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問題篇


綿貫(わたぬき)さんは、俺が前に住んでいた地域の町内会で会長を務めているんだ。俺自身は町内会とは殆ど無縁だったんだが、綿貫さんには色々と世話になって今でも懇意にしているというわけさ」

 蒲生に紹介された老人は、ソファ椅子にちょこんと腰掛けたまま、額がテーブルにくっつきそうなくらいに碓氷に向かって深々と頭を下げた。

「蒲生くんがいつもお世話になっているそうで。何卒よろしくお願いします」

「ああ、いえ。こちらこそ、よろしくお願いします」

 碓氷も慌てて頭を傾ける。まるで男女の初々しいお見合いみたいな光景だ。もっとも、綿貫は来月にも傘寿を迎える立派な老翁なのであるが。

「で、ここからが本題だ。最近、綿貫さんはちょっとした問題を抱えていてな」

「問題?」頭を元の位置に戻す碓氷。

「そう。町内会会長の綿貫さんとしては、放っておくことのできない事件が起きているのさ」

 事件、のワードを耳にして、碓氷は僅かに顔をしかめる。数ミリ単位の微々たる変化だが、大学来の仲である蒲生が見逃すはずもない。早口に付け加える。

「綿貫さんから相談を受けてな。世話を焼いてもらった俺としては、聞かぬふりもできないわけさ。それになかなかお前好みの謎だぞ」

「別に、僕は好きで蒲生の話をいつも聞いているわけじゃ」

 言いかけて、碓氷は口を閉ざす。友人の目が「その先は黙っとれ」と切実に主張しているみたいだった。

「じゃあ、綿貫さん。ぜひ碓氷にも話してみてください。きっと素晴らしい解決案を導き出してくれるはずです」

 芝居がかった口調で蒲生に促され、綿貫会長はゆっくりと頷いて語り始めた。

「先日、町内に住むある男性からこんな話をされましてね。『夜道を自転車で走る人物を見かけたのだが、その人物が()()()()()()()()自転車を漕いでいた』と」



 この奇妙な自転車乗りについてお話しする前に、私ら町内会が抱える問題について触れておかなくてはいけません。一ヶ月ほど前からです。私ら町内会の管轄する地域で、夜な夜な不審な人物が目撃されているのです。黒っぽいパーカーに同じく黒っぽいズボンと、全身が闇に溶け込むような服装で、夜道を一人でうろうろ彷徨っているというのです。刃物を持っているとか、誰かを襲ったとかいう話は、幸いまだ聞いておりません。ですが、そうしたことがいつ現実に訪れるとも限りませんので、住民たちは怯えているわけです。複数の目撃情報をすり合わせるに、少なくとも一週間に二、三度は住宅街の中を徘徊しているようです。

 では、この不審人物と自転車乗りが何か関係あるのかといいますと、正直なところまだ明確な関連性はあるとは言えないのです。

 先日、町内に住むある男性が私に電話をかけてきました。ここでは名前は伏せておきますが、仮にAさんとしましょう。Aさんがいうには、こういうことなのです。

 つい一週間前、Aさんは仕事に向かうため夜の八時頃に家を出ました。彼は、警備会社で働いておりその日は夜の勤務でした。住宅街の夜道を運転しており、ふと視線を逸らしますと、その視線の先に自転車に乗った人影を見ました。それだけならば何も不思議なことはないのですが、問題はその人影が()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ということです。Aさんは車を運転していましたので、いくら人通りの少ない夜の道とはいえ、自転車乗りを見続けるわけにもいきません。結局、奇妙な自転車乗りを目撃していた時間は五秒にも満たなかったといいます。

 その一度だけであれば、Aさんもわざわざ私に電話することなどなかったでしょう。ええ、実はAさんは、その奇怪な自転車乗りをもう一度目撃したのです。やはり、仕事に行くため夜の住宅街を車で走っていたときでした。ハンドルがある方向に対して後ろ向きに座り、緩やかな坂道をすいすい自転車で登っていく、奇妙な自転車乗りを見たのだと。

 Aさんから聞かされたこの話を、私は町内会の役員たちに打ち明けました。彼らはこぞって『そいつは昨今町内を不安に陥れている不審人物ではないのか』と主張するのです。嘘か真か定かでない噂はいつの間にか住民たちにも伝わり、『後ろ向きに座り自転車を漕ぐ不審者』が我々の抱える厄介な問題となっている――こういうわけなのでございます。



「な、奇妙だろう。サドル部分に後ろ向きに座って自転車を漕ぐ人物」

 蒲生は両目を爛々と光らせて対面の友人を見た。財宝の山を前にして舌なめずりする海賊みたいに。

「その自転車乗りが、パーカー姿の不審者と決まったわけではないのでしょう」

 碓氷はあくまで冷静に告げる。綿貫老人はこくりと首を縦に振り、

「自転車乗りを目撃したのは今のところAさん一人だけですし、彼の見間違いだったと言えばそれまでです。何しろ夜分の出来事ですからな。しかもAさんは車を運転しており、自転車乗りを見ていた時間は二回とも長くて五秒ほどだったと話しています」

「実際問題、後ろ向きで座って自転車を漕ぐなんて芸当はできるものなのか」

 これは蒲生に投げられた問いである。

「俺もそう思って、動画サイトで探してみたよ。案外あっさりと見つかったぜ」

 ジーンズの尻ポケットからスマートフォンを取り出した蒲生。某有名動画サイトで「自転車 バックライド」と検察窓に打ち込むと、複数の動画がヒットする。その中の一つを再生してみた。

