第九十話 光刃の教師
【異世界・転移した学園/外周・正門前の森】
学園の正門は、森に面していた。
門の“向こう”は校舎とグラウンド。
門の“こちら”は、湿った土と濃い緑――異世界の森だ。
その森が、うなっている。
低く、腹に響く唸り声が何重にも重なり、枝が折れる音が続いた。
グレイウルフ。
狼の形をしているのに、狼よりずっと大きい。
馬や牛よりも大きく、肩の高さは大人の背より上。
毛並みは灰色というより煤けた鉄みたいで、
口を開くたびに白い息と生臭い涎が落ちる。
「……数、増えたな」
リオが小さく息を吐く。鼻と口はマスクで隠したまま。
見られても、“一ノ瀬涼”だと気づかれないためだ。
アデルは一歩前へ出た。
剣を下げたまま、森と門の間の距離を測る。
「門の前で止める。中へは、まだ入れない」
イヤーカフから、ノノの声が飛ぶ。
『今、学園の座標、揺れてる。中で何かが動いた。
……来てるの、気づかれてると思う』
少し間が空き、続く。
『たぶん“鍵”が反応した。だから、向こうも焦る』
その瞬間、先頭の一匹が跳んだ。
土を抉り、木の根を踏み砕き、門へ向かって一直線。
部隊員たちが槍を構える。金属が揃って鳴る。
「来るぞ!」という叫びより早く、獣が突っ込んできた。
リオは一歩だけ踏み出し、掌を前へ出す。
「〈捕縛・第三級〉――『鎖よ、絡め』!」
空気に細い光が走り、
鎖の形になってグレイウルフの前脚へ巻きついた。
獣は勢いのまま突っ込もうとして、鎖に引かれて体勢を崩す。
地面に爪が食い込み、土が跳ねた。
それでも止まらない。
後ろの群れが、唸り声を上げながら一斉に走る。
アデルが、短く言った。
「ここで押し返す。時間を作る」
そして、詠唱。
「〈大結界・第一級〉――光よ、門前に“壁”を重ねて」
剣先から、淡い光が地面へ染み込む。
光の線が蜘蛛の巣みたいに広がり、鉄柵の前に“膜”が立った。
一枚じゃない。二枚、三枚。薄い板が重なって、透明な壁の厚みになる。
狼が突っ込んだ。ドン!! と鈍い音。
壁がしなる。でも、割れない。
衝突した狼の体が跳ね返され、土を削って転がった。
「ギャウッ!」
群れが怒りで吠える。
さらに別の個体が横から突っ込む。それも、壁に弾かれる。
アデルは剣を抜き、光の膜を背にして立った。
「……入らせない」
部隊員が叫び、槍を突き出す。
「〈火矢・第二級〉――『一直線』!」
赤い矢が一本走り、獣の足元の草を焼いた。
獣が身を引き、怒鳴るように吠える。
結界は揺れたが、破れない。
アデルは眉ひとつ動かさず、門の向こう――学園の敷地を見た。
敷地内、校舎の窓の奥で、影が揺れている。
叫び声。
悲鳴。
人の声だ。
リオの喉が乾く。
(中で……始まった)
ノノの声が、少しだけ低くなる。
『……急いだほうがいい。中の“温度”、上がってる』
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/高等部・廊下】
廊下は薄暗い。非常灯も点かず、窓の外の緑だけが光源になっている。
森の匂いが濃く、遠くで獣の唸り声が響くたび、背中の皮膚が粟立った。
ハレルはバッグを抱え直した。
サキが喉を鳴らした。
「……外、馬の音……?」
窓の向こう、森の縁に、鎧みたいな装備の影が見えた。
人がいる。馬もいる。
でも、生徒たちはそれが“救助”か“侵入”か判断できない。
「知らない人たちが……!」
「武器持ってる!」
「え、あれ人間なの!?」
先生たちも混乱していた。
誰かが泣き出し、誰かがスマホを握りしめ、
誰かがドアノブを掴んで外へ出ようとする。
校内放送が何度も鳴り、同じ指示を繰り返す。
『外に出ないでください』
『窓から身を乗り出さないでください』
『先生の指示に従ってください』
――その“先生”の中に、ひとりだけ、空気の違う人物がいた。
葛原レア。
廊下の真ん中に立ち、教師の顔で、生徒に向けて優しい声を出している。
「落ち着いて。大丈夫。みんな、壁際に寄って」
言葉は優しい。
でも、目が違う。
