星降る夜の、願いごと2
――三月二日、夜。
「あの、馬鹿……」
手の中にある数枚の便箋を無意識にクシャリと握りしめながら、春原和臣は小さく悪態を吐いた。胸に湧き起る何とも言い難い感情を、どうしても抑えることができない。
和臣は苛立たしげに、大きく舌打ちをした。すぐそばにある自室の壁を、拳で殴りつける。ドンッ、と鈍い音がして、壁が小さく揺れた。ジンジンと痛む拳に、再び苛立ちが募る。
目の前に広げた手紙は夕貴からのもので、昨日――卒業式から帰った時、自宅のポストに投函されていたのを見つけた。来た日のうちにすぐ開ける気になれなかったのは、何か嫌な予感があったからだろう。
おかしいと思ったのだ。何か用事があるなら電話でもメールでも、何ならここに直接来て言ってもいいくらいなのに、彼女らしくもなくわざわざこんな形で伝えてくるだなんて。
それに……ちょうど卒業式の日の少し前くらいから、彼女がそれとなく自分を避けているようなそぶりを見せ始めていたことも、なんとなく気にかかっていた。
要は、不安だったのだ。
彼女が何を考えているのか、想像することは容易い。だからこそ考えたくなかったし、彼女自身の言葉で形にされてしまうのも嫌だった。
だから今日になって、心の準備がある程度整うまでは、あえてその封を切ることをしなかった。
――でも、やっぱり読まなければよかった。
本当はこんなもの、今すぐくしゃくしゃに丸めて捨ててしまいたかった。……しかしそれをいつまで経っても実行に移せないのは、これを書いたのが他の誰でもない――夕貴だから。
頭を掻きむしっていた手をだらりと下げ、こぶしを握る。固く握ったそれは、和臣の感情――怒りとも悲しみとも取れる、何とも言い難い何か――を克明に表すかのように、小さく震えていた。
「どうして……」
どうして、こんなこと。
――いや、頭では分かっているのだ。
自分に一言の相談もなく、初めて夕貴が自分一人で選択したこと。
幼い頃から自分がいなければ何もできなかった……そんな彼女の成長を、新しい門出を、本来ならば喜ぶべきはずなのに。
そのことが、和臣には何故か悔しくてたまらなかった。
夕貴が近くの大学――自分が行くのと同じ大学には進学せず、この街を出て一人暮らしを始めることを、和臣はずいぶん前から知っていた。無論手紙に書いてある通り、彼女の母親から得た情報によって、だ。
そうと知りながら、何も言わなかった。……言えなかった、と言った方が正しいかもしれない。
もともと内向的なきらいのあった夕貴の面倒を、和臣は幼い頃から何かと見続けてきた。きっかけは確か、近所の男の子たちにいじめられていた彼女を助けたことだっただろうか。
その一件から夕貴は和臣にすっかり懐いてしまい、どんな些細なことでも必ず和臣に意見を求めるようになり……いつしか夕貴は、和臣の采配がなければ、満足に行動することができなくなっていた。
けれど和臣はそれをごく当たり前のことだと思っていたし、彼女自身も何ら疑問を持つことなく、和臣の言う通りに素直に従い続けてきた。
朝から晩まで、一緒にいられるときはいつも傍にいた。どうしても離れなければならなくなった時にはこまめに連絡を取ったり、暇さえあればわざわざ彼女のいるところまで足を運び、その様子を確認したりした。
そんな和臣の姿を見た周りの人間たちは『心配性』だとか『お母さんかよ』とか言って口々にからかったけれど……そのたびに仕方ないだろう、と心の中で反撃してきた。自分たちのことなど何もわかってないくせに、他人が口出しするんじゃない、と。
――だって夕貴は自分がいなければ、何もできない。何から何まで自分がやってあげないと、満足に行動できない。自分は彼女から、少しでも目を離してはいけない。
だって夕貴は、そういう子なんだから。
『あまり夕貴ちゃんを、囲いすぎちゃダメよ』
そんな和臣と夕貴の姿を見かねたらしい親から受けた忠告に、和臣はようやく自分が彼女の自由を奪っていたことを知った。
『あの子だって、もう高校生よ。あんたの采配がなくても、ちゃんと自分で決められるんだからね』
そう言って母親が教えてくれたのは、夕貴の母親を通じて聞いたという、彼女の進路先の話。
『お前も、街中の大学に行くんだろ?』
いつだったか何気なくそう尋ねた時、気まずげに言葉を詰まらせ、目を逸らした夕貴。思えばそこから、予兆はあったのかもしれない。
夕貴が自分のもとを離れ、自ら決めた道を歩いていく。それはごく当然のことであり、何より喜ばしいことのはず。
――それなのにどうしてそれを、怖いと思うのか。
嫌だ、と強く感じてしまうのか。
彼女が言うように……ただ単純に、心配なだけなのだろうか。
――いや、違う。
「夕貴、俺は」
俺はただ、お前のことを――……。
ふ、と窓へ目をやる。当然のように空は暗く、遠くでぼんやりと街灯が照らされているのが見えた。時計を見れば、もう午後の十時を回っていた。
和臣は自嘲的な笑みを浮かべながら、早いけれどもうそろそろ寝てしまおうかと思い立ち上がる。
その時キラリ、と光る何かが真っ黒な空間を横切り、消えた気がした。逸らそうとしていた目線が、闇へと固定される。
呆然とした様子の和臣の乾いた唇が、うわ言のように言葉を紡いだ。
「流れ、星……?」
――流れる星がきれいな、初春の夜。
手紙の最後に書かれていた文面と、今日携帯のニュースサイトで何気なく目にした記事のタイトルを思い出し、ハッとする。
同時に、ずいぶん前に夕貴と交わした会話が、不意に耳元へとよみがえってきた。
――ねぇ、かずくんは知っている? いつだったかなぁ……あと何年かしたら、すっごく綺麗な流星群が見られるんだって。
――あぁ、もちろん知ってるよ。昨日ちょうど、テレビで特集してた。確か、×年後の三月だ。
――へぇ、そうなんだぁ。やっぱり何でも知ってるね。
――そんなことないよ。
――あぁ、でも×年後かぁ……確かわたしたちがちょうど、高校を卒業する年だよね。
――そうだな。
――あの場所で見られるかなぁ? ほら、昔一緒に遊んだ……。
――あぁ、あそこ。大きな丘があるところだな。あそこは見晴らしがいいし、きっと綺麗に見えるだろう。
――そっか。じゃあ、×年経ったらさ……。
――お互い笑い合いながら、一緒に見られるといいね。
ガチャリ、バタン。ドタドタドタ……。
「和臣? そんなに急いでどうした」
「さっさとお風呂入っちゃいなさ……ってこら、どこ行くの!」
「父さん、母さん、ごめん。ちょっと出てくる」
「こんな時間に?」
「待ちなさい、こら!」
「すぐ戻るよ……多分、ね」
和臣は記憶を頼りに、急いである場所へと向かった。