第九十四話 王都警備局医療棟へ
【異世界・転移した学園/正門内・校舎前】
結界の膜が、門の前で低く鳴っていた。
透明な“壁”に体当たりしたグレイウルフが跳ね返され、
土をえぐって転がる。
怒りの遠吠えが森を揺らすたび、窓ガラスが震えた。
それでも――門の内側は、かろうじて保たれている。
ハレルは息を切らしながら、アデルとリオの前に立った。
バッグを抱える腕が痛い。けれど放せない。
「……リオ」
呼ぶと、リオがマスクの奥で短く頷いた。
ハレルはバッグの口を開き、慎重に中を見せる。
青い色のカプセル。
ユナのコアだ。小さな光が、眠るように脈を打っている。
「これが……」
リオが言葉を飲んだ。
指先が震えそうになるのを堪え、ゆっくりと手を伸ばす。
「触っていいか」
「……うん。落とすなよ」
ハレルは冗談みたいに言って、自分でも笑えなかった。
リオの指がカプセルに触れる。
冷たい――はずなのに、触れた瞬間だけ、指先がほんの少し熱い。
リオの目が見開かれた。
一拍遅れて、眉がぎゅっと寄る。
「……ここに、いる」
それが、リオの“確認”だった。
泣きそうな声でもなく、叫びでもない。ただ、現実を掴む声。
サキが小さく息を吐いた。
「よかった……」
よかった、で済む状況じゃないのに。
それでも、その一言が支えになる。
アデルが周囲に目を向けた。校舎、窓、廊下の影。
先生たちが生徒を押し戻し、扉を閉め、泣いている子の肩を抱いている。
「次にやることは一つ」
アデルは静かに言った。
「器のところへ運ぶ。
……王都警備局の医療棟。ユナが眠っている場所」
ハレルが頷く。
「そこに戻せば、少なくとも“コアだけ奪われる”は止められる」
リオはカプセルから手を離し、拳を握った。
「戻す。……今度こそ」
その時、校舎の中から、先生たちの声が上がった。
「怪我人が――!」
「血が……!腕が……!」
ハレルの胸が沈む。さっきの廊下。定規を振り下ろした男の先生。
「……先生が、斬られた」
ハレルがアデルに言った。
「レアに。腕をやられてる」
アデルの目が一瞬だけ細くなる。怒りじゃない。判断の目だ。
「命は?」
「今は…意識はある。でも出血が多い。放っておけない」
アデルはすぐに部隊へ目配せした。
「残る人が必要。学園の中を守る人と、怪我人を支える人」
部隊の中から、槍を持った隊員が一歩出る。
「私が残ります。医療の心得も少し」
もう一人、弓を背負った隊員が続く。
「門前は私が見ます。結界の補助もできます」
アデルが頷く。
「助かる。……じゃあ、ここを“砦”にする」
そして短く詠唱した。
「〈結界補強・第二級〉――光よ、膜をもう一枚」
足元の光が広がり、門前の透明な壁が少しだけ厚く見えた。
グレイウルフの体当たりがまた来ても、
すぐには割れない――そんな“余裕”が一枚増える。
先生たちが、その光景を見て息を呑んだ。
「……いまの……」
「映画みたい……」
誰かが言って、すぐに口を押さえた。
現実じゃない。けれど、現実だ。逃げ場はない。
アデルは先生たちへ向き直る。声は落ち着いている。
「私たちは王都側の部隊。外の獣は止める。
だから、先生たちは中を守って。生徒を集めて、窓から離して」
先生たちは混乱しているのに、最後は“指示”にすがるように頷いた。
「わ、分かりました……!」
リオがハレルへ言う。
「行けるか。走る」
ハレルはバッグを抱え直し、サキの手を握った。
「行く。……サキ、ついてこれるか」
サキは泣いていない。怖いのに、顔が折れていない。
「うん。……離れない」
その時、背中の皮膚がひりついた。
空気が切れる気配。遠くで、金属が裂ける音がまたした気がする。
リオが小さく言った。
「……レア、まだ近い」
見えないのに分かる。追ってくる。壊しながら、楽しみながら。
アデルが剣を握り直す。
「先に進もう。追われる前提で、最短で」
ハレルは頷いた。
逃げるんじゃない。届ける。
「王都警備局医療部へ」
四人――ハレル、サキ、リオ、アデル。
それに、同行する優秀な隊員が二人だけ。
門前の結界の内側で、残る隊員たちが槍を構え、
先生たちが生徒を押し込め、怪我をした教師の周りで応急処置が始まる。
“学園”は、その場で戦場になった。
そして四人は、その戦場の外へ向かう。
◆ ◆ ◆
【現実世界・学園跡地/森・石造りの建物内部】
