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異世界殺人―クロスゲート・サスペンス―  作者: 橘靖竜
第七章 学園異世界転移編

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第八十五話 不敵な教育実習生


第七章 学園異世界転移編



【現実世界・都内/警察関係者向け医療施設】


消毒の匂いが、鼻の奥に残っている。

でも――この部屋の空気は、普通の病室より“重い”。


窓の外では、朝の車の音が流れていた。平日。通勤。いつものはずの音。

なのに、ハレルの胸の奥だけが、ずっと警戒したままだ。


ベッドの上で、日下部奏一がゆっくり瞬きをした。

まぶたが上がりきるまで、時間がかかる。目を開けても、焦点が合わない。


「……っ」

喉が鳴る。乾いた音。

ハレルは反射で一歩近づいて、それから止まった。

近づきすぎると、こちらが“確定”してしまう気がして。


枕元の椅子に座っていた木崎が、短く息を吐く。

「起きたな。……無理に喋らなくていい」

口はいつも通り乱暴なのに、声だけが慎重だった。


日下部の視線が、ハレルのほうへ滑ってくる。

その目が、何かを探している。

顔じゃない。名前でもない。もっと“座標”みたいなもの。


「……雲賀……」

日下部の唇がかすかに動いた。

「……匠……さん……」


ハレルの胸が、ひゅっと縮む。

父の名前。

ここで、その言葉が出ると思っていなかった。


「……知ってるのか」

ハレルの声が、自分でも驚くほど低かった。


日下部は、眉間に皺を寄せる。思い出そうとして、痛そうな顔になる。

「直接……じゃない……」

「会社……の、外……で……」

言葉が途切れ、指先がシーツを掴んだ。

「……“外から見てる人”……そう言われた……」


木崎が、鼻で笑う。

「外から見てる人、ね。あの人らしい言い方だ」


ハレルは何も言えなかった。

父の名前が出た事実だけが、胸の奥で熱になる。


その時、部屋の隅のテレビが小さく音を立てた。

ニュースのテロップが流れる。


――世界各地で「現実ではない景色」が目撃される件。

――路地の壁が一瞬、石畳に見えた。

――夜の窓に、知らない塔の影が映った。


画面の中の映像は荒く、誰も決定的な証拠を出せていない。

でも、ハレルは分かる。

“気のせい”で済ませていい段階は、とっくに過ぎている。


木崎がリモコンで音を落とした。

「今日、学校行くんだろ」


「……うん」


「ユナのコア、持ち番は?」


「今日は俺」


ハレルの足元のバッグ。

そこに、ユナのコアカプセルが入っている。

重さは変わらないのに、存在感だけが増していく。

まるで「ここにいる」と主張してくるみたいに。


日下部が、弱い声で言った。

「……気をつけて……」

「……向こうは……若い……のを……」


言い終える前に、日下部は苦しそうに目を閉じた。

木崎がすぐに看護師を呼びに行く。


ハレルは、バッグの肩紐を握りしめた。


(若いのを)

(……実験体)


