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神話と騎馬民族2

 明確に細切石器文化の流入が大陸からあり、これを伝えた系統がバイカル湖起源のC2系だといわれていたが、だがそれはどうなのか?と思えてきた。系統的に対馬海峡が出来る前でかなり古くなるので日本でもっと分岐していてもおかしくないのもある。日本固有のC2Aならそれに相応しかったのだが、どうも新しいデータでは疑わしくなってきた。縄文人が半島で暮らしていたとの話しもあるので、そこから玉突き式に伝播しただけじゃないか?と思えてくる。C2Cの分岐年代が分からないとなんとも言えない話だ。


 現在モンゴルに高い頻度でC2b系が存在するが、同時に歴史的に東北部海岸部に女真の前身である民族が暮らしたとある。それゆえおそらく、アムール川から東と西で別れたグループで別系統なんだろうなと推測できる。歴史ではハプロは分からないが、さすがに大きな民族を形成するほど移住してきたなら何か残ってるはずである。そういったものが一切無いので土着のシベリアツングースグループが別れただけだろうなと。


 騎馬民族化したのはそれほど難しい話じゃなくて、東湖や夫余と言う騎馬民族の支配層の影響になるが、その夫余はどこから?となるからややこしくなる。隣国である女真はこれに影響を受けたと見てる。またはかなり後の時代まで出てこないので匈奴、遼によっての可能性も高い。


 元々伝統的に日本の縄文人を含めて東海岸は弓を扱うのに長けた部族が多かった。それゆえ弓という部首を含んだ東夷と呼ばれた。騎馬民族の特徴に騎馬による弓を扱った戦闘スタイルがあり、弓を扱うツングースは騎馬民族化しやすかったと見てる。後牧畜を営んでいたため、そこからすぐに変化しやすかったと見ている。おそらく女真はモンゴル高原からの移住ではないと見てる。


 ハプロは下位系統までしっかりしめしたデータが無いとこういった勘違いを起こすケースが多々ある。東と西でC2Bはある程度区別付くのではないか?と見てる。データを見ないと分からないけど。


 日本にいるC2C系は騎馬民族文化をもつ末裔として入ってきたのか?それともただの半島土着の混血民族としてO1B2と入ってきただけなのか?は良く分からない。


 縄文時代にC2Cは来てなかったってのは、ちょと極論すぎたけど、縄文時代に来たC2Cと弥生時代に来たC2Cを区別するのは無理だと思う。ただ日本に多くて分岐年代が古い昔C3Dと識別されていた系統はひょっとしたら区別できるのかもしれない。MDNAからバイカル湖が故地の1つであるのは確かだとなっていて、それは弥生以前からすでに一致データが得られている。それを考えるとD系から混入は考えにくいので、C2Cが入ってきてないのはおかしいとなる。


 正確には身長の高い縄文人は居たことになる。数が少なかったんだろう。ただし、氷河期前後でまだ北方適応が完了してない。インデアンがそうじゃないのを見ればすぐ分かる。あの時代に移動したC2B系もQ系と南下した北米インデアンに関しては北方適応した形質ではない。イヌイットなどは完全に北方適応している。


 その点身長の高い形質変化は北方適応としてどこでも起こる変化なんじゃないか?と思う。コーカソイドも南と北でそういった傾向がある。


 南北で人種的に交じり合ってない調査はなされていて、九州は極端に弥生人の混入で形質の変化が起こったのではないか?と考えられる。このデータが富山の小竹貝塚のものなのでちょうど日本の中間ぐらいなので九州だとかなり違うだろうと予想できる。


 異説として大陸から女だけさらってきた縄文人って言う説がある。特に関東の大陸由来のMDNAのバラエティーの豊かさは他の地域と較べて異色。弥生人がすでに来ていたのでは?と思うほど現代日本に近い豊富さ。そっちよりは弥生時代と区別が付かないC2Cが海で閉じる前に来ていたのでは?と言う方がマシな考えだとは思うけど、真相は分からない。ハプロでは父と母の系統がそっくり入れ替わってしまうってのが良く起こる。


 私が見た日本のデータはC2C1と言う系統をひとまとめにしてて、ちゃんとしたものを見れば内訳が乗ってる可能性がある。一応それらしいものとして、日本のC2C1は元である分岐のないC2C1と言う系統が発見されている。これは先ほど書いた過去のデータではC3Dとされていたものに当たる。これは中国や半島に多い系統の古い分岐になる。


 この%がそれなりに高いならと、これが北方に偏ってるなら縄文系と見ても良いかとおもう。それと言うのもこれは北方から入り込んだ集団がいて、この集団が東縄文系と西縄文系のMDNAの違いを生んでいると見てるから。尤も先ほど書いたように対になるY染色体がなく大陸からD系が女性を単独でさらってきた歴史があるなら別だけど。ただC2C系を縄文弥生と時代で区別するのは難しいとの言及もすでにある。


 訂正:高麗と高句麗を間違えていた。高句麗はやはり夫余族の王家で間違いないようだ。これはとんだ勘違い。そうなると素直にC2Cの王族の末裔が日本やって来た事になる。ただ、もう縄文系のC2Aって話がどうやらデータが古い時代の謝った考えとなり、難しくなってしまったので、普通に弥生人としてC2Cは半島から渡来して入ってきてる可能性がある。


 後から来たのじゃないのか?ならずっと書いてきてるように、ツングース=C系=騎馬民族ってのは後世の歴史からで、そもそもモンゴルもツングースの出で狩猟を営む民族でモンゴル高原じゃなくて中国東北部に居たようだ。昔から騎馬民族をやってるのはトルコ系になる。あと遼の契丹人。匈奴はQが中心だったがおそらくCやOに摩り替わってしまたっと見てる。後は主にO2系の鮮卑。


 後の時代で大活躍する騎馬民族モンゴル、満州は当時は東北部で狩猟生活をしていたようだ。C2Cはそこから中国や半島と言う南下した部分で暮らしていた狩猟民族のようだ。もっと言えばC2Bが北上して、C2CはC2の故地である沈んだ黄海からあまり動かなかったようだ。


 C2Cの古い系統が中国南部まで広がっていて、南下したのではなくて、逆にC2Bが北上したのが手に取るように分かる。


高句麗と高麗を勘違いして書いてしまいましたが、ひょうたんからこまで、高句麗滅亡後日本に渡来した王族の子孫のハプロ中国人のO2系でした…。


歴史上百済と同族といわれていて、何故系統が違うのか?大いにに疑問があります。そしてその疑問は私だけじゃなくて、歴史考古学の人皆疑問に思ってるようです。ただ日本人に摩り替わってしまったなら、O1B2、D1B系になるかと思います。都合よくそれなりの数居ますが中華系だったのは、向こうから何かあったんだと思います。


ベタな父系血統主義の系統のはずなので、疑問はありますが、母系で同族ってのもありえなく無いです。所詮他国の王族ですからね。


ただ中国人じゃないと思います。ベタなハプロじゃ無いので、東北部の先史時代からいるO2系だと見ています。ツングースは元々O1、O2とC2の連合で、騎馬民族化した後も支配者層からはO1B2が抜けるだけです。配下の部下あたりにはごろごろしていたと思います。


ただ父系同族ってのに疑問を持つ部分が出来ました。中国の東北部を歴史的に中国だと正当化しようとする流れがあって、高句麗は中国系って歴史観もあるようです。高麗は実際そうですし。ただその割に征服しようと何度も部隊を送ってるのは中華民族?ってのに疑問を覚えますけど。


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