プロローグ
学校からの帰り道。
鼻を刺すような冷たい空気が心に染みた。
俺、細沼汰一の頭の中では、一つの言葉が何度もループしていた。
──私、もうダメかもしれない──
それは、つい二週間前、汰一が幼馴染みの山宮砂羽の病室へ見舞いに行った時のことだった。
「今日も来てやったぞ」
汰一は、ベッドに横たわる砂羽と、一足先に見舞いに来ていた彼女の双子の姉、美砂に皮肉っぽく言った。
「いい加減来るの止めれば?」
「全くもぉ、砂羽はこう言ってるけど、さっきまで『汰一、遅いな……』って話してたのよ!」
「えっ、そんなこと言ってませんけど?」
この会話のやり取りは、汰一達の中でここ数年の定番になっていた。
「汰一、私……母さんに電話してくるね!」
汰一がまだ来たばかりだと言うのに、美砂は直ぐに席を立ってしまった。
なんとなく、嫌な気配がした。
砂羽がゆっくりと上半身を起こした。
その動作とリンクするように、汰一はベッド付近の椅子に腰掛けた。
「あはは、久々に二人だねー。なんか、キモッ!」
それは、以前にも聞いたことのある言葉だった。
小三の時と、小五の時。
それから、中二の時。
この後、彼女の口から発せられる言葉は、いつも決まっている。
「…………あのさ、私────」
窓から見えている空の色と同時に自分の目の前がゆっくりと、確実に、暗くなっていくのが分かった。
冬の寒さを余計に感じた気がした。
「でもさ、もう十六年も生きたんだし、十分でしょ?」
長い沈黙を破ったのは、砂羽の方だった。
「でも! 人間は約八十年も生きる訳で、十六年なんてまだ五分一じゃんか! そうだ、心臓移植すれば……」
「心臓は!」
砂羽が声を荒らげた。
そして、深呼吸をしたあと、汰一に笑顔で言った。
「…………いらないって、言っちゃった!」
彼女の一筋に引かれた線からは、滴が伝っていた。
…………何で?
そう思ったはずなのに、口が開かなかった。
身体が魂の宿らない、肉の塊になったように動かなかった。
「あのさ…………もう、ここに来ないでくれないかな。一生のお願いだからさ」
砂羽が言うのと同時に、美砂が病室に帰ってきた。
「汰一、私からもお願いしていい?」
それでも動かない汰一を見限って、美砂が背中を押し始めた。
病室から出ると、小さな声で、ゴメン、と呟かれた。
汰一は、仕方なく足を進めた。
通路の角を曲がり、美砂の死角に入ると、廊下にすすり泣く声が響いた。
「ただいま~……」
「汰一! メール見てないの!?」
母親が珍しく玄関まで出迎えに来て、汰一の言葉に相応しくない返事をした。
「なんだよ、帰って早々…………」
汰一は、ブレザーの右ポケットから携帯を出し、母親からのメールの内容を確認した。
「…………えっ?」
砂羽の言葉は、現実のものとなった。
葬儀の日。
病院での一件以来、砂羽どころか、山宮家の人間誰一人として会うことはなかった。
「汰一、久しぶり」
「あぁ、久しぶり」
二人とも、上辺だけの笑みを作った。
すぐに、互いの顔が暗く落ち込んでいくのが分かった。
ふと、地面に目をやる美砂を見た。
最後に見た砂羽の顔とそっくりだった。
一卵性なんだから、当たり前だ。
そう言い聞かせてはいたが、やはり、砂羽の姿を重ねずにはいられなかった。
その後、汰一は、砂羽の前で形だけの別れの儀式を行った。
涙は出なかった。
自室で散々泣きじゃくったからだ。
全ての工程を終え、やっと家に帰れると思った時、後方から声が聞こえた。
「汰一君! 待って!」
振り返ると、主張し過ぎない、控えめな美しさを持った中年女性が小走りで汰一に向かっていた。
「砂羽のお母さん!」
「汰一君、砂羽から預かっている物があるの」
砂羽の母親が鞄から取り出した物は、一枚の封筒だった。
「砂羽が書いたの。家でゆっくり読んでちょうだい」
それだけ言うと、砂羽の母親は、美砂の隣へと戻って行った。
汰一は、早足で家に帰り、自室にこもった。
そして、先程受け取った砂羽の手紙の封を切り、黙々と読み始めた。