第九話 境目は濃いけど優しい世界
紫のシャツを着た女性事務員は、照れたような笑みを浮かべる。
恵萌は、その理由をすぐには理解できなかったけれど、話す内容を聞いて、合点がいく。
「……検仙女子は、校歌も覚えてるよ。
――薫風はずむ 胸吹く夢よ……」
口ずさむ。
なるほどである。歌う前の、恥ずかしさだったわけか。
だが、今はそんなことよりも。
「……!」
(わあー……)
まさか、何げない会話が、こんな素敵な展開になるなんて。
恵萌も、一緒に歌い出す。
小声だが、数秒間、二人の歌声が重なる。両者とも、高音だ。
薫風はずむ 胸吹く夢よ
命短し されども楽し
検仙遥か 途上の旅路
検仙我ら 今、咲かせ 花 羽ばたいて 空
切りが良く、一番の「サビ」だけで、互いに歌うのをやめる。独特の達成感。照れ笑いで、目を合わせる。
グラウンドの歓声や放送のおかげで、周囲には聞こえなかったことも、かえって、二人の連帯を高めた。女同士だった点も、大きかろう。
(あっ、ヤバ……)
まだ「生きていた」頃の、もう戻れない日々がよみがえり、恵萌は涙が込み上げてくる。
「――」
しかし、ここで事務員の女性は、ちょっと不思議そうな表情に変わる。
あることに、気づいたからだった。
「――けど、検仙女子って、横浜だよね。ここから遠くない?」
ぎくりとする恵萌。せっかくの感動も、半分、消し飛んでしまった。
この場所、立遠第二中学校は、千葉県である。もっともな疑問であった。
(あー、そういえば、そうか。制服を着てるってことは、わざわざ自分の通う高校へ登校してから、同じ日に、改めて、ここへ来たということになるもんね! 不自然かも。あちゃー)
二校の距離は、電車とバスで、片道三時間は掛かるはずだ。
実際、「生前」の恵萌は、中学卒業とともに、千葉から横浜へ引っ越した。検仙女子高校へは、学区外受験をしたのである。
だから、その遠さは、実体験として分かるのだった。
ズズッと鼻水をすすったあと、とっさに、でまかせ。
「……午前中に部活があって、ごっ、午後から、ここに、き、来たんすよ」
すよ、とか言ってしまったが、
「ああ、そうなんだ」
事務員の柔和な笑みは、崩れていない。別に、問い詰めたいわけでもなかったようだ。
続けて、
「弟さんか、妹さんの応援?」
もはや完全に、「社交辞令・消化試合」的な、世間話のトーンであった。
恵萌も、その流れに沿うことにして、適当に相づちを打つ。
「はい、ええ、そんなとこです、まあ」
「じゃあ、楽しんでってくださいね」
「ありがとうございます」
無難に、その場を立ち去ることが出来た。
正直、あと少し、検仙女子の話題で盛り上がりたかった気もするが、相手は仕事中であるわけだし、
(ま、これでよかったんだろうなー)
という結論になった。
さて。
一、二年生女子たちのタイヤ引きは、いまだ続行中である。
このゲームは、自分たちの陣地へ引っ張り込めたタイヤの個数を競う。どうやら、特大サイズのタイヤは、ボーナス点が入るようだ。
紅白戦を三回行い、白組の二勝一敗で終了。
競技を終えた女生徒たちは、勇壮なアップテンポの曲で、小走りに、サッカー用ゴールポストから退場。
(あっ、この曲も知ってるや。F1の曲だよね)
恵萌はニヤリとする。
サッカーのゴールポストは、ネットが取り外されていた。
皆、そこをくぐって、グラウンド外側の応援席へ戻って行く。
ゴールポスト上部には、大きな横向き長方形があった。造花に縁取られ、「退場門」と書かれている。
次の競技は、全学年男子の選抜による騎馬戦であった。
三人組で「馬」を作り、その上にもう一人が乗って「騎馬」一騎とする。それで、敵の騎馬と戦って、崩すか、はちまきを奪ったら、相手を「失格」にさせられるルール。
(男子の体操服は、紺色の短パンかー。今見ると、男子のも結構短いよなあ。私の頃は、男女ともハーフパンツだったけど)
騎馬戦競技中の男子たちの叫び・怒鳴り声は、やはり、低くて、荒々しい。
動きも、固い肉体、筋肉のぶつかり合い。結構、野蛮である。さすがの迫力。タイヤ引きの女子たちとは、まるで雰囲気が違う。
レジャーシート上で応援する保護者たちの、背後にたたずむ恵萌は、
(すごい。声、低っ! 強い。みんな、男の子してるねー。やるじゃん!)
前歯から息を出して、シシシッと笑う。
同時に、首すじが少し、ゾクッとした。
(私も、女の子なんだなあ)
そんなふうに実感する。
この感覚は、きっと、同世代ならではの緊張感であり、異性への本能的な興味と、恐れなのだと思う。
恵萌自身、まだ十七歳。ちょっと大人ぶっていても、実は、競技中の中学生たちと、さほど年齢は変わらないのだ。
続いてのプログラムは、「敬老レース」という種目である。
九月の中旬であり、敬老の日が近いことにちなんでいる。外からの客の中で、六十代以上の者が参加できる。
内容は、二十メートル程度の短い距離を走り、ゴールに置かれたプレゼントの包みを取るというもの。特に競争でもなく、景品は一人一個ずつ用意されていた。
風の中、
「俺のじいちゃん、出てるぜ」
「マジ?」
男子生徒の会話が耳に入った。
老人たちも、ノリノリという感じではなく、お付き合いで参加してあげているという様子。
だが、しらけているとまでは言えず、皆の拍手も、それなりに温かかった。
「優しい世界……」
つぶやく恵萌。悪い雰囲気ではない。
敬老レースの参加者は、男性も女性も、誰もが地味で、渋い風合いの服装であった。
いかにも、ドラマやアニメに出てきそうな、典型的な「おじいさん、おばあさん」なのだ。個性を追求した、妙に若々しい、あるいは派手な格好の者が、見当たらない。
(女子のブルマーもそうだけど、女とか、お年寄りとか、型にはめるのが好きな時代だったのかなあ。個性よりも集団重視の……)
恵萌は、そんな感想を抱く。
まだ自分は十代であり、子供であることは分かっているつもりだ。だから、自分の分析を、
(まあ、浅いかもしれないけどさ)
とも思ってはいるけれど。
加えて、恵萌にとっては、貴重な情報を得られもした。選手が走る際、グラウンドのどこら辺を使うのかが、分かったからである。
(そうか、短距離走のスタートラインはあの辺ね。……ってことは、老人じゃなく生徒が走る場合は、まあ、だいたい、距離が倍ぐらい延びるとして――)
背伸びして、トラックの向こう側を見やる。ゴール位置の見当も付いた。
言うまでもなく、借り物競走への準備である。
プログラムは、もう、次に迫っていた。




