書物博物館
薄暗いホールで待っていると、四角く切り取られた光が不意に飛び込んできた。
「いやあ、遅れてすいません」
入ってきたのは大塚准教授である。丸メガネに丸い顔、体格も丸い我らが研究室の長は、資料を小脇に抱えて人懐っこい笑顔で挨拶した。
「少し受付で手間取ってしまいましてね。それでは今日の授業――、書物博物館の見学を始めましょう。江守君、レジメは?」
「もう配布してあります。こちらは先生の分です」
私は先生に授業のレジメを渡す。ありがとう、とレジメを受け取り、先生は左手にある扉に向かった
「それでは皆さん、私の後についてきて下さい。途中で解説も挟みながら順番に見ていきます。レポート課題もあるので、しっかりとメモを取るように」
先生が笑いながらそう言うと、講義を受けている学生たち少しがざわついた。大方、周囲の友人達に「レポートあるのかよー」「まじかー」とやる気ないアピールをしているのだろう。シラバスすら読んでいない学生を尻目に、私は集団の最後尾についた。
ティーチング・アドバイザーである私は先生の授業に参加しなくてはならない。レジュメを配布したり、学生からの質問に答えたり、その他、先生の手伝いをするためだ。多くの大学の授業にはティーチング・アドバイザーがつき、それは大抵、授業を担当する先生の研究室に所属する大学院生が引き受ける。だから私は、こうして先生の授業に付き添っている。
扉を抜けた先には不思議と様々な展示物が並んでいた。ガラスケースには書物というより、木や石、粘土、絹といった自然物が展覧されている。順路の案内には《古代》と書かれていた。
先生は手を挙げてみんなの注目を集める。
「皆さんは書物と言われてどんなモノを想像するでしょうか。多くの人は紙を紐か何かで綴じたモノを思い浮かべると思います。辞書的な意味では確かにそれを書物と言って良いでしょう。広辞苑には《文字や図画などを書き、または印刷して一冊に綴じたもの》と書かれていますから。しかし、君たちには作家であり起業家であり平和活動家であったポール・オトレによる定義を知っておいて貰いたい。曰く書物とは《ある知的予見を表す符号をその上にしるした、臨機応変に折りたたんだり巻いたりすることのできる、ある材料とひろがりからなる一つの支え》である。辞書の定義よりもかなり一般的ですね。そのことを念頭に入れて順路を見て行きましょう」
先生はそう言って、順路に向かって歩き出した。少しざわつきながら学生の集団は先生の後に続く。私は訝しながらも、授業を妨げる訳には行かないので黙ってその後についていった。
順路には古代の様々な《書物》があった。木や石に描かれたよく分からない動物の絵、壁画、エジプトで造らえたパピルスや、メキシコのマゲイの繊維を編んだ薄片もある。地域にはばらつきがあったが、一応年代順に並んでいるらしい。スチキア人がダリウスに送った五本の矢や、シナ文字が刻まれた亀の甲、木の板を刳り抜いて蝋を詰めたメモ帳に、アニのために造られた死者の書もあった。
様相豊かな書物の他には、当時の社会と産業、それに即した書物の流通の様子が描かれていた。テキストを写しとる奴隷や、賃金を貰ってそれを行う筆生がいたようである。
順路に沿って進んでいくと、次の区画は《中世》であった。
「古代の書物は自然物が多かったけれど、紀元後の数世紀でその様相は大きく様変わりします。紙の廉価とその普及とが大きな要因ですね。東洋で発明された紙はだんだんと簡単に造られるようになり、それが広く世界に普及しました。もっともそれには多大な時間を必要としたので、日本には推古天皇の七世紀、アラビアには八世紀頃に伝わったとされています。
また、それまで手写だったり、刷毛だったり、木版だったりしていた工程は、十五世紀に入ると機械による印刷に取って代わられます。ヨハネス・グーテンベルグの活版印刷術ですね。それでは細かいところを順に見て行きましょう」
先生は再び歩き出し、続いて学生がそぞろに続く。
私はこの分野の通り一遍の知識は既に持っていたので、最後尾からゆっくりと展示物を眺め歩く。
完全な形で発見された最古の刊本である『金剛般若羅蜜教』や、赤い皮紙に金と銀の文字で書かれた『銀本』、『イリアス』の五十二葉に『創世紀』の断片、キリシタン版の『平家物語抜書』と、様々な地域の書物がところ狭しと並んでいる。
「あの、すいません。説明文の意味がちょっとよく分からないんですけど……」
前方で学生が挙手をしていたので、私はそちらに歩いていく。
見るとそこには『白氏六帖事類集』があった。