その時、奥で――コツ、と音がした。
人の足音じゃない。爪が石を叩く音。
全員が止まる。銃口が上がる。
城ヶ峰は小さく指を立てる。黙れ、という合図。
そして、前を見た。
「……来る」
暗闇の奥で、何かが動いた。
ライトの輪の外。闇の中が、ひとつだけ“盛り上がる”みたいに揺れた。
次の瞬間――
低い唸り声。
「グルル……」
影が、ぬっと前へ出てきた。
狼の形。でも、狼じゃない。
肩が人の頭より高い。背中が丸太みたいに太い。
口を開くと、犬歯が白く光り、涎が糸を引いた。
木崎は喉が鳴るのを必死に堪えた。
(……こんなの、廊下に入ってくるサイズじゃないだろ)
日下部はノートパソコンを抱えたまま、一歩下がりそうになって踏みとどまる。
体が震えるのに、目だけが獣の奥――さらに奥の闇を見ていた。
城ヶ峰の声が低く落ちる。
「撃つな。……距離」
隊員たちの指が、引き金の手前で止まる。
狼型の個体は、頭を少しだけ傾けた。
“様子を見ている”みたいに。
そして――コツ。
もう一つ、爪音。
左の闇。右の闇。
別の個体がいる。数がいる。
音だけが増えていく。輪郭は見えないのに、気配が廊下を埋めてくる。
城ヶ峰はライトを振らない。
光を動かした瞬間に、位置がバレる。
ここで囲まれたら終わる。
「……退路、確認」
城ヶ峰が短く言う。
背後の隊員が小さく頷き、肩越しに後方を見た。
石の廊下は狭い。逃げ道は少ない。
狼型の個体が、一歩踏み出した。
重い。足音じゃない。石が軋む音。
「……ッ」
木崎の腕の中で、カメラがきしんだ。
抱きしめるみたいに押さえ込む。音を出したら終わる。
その一歩が、ライトの端に触れた瞬間――
城ヶ峰が判断した。
「――撃て」
銃声が、石の廊下を裂いた。
乾いた音が跳ね返り、耳が痛くなる。
弾が当たる。
黒い体毛がはじけ、獣の体が揺れる。
だが――倒れない。
獣は唸り声を一段低くして、体を沈めた。
次の瞬間、横へ跳ぶ。
石の柱の影へ。ライトの輪から消える。
狙いが切れる。こちらの視界が途切れる。
「くそ……!」
隊員の誰かが小さく吐き捨てた。
城ヶ峰は歯を噛み、すぐに言う。
「前へ。止まるな。ここは狩り場だ」
“ここは狩り場”。
その言葉だけで、木崎の背中が凍る。
日下部が、息を切らしながら言った。
「……下。近い。ここ、下に空洞がある。……中心は、もっと先だ」
「根拠は」
城ヶ峰が問う。声は冷たい。でも、切り捨てる温度じゃない。
日下部は唇を噛む。
「説明できない。でも分かる。……引っ張られる。俺の中の“ずれ”が、ここを指してる」
闇の中で、またコツ、と爪音。
今度は右。近い。
城ヶ峰は即決した。
「付いて来い。ただし前には出るな。守る側の邪魔をするな」
日下部が頷く。
後ろにいた隊員が渋い顔をして、結局日下部の横に付いた。放っておけない。
木崎はカメラを握り直す。
指が震えるのに、レンズだけは奥を外さない。
(……この先に、何がある)
(学園だけじゃない。もっと根っこが――)
城ヶ峰が隊列を前へ押す。
一歩ずつ。銃口を揃えたまま、石の廊下を進む。
暗闇の奥で、獣がまた唸った。
倒せていない。追ってくる。数がいる。
それでも――止まれない。
「進む」
城ヶ峰の声は硬い。
「中心を押さえる。理由は、そこにある」
隊列は、さらに深く、建物の中心へ向かっていった。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/校舎裏・森へ抜ける通路】
四人と二人の隊員は、校舎の影を走った。
森の気配が濃い。門前の遠吠えが背中を押す。
ハレルはバッグを抱え、胸元の主鍵が熱いのを感じた。
熱は道しるべみたいに、前へ前へと引く。
でも、その熱の裏に、もうひとつの“冷たい線”がある。
追われている。
レアの刃が、どこかで壁を切っている気配。
笑い声は聞こえない。なのに、笑われている感覚が消えない。
サキが小さく言った。
「……来るよね」
ハレルは答えた。
「来る。……でも、先に着く」
リオが息を吐く。
「守る。絶対に」
アデルは振り返らずに言った。
「大丈夫。間に合うように走ろう」
“間に合う”は、祈りじゃない。
今の彼らには、行動の言葉だった。
次の瞬間、背後で――
金属が裂ける音がした。ロッカーじゃない。もっと太い何か。
レアが、壁ごと道を作っている。
追跡が、始まった。