「確かに、意外と簡単そうにやっているな。後ろ向きに乗ることをバックライドというのか」

 再生動画に目を落としながら呟く碓氷。

「ああ。バックライドの場合、サドルではなくステム(左右のハンドルを繋いでいる中央のパイプ部分のこと)に尻をのっけて漕ぐみたいだ」

「はあ。今時の若者は器用ですな」

 綿貫老人は感心したように漏らす。碓氷は苦笑しながら、

「今時の若者が器用なのかは分かりませんが、少なくとも可能性としては充分なわけだ。つまり、その人物は実際に自転車を後ろ向きで漕いでいた」

「しかし、どうしてまたそんな乗り方を。運転しづらくはないのでしょうか」

 尤もな疑問を呈する町内会会長。蒲生はパチンと指を鳴らすと、

「分かった。そいつはきっと大道芸人っていうのか、そういう芸を身につけた人物なんだ。だから、自転車を後ろ向きに漕ぐなんて朝飯前だったのさ」

「綿貫さんのご近所に、そんな芸を持つ人間が住んでいるのですか」

 碓氷に問われた老人は、驚いたように首を振る。

「いいえ。私が知る限りは聞いたこともお会いしたこともありません」

「あ、芸人といえばな。実は綿貫さんもちょっとした芸ができるんだよ。ですよね、綿貫さん」

 蒲生はにこやかな笑みを浮かべながら老人を見やる。当人は少しばかり焦ったように、蒲生と碓氷へ交互に視線を送っていた。

「綿貫さんはな、人形を使って腹話術ができるんだ。俺も一度だけ見たことがあるんだが、人間の背丈ほどもある大きな人形を巧みに操ってちょっとしたコントを披露するのさ。これが結構面白くてさ。人形も本物の人間みたいに精巧な作りで、本当に二人の人間が漫才しているみたいなんだ」

 すっかり薄くなった頭髪を梳きながら、綿貫老人は恥ずかしそうに俯く。

「大したものじゃありませんよ。老後の暇つぶしみたいなものです。時たま町内のイベントで行う余興みたいなもので」

「そんな。暇つぶしで腹話術なんて誰でもできることじゃありません」

 碓氷としては珍しいほど素直に賞賛の言葉を送った。彼が他人を褒めるということは、沖縄県が豪雪に見舞われるくらいの確率なのだ。

「結局、Aさんが目撃したのは本当に自転車を後ろ向きに座りながら漕ぐ人物だったのでしょうか」

 話を元に戻す綿貫老人。蒲生は顎を擦りながら、

「それにしたって、なぜ夜道をバックライドで走っていたのかという動機が謎だな」

 碓氷は蒲生のスマートフォンでしきりに動画を再生させながら、

「バックライドのほうが普通に乗るよりスピードが出る、というわけでもないよな。いくら芸として身についているといっても、非効率な乗り方には違いない」

「じゃあ、あれだ。そいつはバックライドを練習していたんだよ。きっと、近々どこかで一芸をお披露目することになっていて、人目につかない夜にこっそり特訓していた」

「いずれにせよ、不審人物と自転車乗りの関連性は不明瞭だな」

 腕を組み背もたれに凭れかかる碓氷。蒲生は友人から綿貫会長に視線をスライドさせると、

「その不審人物のことは、警察に相談していないのですか」

「ええ。不審者とはいっても、ただ住宅街を夜に歩き回っているだけではね。町内会の中でも『警察に届けるのは時期尚早なのでは』と渋る声もありまして」

「しかし、実害が出てからでは遅いでしょう。それはそれで、どうして早く届けていなかったのかと後から非難されかねませんよ――いや、もしかするとすでに犯罪は実行されているのかもしれない」

「ど、どういうことでしょう」

 蒲生は両目に鋭い光を宿して、

「自転車乗りの人物は、別の人物と共犯である企みを行っていたのです。たとえば、もう一人の共犯者が実行犯で、どこかの家に空き巣に入っていた。自転車乗りは、実行犯がターゲットの家から去るときに、仲間が万一住民に目撃されることを危惧してわざと奇妙な乗り方で自転車を漕いでいた。徒歩で逃走する実行犯から住民の注意を自分に向けさせるために」

「あ、空き巣? そんなことが、私たちの地域で」

 慌てふためく老人を、碓氷がやんわりと宥める。

「ご安心ください。蒲生の面白くもない冗談ですよ。彼は犯罪ものの小説や映画が好きで、四六時中その類の虚構妄想に余念がないのです」

 胸をなでおろすように息を吐く老人を尻目に、碓氷は友人をじとりと睨む。世話になった彼を困らせてどうする、と咎めるような目つきだった。

「じゃ、じゃあこんな話はどうでしょう。自転車乗りの人物は、近くの家で飲んでいた若者集団の一人で、宴会の余興で何かしらの賭け事を行っていた。その賭けに負けた人物が、罰ゲームとして何か一発芸を見せろと言われ、持ちネタである自転車でのバックライドをやってみせた。ね、これなら犯罪でも何でもない」

「しかし、私たちの住む地域は夜間の騒音騒動に煩くてねえ。夜遅くにドンちゃん騒ぎをしていれば、近隣住民から苦情が入りそうなものですが」

「そのような苦情は聞いていない、と」

 老人の頷きに、蒲生は残念そうに肩を落とした。

「やはり、自転車乗りはAさんの見間違いだったのかもしれません。彼以外の目撃証言はないわけですし、パーカーの不審者が突然奇妙な自転車の乗り方をする理由もないでしょうから」

 綿貫老人は、喫茶店の窓に視線を投じる。うっすら臙脂色に染まり始める空の下で、人々が帰り路を急ぐようにアスファルトの道を足早に行きかっていた。

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