「『白氏六帖事類集』ですね。選者が白居易の類書――、百科事典のようなものです。唐時代のものですけど……あれ?」
と、そこで私は首を傾げた。書物の説明文が旧字で書かれていたのだ。これでは読みづらくて仕方ないだろう。
「どうしました?」
そこに柔和な笑みを浮かべた先生が現れた。
「先生、説明文が旧字で書かれているようなんですが……」
「ああ、それはわざとですよ」
「え? 意図的にそうしてるんですか?」
「そうですよ。気づきませんでしたか? 他の解説も全て旧字です。これくらいすぐ理解できないと、古書なんて到底読めませんからね。その訓練だと思って下さい」
笑顔を絶やさずに先生は言う。
「はぁ、分かりました」
学生は無表情にそう言うと、そのまま次の展示物へと行ってしまった。
「おや、解説は理解できたんですかねぇ……」
「……少し厳し過ぎませんか?」
「そうでもないですよ。日常的に必要だと思わないと、身につきませんから。さあ、少し遅れていますからね。ちょっと急ピッチで進みますよ」
そう言って、太い体を揺すりながら先生は早歩きで行ってしまった。学生に軽い同情を覚えつつ、溜息をついてその後に続く。旧字の速読、即解の授業は別途行い、今は授業内容の理解を優先すべきだと思うのだが、どうも先生はそう考えてないらしい。
書物の時代は近代へと移る。
「この時代より、書物の普及は飛躍します。専制君主制が崩壊し、印刷への制限が解かれ、エリートのものだった書物は瞬く間に民衆へと広がります。印刷会社の数が増え、新たな印刷機が据えられて、たくさんの人が出版に従事し、新聞、小冊子、パンフレットといった書物が世間に溢れました。大量生産の時代になったのです。資本主義の台頭がこの契機と言っても良いでしょう。
……はい、何ですか? ふむふむ。書物を印刷する機械じゃなくて、もっと書物それ自体のことを話して欲しいって? なら詳しく話して欲しい本があったら、後で教えてください。多分、君の十倍はそれについて話せますよ。
皆さん、書誌学は知ってますか? 書物それ自体を扱う学問で、内容ではなく、書物の素材や、装飾、成立に伝来を研究するのです。それらの知識を踏まえて読むと、より深く書物の内容を呑み込めるようになるんですよ。これがもう楽しくて、愉しくて。この愉しさは体験しないと分かりませんよぉ」
ふぁっふぁっふぁと我らが師匠は笑う。太りすぎて笑い声もまともに出せなくなったらしい。少しはダイエットしてくれないと研究室が狭っ苦しいのだが、どうもその気は無いようだ。書物への気位を、少しでも自分の腹へ分けてやって欲しいものだが。
先生は床を揺らしながら奥へと進む。気のせいか、周りの展示物までもが揺れているような気がした。
さて、この時代の書物が一番楽しい。
新聞や、続々と増えゆく印刷機械の歴史をすり抜けると、そこには多数の絵入り本が並ぶ。『ファウスト』、『コント』、『失楽園』、『さまよえるユダヤ人』に『パリの悪魔』、児童書では『グリム童話集』に『不思議の国のアリス』が続く。馴染みのある本だからこそ不思議と気分も逸ってしまう。触れないと分かっていても、ついつい手に取ってみたくなるのだ。
展示物に張り付きながら順路を進んでいくと、やがて世界の様子は一変する。次の時代に進んだようだが、そこには今までのような書物は殆ど無かった。
「さて、次の時代は新鋭代ですね。今からおよそ、五百年ほど前の時代です。このころから書物の広がり――媒体がかなり小さくなっていきます。嵩張る布や竹簡から紙になって千年以上が経過しましたが、紙よりもさらに小さい媒体へと文字を焼つけたんですね。最初は磁気テープに音声を録音したり、マイクロフィルムに画像を写していましたが、計算機の発達とともに、それらは次第に小型化され、容量が大きくなり、様々な形状が開発された後、半導体メモリへと落ち着きます。
どんな形態の書物にも言えることですが、始めそれらはマイノリティであり、販売当初は紙媒体の書物が圧倒的にその大勢を占めていました。しかし、徐々にその流れは逆転し、全ての過去の文献が電子化すると、二十二世紀の中頃には記録することを除いて紙媒体に印刷することはなくなりました。流布と参照は一部を除いてすべて電子媒体を介すようになったんですね。それでは小型化していく書物を眺めていくことにしましょう」
先生はそう言って、今まで通り順路を進む。リーダーに従う動物達のように学生もその後に続くが、気のせいか彼らの足取りはさっきより弾んでいるように見えた。
「すっげー、これ見ろよ。こんな穴が空いた紙でプログラミングしてたってありえねーだろ」
