黎明独り
今後、貴方の目はどんどん色を認識できなくなる。
はじめはぼやけるように、後々に、すべての色が混ざった黒だけに。
今日の天気を告げるような自然さで、白衣の老人の口から発せられたのは爆弾だった。
そして続く衝撃は、画家である彼女にとっての死刑宣告に等しかった。
僕は口を一文字に引き絞り、彼女は「えっ」と呟いたきり。二人は揃って物言わぬ彫像となった。
少し、物が見えにくくて。そう数日前に相談してきた彼女に、もしかしたら何か病気のサインかもといって病院に来ることを説得した僕ですら、その爆弾は余りに唐突だった。
沈黙の重さの上を、医師の言葉が上滑りしていった。
きっとこれはストレスによる一過性の症状だと。
根気よく治療すれば、きっと治ると。
原因不明。そんな言葉を覆い隠す為に、できる限り耳あたりのいい希望を口にして。
帰り道。無理に笑う彼女がどこまでも痛々しく、その日から僕は彼女の眼をまっすぐ見ることが出来なかった。
掛けるべき言葉も見つからず、キャンパスを前にして憔悴していく彼女。
気分転換に外に、なんて。外に出てしまえば、それこそ彼女を追い詰める漆黒の現実が広がっている。自然、彼女は部屋にこもりきりになり、味気ないと言って食事すらとらなくなっていく。
気を紛らわせるための僕の笑い話も、道端であった感動した話も。彼女は反応すらしなくなっていく。
だから、僕は悪魔に手を出した。
「新しい薬が手に入ったんだ」
そういって期待することにすら疲れた君に、真っ赤な錠剤を薦めた。
その一錠は、劇的だった。
たった一回の奇跡で、息を吹き返す様に彼女の笑顔がほころんだ。
世界が輝いて見えるのと。大輪の花が咲き誇るように彼女は僕に話した。
一錠ごとに、砕け散った彼女が戻っていくのを確かに感じた。
一錠ごとに、彼女は僕を認識できなくなっていった。
彼女に一錠渡すたび、彼女は色を取り戻す。
色を取り戻している間、彼女は僕のことを少しずつ忘れてしまう。
新しい薬だなんて、ずるいいい方をしてごめん。
本当はこれは病気を治す薬でもなんでもなくて。
脳に働きかけて、その人にとって大切なもの同士を入れ替えるだけの薬なんだ。
黒く染まっていく対象を、世界というキャンパスから僕という布地に変えてしまうだけなんだ。
薬の作用で、僕という存在は少しずつぼやけて、黒く塗りつぶされて、ただのノイズになっていくだけの、とても簡単な薬。
君の世界が真っ黒になるのではなく、僕が黒く染まって世界から消えていく。そうなるように、意図的に偏らせた薬。
分かってたんだ。君が僕を忘れていくことを知ってしまえば、例え死んでしまうとしても、飲んでくれないことは。
分かってたんだ。絵を喪った君が、この世界で生きていけないことは。
騙し討ちしてごめん。僕を忘れていく君を見て、泣くほど後悔してる。
そして新作おめでとう。これで今度の大会も優勝間違いなしだ。
そしてあの時、目を見て励ましてあげることが出来なくてごめん。
絵を喪う絶望で壊れてしまいそうな君が怖かったんだ。触れただけで壊れそうな儚さが。
だからさ、時折何かが足りないことを思い出して泣かないで。
黒のノイズは、静かに君の傍にいるから。君がいつか治るまで。