第八十九話 正門の外
【異世界・学園外周/正門前(森側)】
森の入口――いや、学園の「正門」が、そこにあった。
石の門柱。鉄の柵。校名のプレート。
それは確かに、現実世界の学園の正門と同じ形をしている。
違うのは、その外側が森で、内側に校舎が見えることだった。
門の内側――学園の敷地には、校舎も体育館もある。
ただ、グラウンドの白線は消え、
芝でもない草がところどころで伸びている。
“切り取られて、ここに落ちた”みたいに、境界がはっきりしていた。
「……ここが、俺の学園」
リオは息を整えながら、門の向こうを見る。
窓に人影がある。動いている。――生徒だ。
その視界を、黒い影が横切った。
グレイウルフ。
狼の形をしているのに、体が重い。
馬や牛より大きく、肩の高さが人の背を越えている。
口を開くたび、湿った息と、鋭い犬歯が見えた。
「グゥゥゥ……ッ」
低い唸り声が、胸の骨に響く。
一匹が前脚を踏み込み、土を抉った。地面が震える。
アデルが馬の首を撫で、短く言う。
「門の中には入らない。まず外を止める」
私、という一人称のまま、落ち着いている。
落ち着いているのに、刃だけが先に走る。
「分かった」
リオも頷き、口元のマスクを押さえた。
――ここで顔を見られたくない。まだ、名前は出せない。
イヤーカフから、ノノの声が飛ぶ。
『反応、多い。門の内側、走り回ってる。先生が封鎖してるみたい』
必要な情報だけ。声はいつもの速さだ。
『外周の境界、いま不安定。門を開けたら、
波が増えるかも。だから……外で止めたほうがいい』
「分かってる」
リオは門柱の陰に立ち、狼の動きを見る。
群れは“門”を避けるようにして、フェンス沿いに広がっていた。
まるで、門の内側へは“まだ入るな”と誰かに決められているみたいに。
次の瞬間、先頭の一匹が跳んだ。
「来る!」
部隊の槍兵が構え、穂先を前へ。
だが狼は槍を恐れない。勢いのまま体当たりしてくる。
リオは息を吸う。
難しい言葉はいらない。今は、押し返す力が必要だ。
「〈第四階位・風圧〉――風よ、押し返せ」
手のひらを突き出すと、門前の空気が一気にうねった。
見えない壁が生まれ、狼の突進を横から叩く。
狼が横へ滑り、土をえぐって転がる。
「ギャウッ!」
それでも立ち上がる。目が赤い。怒りだけで動いている。
「もう一回……!」
リオが踏み込みかけた瞬間、別の狼が横から来た。
アデルの剣が走る。
銀の軌道が弧を描き、狼の前脚を浅く切った。
血が散る。狼が吠え、群れが一斉に唸り声を上げる。
「グルルルル……!」
アデルは門の前――鉄柵の“外側”に馬を止めたまま、剣を構える。
「門は閉じたまま。ここで止める」
そして、短く詠唱した。
「〈結界・第二級〉――光よ、壁になれ」
剣先が淡く光り、門の前に半透明の板が立つ。
光の盾。風や土と違って、目で見て分かる“壁”だ。
狼が突っ込む。ドン、と重い音。
壁がしなる。でも、割れない。
「……効く」
アデルが息を吐く。
部隊の法術士が、すぐ隣で両手を地面に触れた。
「〈捕縛・第三級〉――土よ、足を縛れ」
門前の土が盛り上がり、泥の帯が伸びる。
それが狼の脚に絡みつき、動きを鈍らせた。
槍兵が間合いを詰め、槍を突き出す。
「下がって!」
叫び声と一緒に、槍先が獣の前へ滑り込む。
狼が槍先に当たり、唸りながら後ろへ下がる。
リオは門の向こうの窓を見た。
カーテンの隙間から、誰かがこちらを覗いている。
先生か、生徒か――判断はつかない。
でも、見られているなら、今のうちに“味方だ”と伝えたい。
リオは門柱の陰から一歩出て、声を張った。
「中の人! 門は開けなくていい! 中にいて!」
返事はない。
代わりに、校舎の中で小さな悲鳴が上がった。
(……中も限界が近い)
リオは歯を食いしばる。
外を止めても、内側が壊れれば意味がない。
イヤーカフに、ノノの声。
『リオ、アデル。門の内側、レアの反応が近い。たぶん、校舎の真ん中』
『気をつけて。こっちは……まだ繋ぎにくい。波が強い』
「……了解」
リオは声を落とし、もう一度、門前の狼へ目を戻した。
今は、ここを守る。
――門の外で。
◆ ◆ ◆
【異世界・学園/職員室】
職員室は、電話が鳴らない代わりに、声が鳴っていた。
「外が森って、どういうこと……」
「停電は戻りません! 通信も――」
「生徒が窓に近づいてます!」
教頭が机を叩く。
「全員、窓を閉めて!