ハレルを見ている。正確には――ハレルのバッグを。
ハレルは歯を食いしばり、レアの前へ出た。
「……お前、何を――」
レアが、ゆっくりと笑った。
その笑みは、教師のものじゃない。
薄い紙の仮面を外すみたいに、温度が落ちる。
「やっと、来たね。――ハラルくん」
周囲の生徒が「え?」と声を漏らす。
担任が顔を青くする。
「葛原さん、今は――」
レアは担任に視線も向けない。
右手を、軽く持ち上げる。
掌の上に、光が生まれた。
白く、薄く、それなのに鋭い光。刃の形に伸びていく。
「〈光刃・第三級〉――展開」
“先生の手”から、剣みたいな光の刃が伸びた。
その刃が、廊下のロッカーに触れる。
シュッ、と音がして、金属が紙みたいに裂けた。
一瞬の静寂。
次の瞬間、悲鳴が爆発する。
「うわあああ!」
「なにそれ!?」
「先生じゃない!!」
担任が震える声で叫ぶ。
「みんな、下がって!廊下の奥へ――!」
レアは、生徒の悲鳴を聞いても表情を変えない。
ハレルだけを見て、刃を少し傾けた。
「バッグ。渡して」
「……ふざけるな」
ハレルの胸元で主観測鍵が熱く脈打つ。
怒りと恐怖が混ざって、手が震えた。
レアは、小さく肩をすくめる。
「じゃあ――代わりに、ここにいる子たちからでもいい」
刃が、担任の足元の床をかすめる。
床が一筋、白く焼けたように裂け、生徒が後ろへ転んだ。
「やめろ!!」
ハレルが一歩前へ出る。
サキが、兄の袖を掴む。必死に首を振る。
止めたいのに、声が出ない顔だ。
レアは、森のほうへ一瞬だけ目を向けた。
窓の外。結界が光っているのが、こちらからでも分かる。
誰かが来た。
それを“感じた”顔だった。
「……来たんだ。あの人たち」
レアの声が、嬉しそうに冷たい。
「だったら、早くしないとね」
光刃が、ハレルの胸元――鍵へ向く。
そして、バッグへ。
ハレルの背中が凍る。
(狙いは、ユナのコア――)
廊下の奥で、誰かが泣き叫ぶ。
先生が必死に生徒を押し戻し、ドアを閉めようとしている。
でも、誰も状況を理解できていない。理解できるはずがない。
理解できているのは、レアと――ハレル、サキだけだ。
◆ ◆ ◆
【現実世界・学園跡地/森・外縁】
枝が折れた音は、近かった。
特殊部隊の銃口が一斉に向く。
森の影が揺れる。葉の間から、黒い塊がぬっと出てきた。
狼――に見える。でも、サイズが違う。
肩が、人の頭より高い。
背中の盛り上がりが、丸太みたいに太い。
口を開けると、犬歯がナイフみたいに白い。
「……ッ」
誰かが息を呑む。
木崎が、カメラを握り直した。
指が震えているのに、レンズだけは外さない。
城ヶ峰は低く言った。
「撃つな。まず距離」
狼は唸った。「グルルル……」
そして、地面を蹴った。
速い。森の土を抉りながら、一直線に来る。
「来るぞ!」
隊員が叫び、銃口が揃う。
でも城ヶ峰が手を上げた。“まだ”。
狼がさらに近づいた瞬間――
木崎の背中が冷える。(これ、止まらない――)
城ヶ峰が短く命じる。「――撃て」
銃声が森に裂ける。
乾いた音が連続し、葉が散った。
狼の体が跳ね、土に爪を立てて踏ん張る。
倒れない。
それが、怖かった。
「……効いてるのか!?」隊員の声が震える。
狼は低く唸り、今度は横へ跳んだ。
木の陰に隠れる。狙いが切れる。
城ヶ峰は前を見た。森の奥、木々の隙間。
確かに“建物”の影がある。石の塊みたいな輪郭。
「進む」城ヶ峰の声は硬い。
「中心を押さえる。理由は、そこにある」
木崎が息を吐き、カメラを構え直す。
「……マジで、現実かよ」
返事はない。森の中で、別の枝が折れた。
今度は、右。数がいる。
特殊部隊の隊形が、さらに固くなる。
一歩ずつ。森へ深く、入っていく。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/高等部・廊下】
光の刃が、バッグへ伸びる。
ハレルは、サキの手を握り返した。
逃げるか、守るか、選ぶ暇はない。
選べるのは――
「今、ここで奪わせない」
その一点だけだった。