胸元の主鍵が、ほんの少し熱を持つ。

合図みたいに。


◆ ◆ ◆


【異世界・王都/解析室】


薄暗い部屋に、青白い光が浮かんでいる。

紙でも石でもない、“数字の板”みたいな表示。

ノノ=シュタインの前に並ぶそれらは、刻々と形を変えていた。


「……んー、増えてる」

ノノが髪をかき上げる。顔は眠そうなのに、目だけが鋭い。

「一個二個じゃない。波が面で来てる。……嫌な広がり方」


イヤーカフ越しに、リオの声。

『今どこだ?』

『オルタスパイアの片付け中。アデルも一緒』


ノノは軽く頷く。

「王都。解析室。いつもの場所」


言いながら指先を走らせる。数字の粒が組み変わり、“一点”に集まった。


「ねえ、リオ。今、現実側の揺れが急に強くなった。人が集まる場所ほど反応が大きい」


『人が集まる場所……』


「うん。大きい建物。区画がまとまってる。そこが、引っ張られてるみたい」


イヤーカフの向こうで、アデルの声が重なる。

『引っ張られる……誰かが触っている可能性は?』


「高い。たぶん、“実験”の続き。……やめてほしいけど、やってる」

ノノは一拍だけ沈黙して、それから言い足した。

「セラ、聞こえてる?」


空気が少しだけ冷える。

答えは音じゃなく、気配で返ってきた。


ノノは息を吸う。

「じゃあ、こっちも準備する。リオ、アデル。

 今のうちに戻れる距離にいて。変化が来たら、たぶん一気に来る」


『分かった』


『私も同意する。こちらも急ぐ』


通話が切れる。


ノノは表示の一点を見つめた。

“そこ”は、まだ名前を持っていない。

でも、間違いなく――次の火種だ。


◆ ◆ ◆


【現実世界・学園/高等部・教室】


チャイムの音が、いつも通りに鳴った。

机の脚が床を擦る音。黒板にチョークが触れる音。

みんなの「おはよう」が、普通に飛び交う。


普通。

普通のはず。


ハレルは、バッグを机の横に置いた。

足で軽く寄せる。誰にも触れさせない距離。

心臓は落ち着かないのに、顔だけは平静を作る。


担任が教卓に立って言った。

「今日は教育実習生の先生を紹介します。

 葛原先生、どうぞ」


教室の扉が開く。

スーツ姿の女性が入ってくる。髪は整えられ、表情は柔らかい。


――“そう見える”だけ。


ハレルの背中に、冷たいものが走った。

目が、合った瞬間。

その視線だけが、場違いに鋭い。



「葛原レアです。よろしくお願いします」



教室が軽くざわつく。

美人。大人っぽい。そういう反応。

でも、ハレルには別のものが見えてしまう。


レアは黒板の前で、少しだけ首を傾けた。

そして――にこりと笑った。


「やあ、“ハラル”くん」


空気が、一拍だけ止まった。

誰も気づかない。

気づかないのに、ハレルの耳だけが熱くなる。


(今、わざと――)


“ハレル”じゃない。

“ハラル”。

異世界側で呼ばれた発音。

自分を揺らすための、針みたいな呼び方。


ハレルは笑わなかった。

驚きもしないフリをした。

机の下で、拳を握りしめる。


主鍵が、熱を増す。

じわり。

それは痛みじゃない。

「気づいてるか?」と問われているみたいな熱。


レアが、何事もなかったように視線を外す。

そして、黒板にチョークで文字を書き始めた。


そのチョークの音だけが、やけに大きく聞こえた。


◆ ◆ ◆


【現実世界・学園/中等部・廊下】


昼休み前。

サキは友だちの列の中で、いつも通りに歩いていた。

笑って、頷いて、普通に。


でも、胸の奥が落ち着かない。

理由が説明できない不安が、ずっと薄く張り付いている。


ふと、窓ガラスが小さく鳴った。

風は吹いていない。

なのに、コツ、と。


サキのスマホが、掌の中で震える。

画面が勝手に点いて、一行だけ浮かんだ。


《きょうは、ゆれる》


サキは息を呑む。

すぐに消えた。

でも、消えたほうが怖かった。


◆ ◆ ◆


【現実世界・学園/高等部・教室】


レアの授業は、妙に“丁寧”だった。

言葉は優しい。説明も分かりやすい。

けれど、ハレルだけは分かる。


――これは授業じゃない。

観察だ。

自分を測られている。


(ユナのコアがここにあること、バレてるのか)

(それとも――生徒のほう?)


窓の外の空が、一瞬だけ揺れた気がした。

陽炎みたいな揺れ。

でも、今日は冬のはずだ。そんな揺れ方をする温度じゃない。


教室の隅で、誰かが「今、見えた?」と小声を漏らす。

すぐに笑いに紛れる。冗談にされる。


ハレルは、笑えない。

バッグに視線を落とし、足でさらに引き寄せた。


その瞬間。

床が――ほんの一拍だけ、沈んだ。


地震の揺れじゃない。

“校舎そのもの”が、別の場所の重さを思い出したみたいな沈み方。


空気に、匂いが混じる。

土。湿った葉。

教室には絶対にない、森の匂い。


ハレルの喉が乾く。

レアが、教卓の前でこちらを見た。


目が合う。

レアは微笑んだまま、口元だけで小さく言う。


「――間に合う?」


声は、誰にも聞こえないくらい小さい。

でも、ハレルの胸には刺さった。


主鍵が、熱く脈打つ。

まるでカウントを始めたみたいに。


ハレルは息を吸い、机の下でスマホを握った。

(木崎さん……)

(ノノ……リオ……アデル……セラ……)


呼びたい名前が、頭の中で渋滞する。

でも今は、声にできない。


チャイムが鳴る直前。

窓の外の空が、もう一度だけ――揺れた。


今度は、揺れの向こうに“緑”が見えた気がした。


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