カーテンも! 外を見るなって言ったでしょう!」
だが、言い終わる前に――外から、獣の声が響いた。
「グルルルル……!」
一人の若い先生が顔を真っ青にして、窓へ寄りかける。
「い、いま……何か、でかいのが――」
「見るな!」
別の先生が腕を掴んで引き戻す。
「生徒が真似したら終わる!」
職員室の窓からは、正門方向が少しだけ見えた。
鉄柵の外側で、誰かが戦っている。
馬。槍。剣。――映画みたいな光景。
「……あれ、誰ですか」
「警察? 自衛隊? でも……そんな格好……」
校長が震える声で言う。
「門は開けない。誰であっても、今は開けない」
「……生徒の安全が先です」
「でも、外にいる人が……!」
言いかけた先生の声は、また獣の衝突音で掻き消された。
ドン。
鉄柵の前に、光の壁が立ったのが見える。
“魔法”なんて言葉は、まだ誰も口にできない。
ただ、現実じゃないものが、現実の窓の外にある。
教頭が絞り出すように言った。
「……まず、封鎖を続けます。出入口は全部、鍵を掛けて」
「生徒には――“外に出ない”それだけを繰り返して」
職員室の空気が、少しだけ固まる。
決めなきゃいけない。今は判断が遅いほど危ない。
そして、誰かが小さく呟いた。
「……あの人たち、味方なんでしょうか」
答えは出ないまま、窓の外で狼が吠えた。
◆ ◆ ◆
【異世界・学園/高等部・廊下】
ハレルは走りたかった。
でも走れば目立つ。混乱の中で、目立つのは危険だ。
(ユナのコア……)
胸の奥が重い。
バッグの中にあるそれが、存在感だけで熱を持つ気がする。
廊下の窓から、正門のほうが見えた。
鉄柵の外側で、騎乗の兵が狼とぶつかっている。
その中に、マスクで口元を隠した少年がいた。
(……リオ?)
心臓が跳ねる。
顔は見えない。でも、動きが知ってる。
隣でサキが息を呑んだ。
「お兄ちゃん……外、あれ……」
「近づくな」
ハレルはサキの肩を引き、窓から離す。
それでも、耳には唸り声が入ってくる。
「グルル……ッ」
校内放送がまたノイズを吐く。
『生徒は廊下に出ないでください。教室に戻ってください』
震えている声。教頭だ。
その背後――廊下の曲がり角に、レアがいた。
教師の顔のまま、教師の歩き方のまま。
でも視線だけが、ハレルのバッグへ一瞬で刺さった。
(……狙ってる)
確信が、背中を冷やす。
レアは生徒に向けて穏やかな声を作る。
「みんな、教室に戻って。大丈夫。先生たちが守るから」
守る。
その言葉が、ハレルには逆に怖い。
レアの指先が、誰にも見えない角度で軽く動いた。
その瞬間、廊下の空気が一拍だけ冷える。
――外から来た“波”に、彼女が反応した。
(アデルたち……近い)
レアの笑みが、ほんの少しだけ深くなる。
ハレルはサキの手を握り、低く言った。
「……今は、教室に戻る」
「レアから離れる。外の人には……後で必ず繋ぐ」
言葉にしたのは、サキのためだ。
自分にも言い聞かせるためだ。
◆ ◆ ◆
【現実世界・学園跡地/正門前(森側)】
現実の正門は、残っていた。
門柱もフェンスも、そこにある。
だがその内側は、校舎ではなく森だった。
異世界の匂いがする湿った緑が、フェンスの向こうで揺れている。
城ヶ峰は部隊の後ろで、モニターを見ていた。
小型ドローンがフェンスを越え、森へ入る。
映像は最初、普通だった。
木々。土。影。
――次の瞬間、画面に白いノイズが走った。
「……またか」
オペレーターが歯を食いしばる。
「映像が――!」
音が潰れ、画面がざらつく。
ドローンの高度表示が跳ね、機体がふらついた。
ブツン。
映像が落ちた。
森の中で、何かに掴まれたみたいに、通信だけが切られる。
「回収できない?」
「戻りません。自律帰還が――効かない」
城ヶ峰は一瞬だけ目を閉じ、すぐ開いた。
「上から見えないなら、下から行く」
木崎がフェンス越しに森を睨んでいる。
顔色は悪い。だがカメラだけは握っていた。
「……入るのか」
木崎が低く言う。
「入らないと、何も掴めない」
城ヶ峰は即答した。
「学園は消えた。だが、“代わりに出てきた森”には理由がある」
「森の中心に建物がある。そこを押さえる。
――それが、今できる最善だ」
特殊部隊がフェンスの鍵を切る。
金属音が短く鳴り、門がわずかに開いた。
森の匂いが、すぐ目の前まで来る。
唸り声は、まだ聞こえない。
それが逆に怖い。
城ヶ峰が手で合図する。
「隊形を崩すな。木崎、お前は後ろだ。映像を取れ」
木崎は苦く笑って、頷いた。
「……分かってる。死にに来たわけじゃねえ」
一歩。
特殊部隊がフェンスの内側――森へ足を踏み入れる。
枝が、どこかで折れた。
全員の銃口が、同じ方向を向いた。




