第九十二話 それぞれの攻防
【異世界・転移した学園/高等部・廊下】
ロッカーの裂け目から、まだ白い湯気みたいな光が立っていた。
切り裂かれた金属の縁が、熱で赤くなっている。
悲鳴が、廊下の奥で波みたいに膨らんでいく。
先生が叫ぶ声、走る足音、誰かが転ぶ音。
全部が混ざって、頭がくらくらした。
ハレルはバッグの肩紐を握り直す。
中で、ユナのコアが小さく揺れた気がした。
(奪わせない)
目の前の葛原レアが、光の刃を指先で揺らす。
刃は細いのに、空気まで切っていくみたいに静かだった。
「バッグ。渡して」
声は優しい。だから余計に怖い。
「渡すわけないだろ」
ハレルが吐き捨てた瞬間――レアが肩をすくめる。
「じゃあ、進むだけ」
〈光刃・第三級〉――展開。
光の刃が横に走った。
廊下の柱の角が、豆腐みたいに削げ落ちる。
次に壁。次に窓枠。
切られた場所から粉みたいな白い破片が舞って、鼻の奥がツンとした。
「きゃあああ!」
窓際にいた生徒が、腰を抜かして座り込んだ。
サキがハレルの袖を掴む。
「お兄ちゃん……っ」
「走る」
ハレルはサキの手を引き、廊下の角へ駆け出した。
レアは追ってくる。
速くない。走ってない。
それなのに距離が縮む。
刃が、通路の障害物を“消して”いくからだ。
ロッカーが裂け、
消火栓のカバーが真っ二つになり、
水道の蛇口が光で断ち切られた。
次の瞬間、配管の圧が抜けて、水が噴き上がった。
「うわっ!」
水しぶきが廊下に広がり、足元が滑る。
ハレルは踏ん張りながら、胸元の主観測鍵を握りしめた。
熱い。脈を打つ。
“つながれ”と叫んでいるみたいに。
(セラ――!)
声にしない。心の中で投げる。
いつもみたいに空白で返されると思った、その瞬間。
白いノイズが、耳の奥で弾けた。
『……聞こえます』
一拍。
確かに“声”だった。
「セラ……!」
ハレルは息を呑む。走りながら、言葉を絞り出す。
『時間がありません。短く』
セラの声は落ち着いている。いつもの橋渡しの声。
なのに、途切れそうに薄い。
「リオに――! レアがいる! ユナのコアを奪いに来てる、追われてる!」
ハレルは必死に周囲を見る。目印。場所。
「高等部棟の二階! 真ん中階段の横の廊下! 中庭側、窓が並んでる――!」
『了解。座標を噛み砕きます』
白いノイズが一段強くなる。
次の瞬間、イヤーカフ越しみたいに別の声が混ざった。
『リオ、聞こえる? 今、ハレルの声――!』
【異世界・転移した学園/正門内・校内(中庭側)】
『……高等部棟、二階。中央階段、窓列。そこだって』
ノノの声が飛び込んできた瞬間、リオの背筋が硬くなる。
門をくぐった校内は、停電のせいで薄暗い。
先生たちは出入口を塞いだまま固まっていて、
武装した部隊を見て顔色が真っ白だ。
「……いまの、誰?」
「異世界……? 魔術……?」
誰かが震える声で言う。
アデルは落ち着いた声で先生に向ける。
「私たちは敵ではない。外の獣を止めに来た。……中の生徒を守る」
それでも、先生は信じきれない顔をしている。
目の前で“結界”が光って、鉄柵の前に壁が立っているのだから、頭が追いつかなくて当然だ。
外――門の向こうで、グレイウルフがまた結界に体当たりした。
ドン!! と鈍い音。
唸り声が腹の底まで響く。
リオは窓の外へ目を走らせる。
中庭の先、二階の窓。
そこが、一瞬だけ白く光った。
(切った――)
「リオ」
アデルが短く呼ぶ。
「分かってる」
リオはマスクの奥で息を吸った。
先生たちに見せる必要はない。けど、隠してる暇もない。
「〈捕縛・第三級〉――『鎖よ、絡め』!」
光の鎖が床を走り、門へ向かう獣の脚に巻きつく。
獣が体勢を崩し、土を抉って吠えた。
アデルが剣先を地面に向ける。
「〈大結界・第一級〉――光よ、門前に“壁”を重ねて」
透明な膜がさらに厚くなる。
衝突音が続くのに、壁は割れない。
先生たちが、目の前の光景に息を止めた。
「……映画、みたい……」
誰かの声が漏れる。
ノノが続けて言う。
『リオ、先に行ける? 私、位置は追える。アデル、ここは任せても大丈夫?』
アデルは迷いなく頷く。
「大丈夫。門は私が落とさない。先生たちも守る」
リオは中庭を駆け出す。
二階の窓へ――ハレルのいる場所へ。
【異世界・転移した学園/高等部・二階廊下(中庭側)】
セラの声が薄くなる。
『……もう切れます。次は、直接会って』
「待っ――」
ぶつん、と世界が静かになった。
