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ツングースとO1B2

 さて藤原家の話しに戻ろう。5000年前の縄文時代にO1b2は見つかってない。おそらくそれ以降か?特殊な地域でこっそり増えたものだと予想できる。藤原家の謎として鹿島からやってきたという話がある。縄文人じゃないか?となってしまう。なのにC系やD系じゃない。その起源を調べると、全国各地に船を使ったネットーワークがあり、特に房総半島は有名な地域で数々の古代豪族が西から船でやってきた話が残っている。


 阿波(徳島)忌部氏も房総半島にポツンと切り離されて存在している。これもその系統になる。明確な歴史記述ではない。ただこれだけ様々な豪族が唐突に房総半島にたどり着いてるのを見ると、船で移動する時当たり前に行く場所だったのではないか?と見ている。


 藤原家は過去のいろいろな船海に関する資料がある。船、漁業、稲作。これらをセットにして広がった豪族の1つの氏族だと見ると古代王朝でポツンとD系の中に混じったO1b2系統の謎が解けてくる。


 O1b2は渡来系弥生人ではなく、土着の漁業を中心とした縄文時代から居た系統じゃないか?と見てる。その時期がいつなのか?と言うと縄文人のY染色体ハプロが調べられてない5000年前以降じゃないかと。


 日本の陸稲はどうなのか?はややこしい話しになる。古すぎる。5000年前以上になってしまって日本にすでにO1b2が発見されてもおかしくない。問題は、陸稲の開始を早くみつもりすぎてる誤解がまだ含まれてる点。これは批判も多くて、まだまだ不確かなので、日本の陸稲はまだまだ年代が近くなる可能性を持ってる。日本の陸稲も彼らが持ってきた可能性も無いとは言えない。


 ただしいくつか問題がある。インドネシアとベトナムの分布が高すぎる。江南のグループが南北に分かれたと言う説の方が説得力がある。戦国時代に東南アジアにわたった武士の子孫だって話もあるがD系をともってないのとちょっと多すぎる。中国東北部が起源だとするとここがおかしい。ただ満州で、陸稲栽培と漁労を営んでいたグループがこれだとするとすっきり説明が付く。


 中国東北部土着の問題はここが一番大きい。ただかなり地元の東北部の種族と混血が進んでいた可能性は高い。ある意味土着化していたというのは本当だと思う。これは弥生人のMDNAは良く分かってるため、そこに北方要素が強すぎて江南からの純粋な移住者というのに疑問が沸くから。それに日本語のなかにあるアルタイ語系の部分も上手く説明が出来る。


 ただO1b2=渡来系弥生人の問題はいつ渡来したか?が稲作と同時なのか?がY染色体的には分からない点。骨が変わってMDNAに変化があった点。これについてはO2でも同様な現象が起こるため、O1b2=渡来系弥生人とするには疑問がある。


 O1b2が江南から水田稲作と一緒に直接移動してきた。これがどうなのか?に尽きる。半島と日本でO1b2が水田に深く関わってるのは間違いない。


 ただし、東南アジアのO1b2はあまり高くないデータもある。どの系統なのか?分かれば、まだ分化の初期のO1b2の系統があり、これなら分からなくも無い。O1b2の集団と、低頻度の初期のO1b2を含むO1b1が南北に分かれたと言うケースも考えられる。江南に大きなO1b2集団があったわけじゃなくて、大きく発展したのは中国東北部だといえなくも無いから。こういう場合江南起源だと言って良いのか?分からないのと、水田稲作を持ってきたか?も疑問になる。水田稲作の北限の問題のため。


 中国東北部土着の問題で仮にツングースとの混血民族だとしたらC系があまり居ないのが気になる部分。この点NとCの密接な関係から主要ハプロはNだった可能性がある。徳島に妙なN系が存在するのがこれで紐解ける。このあたりはあまり重要ではない。何故南方語族の民族のツングース系に代わってしまったのか?を紐解くと混血と言う形が自然だからに過ぎない。弥生時代にアルタイ系言語の集団が入ってきた可能性があるから、それが根拠になっている。


