お題『さざなみ』 そのに
「揺れましたよ」
「気のせいじゃありません?」
「いや、確かにこの目で見ましたから。ほら、そちらのカップにもまだ波が残っているでしょう? 僕は嘘は言いません」
必死に言いつのると女史は深くため息をついた。
畳の部屋にだらしなく胡坐をかく僕と違って、彼女はもう何時間も正座の形を崩していない。
楽にしてください、なんならしばらくどこかで時間でもつぶしてきてくださいと何度頼んだかしれないけれど、彼女の応えは変わらなかった。
有能という文字に美しい黒髪と細く白い指まで与えたような人だ。まっすぐに伸びた背筋につい見とれていると、「まったく……」とよく響くアルトが部屋にこぼれた。
「分かりました。では仮に先生の言うように先ほど地震があったとして、それが何なんです? おさまったのなら何も問題ないでしょう」
冷たい視線にうろたえつつ反論する。
「そんな、問題ないわけないでしょう?! 地震ってのは続くものです、今のうちに避難を考えるとか火の元を確認するとか色々しなくては。ああ、本当に地震ってのはおそろしい、これはこんな書き物なんかしてる場合では──」
「せ、ん、せ、い」
一文字一文字を丁寧にくぎって、浮き足だつ僕を女史の呼び声がその場に留める。
全てにおいて常に逃げ腰の僕が、彼女にかかってはそこに踏みとどまらざるを得ない。そうしなくてはならないと思い込まされる。脅されるでも泣き落とされるでもないのに、僕はなぜか彼女にだけは逆らえずにいる。
よろしいですか、と彼女が続ける。
「率直に申し上げて今後大きな地震が起きる可能性よりも、先生の原稿が落ちる可能性の方が高いとわたしには思えます。無用の心配はやめてお仕事に集中なさってください」
「でも……万一があるし……その時に君が巻き込まれるのも困るし……」
まだぼそぼそと反抗を続ける僕に、彼女は不敵とも見える笑みを薄い唇にのせた。
「安心してください。地震だろうが火事だろうが、万が一の時はわたしが責任をもって先生をお守りします。方向感覚には自信がありますし、引きこもりの先生よりずっと体力もありますからご心配なく」
「……てっきり……」
呟くと聞き取れないとばかり彼女の細い眉が寄る。
「てっきり、原稿だけは守ると言われるかと思ったんですが……」
「まさか、そんな」
そう言った彼女の艶やかな微笑みときたら。
何か胸に迫るものを感じて僕はごくりと喉を鳴らした。
「初めてお会いした時にお伝えしたはずです。先生の作品のお手伝いをすることだけが、たったひとつのわたしの夢だったんです。そのために大学を選び、三年の営業部修行も耐え抜きました。それなのに目の前のたった一本を守って、先生ご自身を危機に置き去ると本気でお思いですか?」
「美月さん……────あれ? それってなんだか……」
あまりの凛々しさにうっかり感動しかけてしまったけれど、つまりはこの一本を上げたとしても、いつまでもどれだけでも無理やりにでも書かせてみせるという決意表明にも受け取れなくはない、のではないかな。
疑惑を口に乗せようとしたとたん、彼女はぴしり、と遮ってみせた。
「お分かりになったらせめて顔をわたしではなく画面に向けてくださいね。今日という今日は完成を頂くまでわたしこの部屋を動きませんから」
「あの、でも、夜遅くに男の部屋に女性がひとりというのは……」
「そんな事態にはならないって、わたし信じてますから」
そんな事態とは襲われることなどないという意味か、はたまたまさか夜までかかるだなんて許さないという意味なのだろうか。
もう一度口を開こうとすると、無言の笑顔の後ろに般若の幻影が見えた。
恐ろしさに慌てて姿勢を正すと再び珈琲の水面が揺れる。
それからデータを受け取るまでの三時間、彼女は本当にその場で正座を続けた。
もちろんその間、大きな地震がくることはなかった。
1本目がポエミーすぎて慌てて2本目も書いてごまかすせこい大人です。