えて楽しかったな……。
なんて感傷的になっていた私がバカだった。
「膵炎との戦いはここからが大事です。まずは禁酒、禁煙、暴飲暴食は絶対にやめて下さいね、あと油物も控えること。それから脂質を制限しないといけないからしばらくは外食は控えるように。あとは……」
病院で食事の世話をしてもらっていた間は大丈夫だったけど、あの響さんに自炊が出来るワケがない!
「ということで、原さん、頑張って下さいね」
笑顔で看護師さんに励まされ、
「は、はい……ガンバリマス」
と答えたけど……。どうしたらいいんだろう? 私、このまま響さんのお世話をしてもいいんだろうか?
退院の手続きを済ませて二人でタクシーに乗った。思っていた以上に荷物が多くて驚いた。
「原先生……今まで本当にありがとう」
響さんは私に向き直ると頭を下げた。呼び名が『伊織』から『原先生』に戻っている。
「本当に世話をかけてしまってすまなかった」
そんなこと言わないで欲しい。まるでお別れの挨拶みたいだ。
「……私……これからもお手伝いしますよ……」
私は何とか言葉を絞り出す。
「俺の病気は思っていた以上に大変みたいだ。……これ以上君に迷惑をかけるわけにはいかないよ」
響さんはそう言うと黙ってしまった。タクシーはすぐにマンションに到着した。エントランスから玄関まで私たちに会話はなかった。
私は後ろからついて歩きながら気が付いた。
今、こんなに息がしづらくて、気持ちがぐちゃぐちゃで、心臓がしめつけられそうに苦しいのは……響さんの事が好きだからだ。
私は……響さんの事が好きなんだ。