 刻目突帯文土器が水稲と密接な関係あるとされてるが、多分これがややこしさの元になってる。これは実際はロシアにある沿海州って地区から来たのではないか?と言う予想がされている。古来から出雲は大陸と直接交易していた話がちらほらある。出雲と北九州は同様ぐらい重要。この出雲から刻目突帯文土器は広がったのではないか?とされている。


 朝鮮からなら北九州がスタートになってもおかしくはない。でも順序はおそらく出雲から広がっていく形になってる。北九州はおそらく直接朝鮮から学んだものではないか?といわれている。ただこの場所が問題。詳しい場所が分からないのだが、海岸部じゃなくて内陸部だったと言う話しになってる。ここは分からない一部海岸部と接している場所があったのか?否か?これが分からない。


 こんな北から水田稲作が来るのはさすがに無い。彼らも縄文人同様水田稲作を後から学んでは無いか?と予想してる。ただ元々江南にいた系統なのでここが良く分からない。陸稲から米の魅力を知っていて、水田に魅力を感じて移行したか?となる。縄文人がもろこれだから。元々米と係わり合いが深い民族だったのか?と考えられる。


 稲作の起源と発展は別なのじゃないか?と言う事になる。江南からの水田を取り入れた東北部土着のO1b2が独自発展させ、これを縄文人とともに日本でさらに発展させてたのではないか?となる。また文化の継承が見れるので同じ元南方生まれの漁労民であるため、江南人との混血によって民族的にどうかしてしまったのではないか?と。これなら日本語に南方の影響が奇妙なのが理解できる。


 単語レベルは南方系が多いが文法などの軸はアルタイ系って奇妙な言語体系が縄文と弥生の混血の前にすでにされていたのではないか?と言う事。


 江南からの移民があったのは事実で稲の遺伝子もそうだろう。問題は渡来人の一部でしかなかったって点で、大半は朝鮮南部の土着のO1b2だったのではないか?と見てる。実際江南由来っぽいハプロが一部ある。来なかったより一部だと考えるとすべてがすっきり筋が通る。O1b2との混血、直接、どっちでもあくまで渡来人の一部でしか無いって点。


 混血なら江南人の末裔だと自称するのも納得できるから。江南からの問題があって、金属器の扱いに長けてないといわれていて、これが沿海集団の基層なのではないか?と見てる点。高い温度を必要とする土器の作成と金属の生成には密接な関係があり、朝鮮半島で水田は独自の発展をしたのではないか?と見てる。


 ただ金属精製自体は当然戦国時代を経ていた江南は高い技術を持つ。これを水田農業に生かすとなると江南から学んだという発見が無いらしい。これは詳しくは無い。水田稲作が朝鮮に伝わった時期と後の時代は段々乖離してくる時代になるから。これが日本が朝鮮とともに水田が発達した何よりの証拠で、江南から直接すべて伝わったのはおそらく無いって根拠になっている。江南より朝鮮の方がすべての水田に関係する物が近いから。


 全く関係ないは無い。一部の遺跡で朝鮮がすべてだとすると辻褄が合わない異色の遺跡があるから。ただ数が多くないのがまた全体の中では江南の直接ルートは影響が少ないって話しになる。


 ただ日本とのタイムラグはとても短いと見てる。彼らが早い段階で日本に入ってきてる可能性があるから。数が多くなりすぎて遺伝形質を変えてしまったのじゃないか?と見てる。その時期と初期の沿海からの直接の渡来はずれてるのじゃないか?と見てる。


 骨の形質からはハプロに何が入っていても分からないから。


 江南の農具に関しては製鉄技術が遅れていたわけじゃない。むしろ中国が朝鮮に教えてるので全く逆だし、しかも江南が製鉄技術の先進国だった。これは当時半島南部の鉄生産が深く関わってると見てる。これに日本も深く関わったので、重要な部分。ただし弥生だ縄文だといわれるような時代の話じゃない。他にも様々な水田稲作の発展と関わっていて、そのせいが大きい。


 これに関しては乾田化の歴史が大きく影響を与えていて、これが多分江南から伝わったわけじゃないんだと思う。ここは深く調べないと分からない。多少違いがあるのは気候的に朝鮮南部の方が日本の九州と似てて自然と両者で共通して独自の発展としたと見てる。しかも古墳時代辺りになる。


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