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お題『マウス』

 走る。

 走りながら彼女は絶望している。

 裸足の足だ。

 細く、木をついだように節の浮いた泥まみれの足だ。

 真冬の夜、ぬかるみに足を踏み入れると、温度を失い感覚の鈍くなったつま先にざくり、と熱い衝撃が走った。

 何か──尖った石か、何かの割れた破片であったのか。

 確かめている暇などなかった。

 血が出ようと、片足をひきずるようにしか走れなかろうと、動きを止めれば結局のところ彼女は終わりだったから。


(どこにも、逃げる場所なんてない……)


 知っていた。

 分かっていた。

 けれど走る以外に術はなかった。


『逃げていい。隠れても、何なら戦って返り討ちにしたっていい。この指定されたエリアから出ることが出来たら、お前たちは自由だよ。誰も追わない。連れ戻されることもない』


 出来るはずもないと嘲笑を浮かべながら、男はねろり、と舌舐めずりをした。

 膨張した体に趣味の悪いダブルのスーツを着て、男はあえて自分を賤しく見えるよう演出していた。

 全ては《客》のため。

 趣味の悪い見世物に《客》が耽溺できるよう、誰よりもコレを楽しんでいるように見せかけている。

 瞳の底はこの夜のように凍てついたまま。全ては惨たらしさを売りにしたショーの演出なのだ。


 集められた少女たちは全部で三十人ほどだった。

 みな被るだけの粗末なワンピースを着せられて、広いロビーでかたまりになって震えていた。

 きっと自分のように身寄りのない、ゴミのように捨てられた子供たちなのだろう。

 顔色が悪く、発育不良に見える者ばかりだった。

 男が太い手を打ち鳴らす。


『《猫》を放すのは十二時の鐘が合図だよ。《猫》はお前たちより数が少ない。それにお前たちを先に出してやるんだ、急げば見つからず逃げられるかもねえ』


 嘘だ。

 碌なものを食べていない、弱って怯えたわたしたちがどんなに走ろうと、追っ手が放たれる前に《外》にたどり着くことなど出来るはずがない。


『だけど急いだ方がいい、《猫》は素早くて残酷だからね。爪や牙に裂かれたくなかったら、必死に、振り向かず走り続けないと』


 怯えと絶望しかない私たちは、それでも男の言葉どおり走るしかなかった。

 誰かに捨てられた命でも、それしか持たない私たちにはそれがとても大切だったから。


「きゃぁああ!」


 半壊したビルを通り過ぎようとして、暗がりから伸びてきた腕に体を突き飛ばされる。

 なす術もなく地べたに転がると、胴の上に黒い塊が圧し掛かってくる。


「嫌っ、どいて……放してッ!!」


 必死で手足をばたつかせて逃れようとするが、上に乗った《猫》を退かすことは出来ない。

 それどころか嬉しそうに下卑た笑い声をあげて、《猫》は手に持つナイフで少女に切りつけてくる。

 腕に、顔に、ぱくりと赤い線が生まれる。

 痛くて熱くて恐ろしくて、少女は目を閉じることも出来ない。


(どうして、ひと思いに刺してこないの……?)


 逃げようと体を動かしてはいるが、捕まればもう終わりだと理解していた。

 このままこの《猫》の爪に裂かれて、《客》に臓物をさらすのが自分の終末だと諦めていた。

 なのに《猫》はふざけてでもいるように、致命傷を与えず少女を切り刻んでくる。


「ほらほら、もっと頑張って抵抗してみろよォ」

「ぁ……っ、ゃ……、いやぁあ……ッ」


 動くほど傷が増えていった。

 けれど動くのを止めれば殺されるだけなのも分かりきっていた。

 逃げられるはずもないのに暴れて見せるみじめさを、《猫》は《客》に演出していた。

 見下ろしてくる目が暴力に酔っているようで、怖くて恐くて泣き出したかった。


「や……っ」


 ぱぁん、と。

 突然に頬を張られた。

 少女が自失しかけているのに《猫》が気付いたのだろう。


「それじゃ面白くねェんだよ」


 もう一度思いきり顔を叩いて、少女が再び恐怖に浸るのを《猫》が確かめる。

 そうして始めからの予定というように、少女の粗末な服をナイフで引き裂き始めた。

 おそらく、そうした性癖の者を《猫》として集めたのだろう。弱いものをいたぶり、遊びの末に殺せる資質を持った男たちを。


(私は何……? こんな終わりのために、私はこの世界に生まれてきたの……?)


 一枚きりの服を剥がされれば自分を守るものはもう何も残っていない。

 凍えた風が絶望とともに体を冷やして、けれど切りつけられた傷がそこかしこで痛んで、まだ生きているという現実を決して少女に忘れさせてくれない。


(こんなのは嫌だ。こんな風にみじめに死ぬのは嫌だ……)


 思っても、叶わないと知っていた。

 ならば何もかも諦めて、受け入れた方が苦しみは短いと思った。

 それなのに──、


「~~~~~ッ」


 動きを押さえようと伸びてきた腕に、思いきり少女は噛みついていた。

 強すぎる反撃は《猫》の趣味に合わなかったのか、それまでの平手ではなく拳でしたたか殴りつけられた。

 ぐらり、と視界がゆがみ体の力が抜ける。

 これで終わり。

 最後に相手に小さな傷をつけるのが少女の精一杯の抵抗。

 息を乱し、目を血走らせた男が吠える。


「は……いいじゃねェか、気に入ったぜ。どうせなら最後まで大声でわめけ──よ……?」


 言いざまに男がびくり、と体を跳ね上げた。

 まるで強い電流に触れてしまったとでもいうように。

 突然の出来事に少女が動きを止めていると、がくがくと強く体を震わせて、白目を剥いた男が口から泡を吐きながらその場に倒れた。


「なん……で? どうして……」


 怯えながら少女は、ようよう小さな体を起こした。

 何が起きたのかまるで理解できない。

 次の瞬間にも殺されていたはずの自分の前で、簒奪者のはずの《猫》が息絶えている。





『おや、《猫》が一匹、《鼠》の毒にやられたようですねぇ……』





 街中に隠されたカメラの映像を前に、《客》たちが歓声をあげたことなど少女は知る由もない。

 数刻前、最後の食事の後打たれた薬剤が彼女の血を《毒》に変えていたことも、その《毒》がいずれ全身をまわり少女を殺してしまうことも、全て。


(まだ、生きてる……)


 彼女に分かるのはそれだけだった。

 だからもう一度走ろうと彼女は立ち上がった。


 暗い道、大人には決して通れないような狭く動きづらい道を探す。

 逃げる道の途中、疲れ果てていた少女は路地裏でふつり、と意識を失ってしまった。

 汚れて、ただ落ちているだけの彼女は、朝まで《猫》に見つかることはなかった。

たまには恋愛じゃないものと目論んでみました。

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