「パンチカードだってよ。こんなんじゃ大した情報量もないだろ。コンパイルすんのにどんだけ時間かかったんだか」
「コレ何? うちのおじいちゃんの畑で見たことあるけど……」
「えーっと、CDだって。音楽を記録するために開発したけど、それ以外の情報を保存するのにも利用されたってさ。こんなに大きくちゃ、邪魔になるだけだよね」
気のせいではなかった。今まではだらだらと進んでいた学生達は、今ではらんらんと展示物を眺めている。弾む会話は、彼らが如何に電子書物に興味津々であるかを示していた。
私は溜息をついて、彼らの後ろを歩く。どうも情報が目に見える形で保存されていない書物は好きではないのだ。電子書物の区画を無視して、私はこのフロアの中で一際大きな展示物へと向かう。
洗濯機ほどの大きさのそれは、一般家庭用の製本機である。フォントも装丁も自在に設定でき、文字情報を渡すと自動で本を作ってくれる優れものだ。電子パッドではなく実体の本で読みたい私のようなマニア向けに販売されたもので、《一家に一台、素敵な本を》というキャッチフレーズで販売されたこの機械は、その思惑をも裁断するようにまったく売れず、挙句の果てに開発会社は倒産し、売りに出された工場では現在ほそぼそと受注生産している。
ちなみに私の家にはこの機械が三台あり、私用(内二台)と家族用に使い分けられている。私用の一台はそろそろ壊れそうであり、それを踏まえて二台目を購入したのだ。
「いやあ、随分前のタイプですね」
いつの間にか先生が傍にいた。太ましい体のくせに、どうやら気配を消せるらしい。
「そうですね。N社の販売当初のタイプだそうです。もはやアンティークの領域ですね。私の家のもN社ですよ」
「そうですか。私はS社が好きですけど、N社のも良いですよね。家には五台ありますけど、そのうち二つはN社製ですね」
五台!? こんなにも使い道の少ない、それでいて手間も場所も金もかかる不等価交換でしかない機械を、五台もだと……!
なんだか、負けた気分である。
でも、そんなにあってどうするんだろうか。いくら先生でもそんなに多くの数を一人で持っていても宝の持ち腐れである。私でさえ保存用と観賞用とがあれば十分なのに。あ、まさか倉庫の隅で誇りを被っていたり、実は家族の数だけあって自分は一つしか使っていないということだろうか? それならむしろ、私の勝ちである。
「いえいえ、全て私専用で、ちゃんと酷使していますよ。用途に応じて使い分けてるんです。記録用に三台とすぐ読む用に二台ですね。それぞれ仕事用とプライベート用とがあって、設定を変える時間も惜しいですし、常時稼動してますから、いつの間にか数だけ増えちゃったんですよ」
そんなことはなかった。
「あ、そうそう。来月あたり新しいのが届くので、これで六台ですね」
ふぁっふぁっふぁっと准教授は笑って、順路に向かって進んで行く。完敗した私は付き人のように頭を垂れて、そろりそろりと彼につき従う。その姿はまさに、七尺下がって師の影を踏まずであった。
そして時代は新世代へと移る。
「さて、二十四世紀より先は新世代と呼ばれます。その理由はいくつかありますが、書物の観点からすれば伝達文字の発明がその契機でしょう。文字を計算機上で扱うようになって数百年が経過しましたが、それに伴い一次元に並べられた文字における問題が指摘され始めました。曰く、効率よく情報を伝達できない、ミスが生まれやすい、欺瞞を混ぜやすい、人間の感覚に即していない、などです。圧倒的な量を統べる電子媒体の情報を、今までの文字で綴った《文章》では扱いきれなくなったんですね。
こうして伝達文字は開発され、それまで使用されていた文字は旧字や感覚文字と呼ばれるようになりました。計算機の性能をフルに発揮して、紙では達成できない動的な二次元の文字配列を達成したんですね。順路を巡って解説を読んで、皆さん旧字の読みづらさが理解できたでしょうか。数百年前までは、それが当たり前に使われていたのです。論理構造が視覚化されていないと、どうにも内容を把握しづらいですが、古典ではそれが当たり前であることを十分認識してください。
さて、新世紀にはもう一つ変化が起こります。ロボット技術が発達し、ロボットが安価に製造できるようになったのです。人の動きを模倣したロボットは、踊りや武道など様々な伝統文化を保存し、ロボットスーツはそれらを体験させてくれるようになりました。これらも新たな書物の一形態と言ってよいでしょう。それでは最後の順路です。しっかりと、それらを見て行ってくださいね」
額の汗を拭きながら先生は進む。汗をかくくらいなら、歩かせなければ良かろうに。
