第十三話 「パワハラ」も「モンペ」も無かった時代に
上下とも、白い体操服の龍輝少年。半そでシャツと短パン。
校庭のトラックの途中で、呆然とたたずんでいる。大きなカードも、だらりと下げたままだ。
龍輝以外の、紺色の短パンたちが、あちこちへ散ってゆく。
一緒にスタートした他の五人が、先にコースから出たわけである。それぞれの「お題」に当てはまる観客――「借り物」――を、口々に探し始めたのだ。
「ヒゲを生やしてる方、いませんかー?」
「そこのメガネの子、来て、来て!」
「黄色い水筒、水筒! 黄色!」
低い声も、かん高い声もいる。
立ち尽くす龍輝へは、野次が飛ぶ。
一応、皆、優しめではあるものの、とがめたり、冷やかしたりする口調だ。
「おい、あの子、動かないよ」
「どうした!」
「何やってんの」
「早くしろ!」
嫌な空気が、出来上がっていく。
(うわーっ)
恵萌も、中腰になったところで、三秒ほど、動きが止まってしまう。
近くに座る家族連れの、父親らしき若い男性が、
「とりあえず、カード見せて!」
見かねたのか、助け船を出す。
聞こえているはずだが、龍輝は、中途半端な姿勢で、カードを両手に持ったまま、きょろきょろするのみ。
心、ここにあらずだ。
カードの内容も、周囲からは読めない。
「しっかりしろよ馬鹿たれ! だらしねえ。おめえ、男だろォ!」
恵萌の左に立つ初老の男が、ギャハギャハ笑いながら、だみ声で嘲る。シワだらけの目もとが、テカテカと赤らんでいる。明らかに、酔っぱらいだ。
周囲から、困惑した笑いが起こる。半分は、酔っぱらいへの嫌悪感。
だが、残念なことに――。
もう半分は、この酔っぱらいへ加担し、一緒にからかっているような雰囲気であった。たしなめる者もいない。
(わあー、ひどいな。男とか、そんなの関係ないじゃん! しょうがないのかな? 時代が違うのか……)
パワハラとか、モンスターペアレントなんて言葉は、まだない。メンタルヘルスという概念も、さほど広まってはいなかっただろう。
平成の終盤や、令和には、どちらかといえば、繊細な人たちには優しく接しましょう、という暗黙の了解はあったはずだ。
少なくとも、実社会で、目の前で困っている少年少女を、あからさまに馬鹿にする風潮はなかった。
もし、そんなことをすれば、むしろ、やった方がバッシングされかねなかった。
何せ、中高年の上司が、若手の社員を厳しく叱ることすら、ためらわれたのだ。
しかしながら、ここ、1994年は違う。
むしろ、根性論の方が、幅を利かせていたのではないか。良く言えば、細かいことを気にしない時代だったのかもしれないけれど――。
笑われ、罵られたのが、よほどショックだったのだろう。
ついに、龍輝は、手でカードを支えることすら出来なくなり、ぽとりと落としてしまう。どうやら、カードは、裏返しで地面に落ちたようだ。
さすがに、その場の客たちは、気まずそうに絶句する。
「う……」
「その……」
「あっ……」
「えっと……」
目をそむけたり、せき払いをしたり。
横目で、
(ケッ、今さら、何、いい人ぶってるんだよ、あんたら)
軽蔑する恵萌だったが、
(――ヤバっ!)
前へ向き直って、焦る。それどころではなかったからだ。
龍輝の膝の力が、ガクッと抜けて、体が左右に揺れていたのだ。
うつむいた顔も、ゆがみ始めている。まさに、このあと、「泣き出す」のだろう。未来の龍輝が、話してくれたように。
「――」
泣き出す寸前の今こそ、本当に、最後のチャンスであった。もし、泣き始めたら、しばらく回復できず、とても借り物競走どころではないだろうから。
「――ッ!」
考えるより先に、体が――
いや、それでも、意志の方が先だったか。
「……」
つま先立ちで、レジャーシートの隙間を、早歩き。
ガタン!
誰かの水筒を蹴り倒してしまうが、「済みません」と、おざなりに会釈し、さっさと前進。
ひもをまたぐ。スカートの裾を引っ掛けたが、なでるように、後部を片手でスルリと押さえて、向こう側へトッと下りる。
ヒューッ、と、背後で下品な口笛が聞こえた。例の酔っぱらい老人だと思われる。
今、スカートの中が見えちゃったのかもしれない。だが、どうでもいい。どうせ、下はオーバーパンツを履いている。
というか、それどころじゃない。
そばへ寄る。
「龍輝!」
呼んだ。
下を向いていた龍輝少年の、肩がビクッと跳ねて、こちらへ首を回す。
龍輝の驚いた顔と、目が合った。