でも、今ので十分だ。リオに届いた。位置も。
その直後。
ハレルの背後で、白い音がした。
シュッ。
壁が“線”になって裂ける。
窓ガラスが遅れて砕け、破片が雨みたいに落ちた。
冷たい風と森の匂いが、廊下になだれ込む。
レアが、割れた窓の向こうを一瞬見た。
遠くの中庭に、人影が走っているのが見える。
「……来るんだ」
レアの笑みが、さらに薄くなる。
嬉しいのに冷たい笑み。
「だったら――壊して急ぐ」
光刃が、今度は床をかすめた。
床板が裂け、白い線が走る。
足元が崩れそうで、生徒がまた叫ぶ。
「やめろ!!」
ハレルが身を張って前に出る。
レアの刃が、バッグへ向く。
次の瞬間、サキが割れた窓枠に手をかけた。
外の中庭へ身を乗り出し、声を張る。
「リオ!! こっち!! 二階!!」
喉が裂けそうな声。
「お兄ちゃんが――追われてる!!」
その叫びに反応するみたいに、レアの視線が一度だけサキへ向く。
ほんの一瞬。
その“隙”で、ハレルはサキの手首を掴んで引き戻した。
「出るな!」
「でも――!」
「届いた。今ので届いた」
ハレルは息を切らしながら言う。
自分にも言い聞かせるみたいに。
レアが、ゆっくりと刃を持ち上げる。
ロッカーの残骸、水浸しの床、泣き声。
全部の中心で、レアだけが整っている。
「ねえ、ハラルくん」
レアが囁く。
「そのバッグ、私が取る。
……取れなかったら、ここを“材料”にする」
刃が光る。
次に切られるのが何か、誰でも分かってしまう光。
ハレルの胸元で主観測鍵が、痛いほど熱く脈打った。
背中の皮膚がピリつく。“見られている”感覚。
(間に合え、じゃない)
(――来い、リオ)
ハレルは歯を食いしばり、サキの手を離さなかった。
守る。逃げる。
その両方を、ここでやる。
◆ ◆ ◆
【現実世界・学園跡地/森・内部】
返事の代わりに、森が唸った。
そして一行は、さらに深く、中心へ向かって進み始めた。
足元は柔らかい腐葉土で、踏むたびに湿った音がする。
元はアスファルトだったはずの場所に、
苔が張りつき、細い根が網みたいに走っていた。
「……足元、取られるな」
先頭の隊員が低く言う。銃口は上げたまま、左右に視線を走らせる。
木崎はカメラを構え直しながら、喉の奥で唾を飲んだ。
フラッシュは使えない。光を焚けば、逆に“呼ぶ”。
日下部はノートパソコンを抱えたまま、息を切らしてついてくる。
病衣の上に上着を羽織っただけの格好が、森の中だと妙に浮いて見えた。
「……どこまで分かる」
城ヶ峰が歩きながら訊く。
声は低い。急かしていない。確かめているだけだ。
日下部は画面を覗き込み、指を震わせながらタッチパッドを動かす。
「数値じゃ、追えない。
……でも、近づくほど、胸が痛い。あそこだ。絶対」
森の奥――木々の隙間に、建物の輪郭がちらつく。
石の塊みたいな、角ばった影。
窓の並びが不自然に整っていて、森の自然さと噛み合っていない。
その瞬間。
バキッ、と枝が折れた。
左。近い。
全員の銃口が同じ方向を向く。
葉の揺れの向こうで、灰色の塊が“立ち上がった”。
狼の形。だが大きさが違う。
肩が人の頭より高い。
背中の盛り上がりが丸太みたいに太い。
口を開けると、白い牙が湿って光った。
「……来る」
誰かの声が掠れる。
次の瞬間、そいつは跳んだ。
土を抉り、木の根を踏み砕き、隊列へ一直線。
「撃て!」
城ヶ峰が短く言う。
乾いた銃声が連続し、葉が散った。
命中した。体が跳ねた。――でも倒れない。
獣は唸り声を上げながら、横へ跳んで木陰に消える。
そして、別の方向でまた枝が折れる。
「……一匹じゃない」
隊員が歯を食いしばる。
城ヶ峰は一拍だけ呼吸を整え、隊列を崩さず前へ押す。
「止まるな。中心を先に押さえる。追ってくるなら、追わせたまま間合いで削る」
木崎の背中に冷たい汗が伝った。
(これ、ニュースじゃねえ……戦場だろ……)
日下部が小さく呻く。
「……近い。もう、すぐ……」
建物の輪郭が、はっきりしてくる。
木々の間に、石壁。鉄柵の名残みたいな黒い線。
入口らしき暗い穴が見えた瞬間、森の空気が一段だけ冷えた。
「……全員、間隔詰めろ」
先頭が合図を出す。銃口がさらに揃う。
唸り声が、背後で重なる。
囲むように、数が動いている。
城ヶ峰は建物を見据えた。
「――ここだ」
木崎がカメラを向ける。
シャッター音が、森の中でやけに大きく響いた。
そして一行は、建物の外壁に届く距離まで、
慎重に、しかし止まらずに進んだ。