新世代のフロアは伝達文字の開発の歴史と、動く書物であるロボットが主な展示物であった。開発されているロボットの種類は多々あり、目的にあったインタフェースが選択できる。展示してあるロボットはそのうちの代表的なものばかりであった。
「ふーん、伝達文字ってこんなに廃案があるんだな。知らなかった」
「っていうか見てみろよ。伝達文字の解説を感覚文字でしてるぜ。本末転倒とはまさにこのこと。分かりづれー」
「あーいーな、ロボット。家事してくれるのが欲しい」
「でもまだ、高いよ? メンテも自分でしなきゃだし、完全に金持ちの道楽ね。でもま、さっきのフロアにあった製本機よりは需要あるけどね」
「あはは、確かに」
「ロボットって、書物と呼んでいいのか?」
「ロボットよりむしろ半導体の方だね、書物と呼ぶべきなのは。ロボットは所詮インタフェースだからね。でも出力の仕方で情報の質が変わってくるから、何を書物と呼ぶかの境界は曖昧なんじゃないのかな、きっと」
「ああ、なるほど。そうすると、この博物館ももしかしたら書物と呼ぶべきなのかね」
「あ、そうかもね。そのアイディアは面白いや」
学生たちはきゃっきゃと騒ぎながら順路を巡る。私は特にロボットに面白味を感じないので、このフロアは素通りする。伝達文字の歴史は小学生のときに自学したので、いまさら復習するまでもない。
やがて、全員が入ってきた扉の前に集まった。
再び先生が手を挙げて、注目を集める。
「はい、皆さん。これで書物博物館の見学を終わりにします。駆け足でしたが、書物の雰囲気を少しでも分かって頂けたら嬉しいです。さて、宿題のレポートですが、課題は二つ出しましょう。一つ、グーテンベルグが活版印刷術に取り入れた技術は複数ある。そのうちの一つについて、技術の発明と発展の経緯を調べ、記すこと。もう一つ、伝達文字の発展経緯について調べ、まとめよ。それぞれページ一枚程度で結構です。提出はネットのほうにお願いします。それでは解散して結構です」
最後の言葉を皮切りに、学生たちは三々五々、ホールへの扉を抜けていく。「ありがとうございました」と礼を言う学生もいるが、それは極小数だ。
と、そこでチャイムが鳴った。
「おお、ほとんど時間ピッタリでしたね。途中から急いで良かった」
「先生、受付に行って、映像を止めてきましょうか?」
「いや、それは僕が行こう。君は念のため戸締まりの確認をしておいて。学生がみんな帰ったら鍵かけて受付まで来てよ。一緒にご飯食べよう」
「分かりました」
私は照明をつけ、言われた通り戸締まりをする。途中で展示物の立体映像が止まり、ひらけた部屋が視界に映り込んだ。様々な行事で使用される大学の多目的ルームである。比較的広い部屋ではあるが、あの大人数で歩きまわるには少々狭いスペースであった。順路を示し、展示物の映像を切り替えることで、実際の博物館のように広い空間があると見せかけていたのだろう。
学生がいないことを確認すると、多目的ルームの扉を施錠して、エレベーターホールに出た。一階に降りて先生に合流し、受付に鍵を返却する。
「学食でいいかな」
「良いですよ。それより先生、幾つか訊きたいことがあるんですけど」
大学会館を出て、歩きながら先生と話す。
「ん? 何かな」
「何でわざわざ歩かせるような博物館の立体映像を造ったんですか? 学生たちを座らせて、講義形式で書物を展示すれば良かったじゃないですか。学生たちも驚いてましたよ?」
「ああ、それね。ふぁふぁふぁ。あんな暗い部屋で君たちを座らせたら、君たち寝るでしょ?」
「私は寝ませんけど」
「ああ、ごめん。学生たち寝るでしょ? 体が動くと脳も動くからね。せっかくだから実際の博物館風味にしてみたんだ」
「受付で手間取ったのはその為で?」
「うん、そうね。データの量が大きくなったせいで、ちょっと時間かかったみたい」
「解説は伝達文字で良かったと思うのですけど」
「ネットの授業ページの解説は伝達文字にしてあるよ。君のことだから、授業では伝達文字を使って理解に集中させて、旧字の速読、即解は別途するべきだって考えてるんでしょ。それはちょっと甘いかな。フィールドワークすると旧字なんてザラで、古字すら当たり前に出てくるんだよ。必要なものは必要なときに学習させるのが、僕の優しさ」
「それで、歩かせて、旧字で、ですか」
「そういうこと」
先生はふぁふぁふぁと笑い、私は嘆息する。博士号を取って研究職に就こうと思ったら、少なくともこの准教授と互角に渡り合えなければならない。
自分の未来に立ち込める暗雲に、私は今一度、盛大に溜息を吐くのであった。