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異世界殺人―クロスゲート・サスペンス―  作者: 橘靖竜
第六章 奪われた座標

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第八十四話 目覚めた座標


【現実世界・警視庁協力病院/特別病棟】


消毒液の匂いが、鼻の奥に刺さる。

白い壁。白い天井。白いシーツ。

――白が多すぎて、逆に落ち着かない。


ハレルは、病室の外の椅子に座っていた。

背中が痛い。まぶたも重い。

それでも目を閉じたら、

あの“白い廊下”がすぐに来る気がして、閉じられなかった。


隣にいる木崎が、缶コーヒーを指で転がす。

「……聖環はダメだ」

低い声。いつもより、さらに短い。


「分かってる」

ハレルも短く返す。


聖環医療研究センター。

一見、立派で、最新で、安心できそうな“顔”をしている。

でも中身は違う。クロスゲート社の息がかかっている。

“守る場所”に見えて、“見張る場所”でもある。


だから木崎は、城ヶ峰に頭を下げて、ここを押さえた。

警察関係者が使う協力病院。

外からは見えない場所。

入口は二重の扉。廊下には私服の警備が立ち、カメラも増設されている。


「……起きると思う?」

ハレルが言うと、木崎は肩をすくめた。


「起きなきゃ困る」

それだけ言って、木崎は病室の扉を見た。


扉の向こう。

日下部奏一――“器”に戻った男が眠っている。


器。

言い方は冷たい。けど、今はそれが一番、正確だった。

あの身体は、いったん“別の何か”に使われかけた。

取り返したのは、時間との競走だった。


ハレルの胸元で、主観測鍵が熱い。

ずっと熱い。

まるで「まだ終わっていない」と言っているみたいに。


木崎が立ち上がった。

「……行くぞ」

看護師が合図して、扉が開く。


◆ ◆ ◆


【現実世界・同/特別病室】


心電図の電子音が、一定のリズムで鳴っている。

薄暗い部屋。

カーテンは閉められ、窓の外の街明かりだけが、細く漏れていた。


ベッドの上に、日下部がいる。

顔色はまだ悪い。頬はこけている。

それでも――胸が動いている。呼吸している。

“生きてる”という当たり前が、今は奇跡に見えた。


ハレルは、息を止めたままベッドに近づいた。

近づきすぎるな。

触れたら“確定”する。

頭のどこかが、まだそう言っている。


日下部の左腕には点滴。右手の指には酸素のセンサー。

そして、鎖骨の下に小さな痣。

そこに“何か”をはめ込まれた痕みたいな、不自然な色。


(……戻ったんだよな)

(コアは、ちゃんと――)


ハレルのバッグの中には、空になったコアカプセルが入っている。

従来どおり薄緑だったはずの光は、今はほとんどない。

ただ、底のほうに黒い粒が少し混ざって、

脈の残り火みたいに、途切れ途切れで揺れている。


「……まだ、残ってる」

ハレルが呟くと、木崎が眉をしかめた。

「残ってるっていうか、汚れてるっていうか……気分悪いな、それ」


その瞬間だった。

日下部のまぶたが、ぴくりと動いた。


ハレルの心臓が、跳ねる。

息が喉に引っかかって、うまく吸えない。


もう一度、まぶたが動く。

ゆっくり。重そうに。

そして――目が開いた。


焦点が合わない。

天井を見て、次に壁を見て、最後にハレルの顔へ。

そこで、止まった。


日下部の唇が、かすかに動く。

「……しろ……」

声になりきらない音。


「日下部さん」

ハレルは、自分の声が震えているのが分かった。

「聞こえる? 分かる?」


日下部は、喉を鳴らす。痛そうに。

「……白い……廊下……」

目が揺れる。

まるで、まだそこにいるみたいに。


ハレルの背筋が冷えた。

(戻ってきたのに、まだ……)


日下部が、ゆっくり首を動かす。

木崎のほうを見る。

次に、ハレルの胸元の鍵を見る。


「……雲賀……?」

その一言で、ハレルは固まった。


「……雲賀……」

目が揺れて、焦点が合い直す。

「……雲賀……記者の……息子、か……」


ハレルの喉が詰まった。


「……会社に……取材で……来てた……」

「……親しくは……ない……でも……見た……背中……」


木崎が、小さく舌打ちした。

「雑談はあとだ。今は、体のほう。おい、無理すんな」


日下部は、ベッドの柵を握ろうとして、指が震えて止まる。

自分の手なのに、自分の手じゃないみたいに。


「……俺……」

日下部の眉が寄る。

「……中……に……誰か……いた……」


ハレルの胃が、ぎゅっと縮む。

“別のコアを入れる”。カシウスの実験。

その途中まで、行っていた。


「でも、今は違う」

ハレルは言った。できるだけ、分かりやすく。

「日下部さんは日下部さんだ。……戻した」


日下部は、目を閉じて、長く息を吐いた。

泣いてはいない。

でも、泣くより重い表情だった。


「……ありがとう……」

かすれた声。

「……まだ……黒い……粒……が……」


ハレルは、バッグから空のカプセルを少しだけ見せた。

「残りかすみたいなのが……ここに」

日下部の目がそれを見て、ほんの少しだけ恐怖に揺れる。


そのとき、病室の扉がノックされた。


◆ ◆ ◆


【現実世界・同/特別病室】


入ってきたのは城ヶ峰だった。

スーツに、疲れた目。けど姿勢は崩れていない。仕事の人間の立ち方。


「起きたか」

短い言葉。感情を押し込めた声。

木崎が頷く。


「協力、助かった」

木崎が言うと、城ヶ峰は「礼はいらない」と首を振った。

「……この件、もう警察だけじゃ抱えられない。そう判断しただけだ」


城ヶ峰は日下部を見て、次にハレルを見る。

「雲賀……だな」

ハレルが頷くと、城ヶ峰はそれ以上深追いしなかった。


代わりに、メモを開く。

「佐伯蓮と村瀬七海。二人の今の状態を伝える」


名前が出て、ハレルの肩が少しだけ軽くなる。

生きている。助かっている。

――その確認は、何度でも必要だった。


「佐伯は、落ち着いてる。元が冷静なタイプだ。会話もできる」

城ヶ峰は淡々と言う。

「ただ、時々“白い廊下”の話を挟む。夢じゃない、と言い張る」


「村瀬は?」

ハレルが聞くと、城ヶ峰は少しだけ言葉を選んだ。


「村瀬は……明るく振る舞おうとしてる。けど、体は正直だ」

「寝る直前、手が震えることがある。目が覚めたとき、呼吸が乱れる」

「――それでも、二人とも生きてる。戻ってきてる」


木崎が、息を吐いた。

「……よかったな」

その声は、いつもより少しだけ柔らかい。


城ヶ峰はスマホを取り出し、ニュース映像を無音で再生した。

画面には、海外の街。人混み。

そして、道路の上に一瞬だけ映る“石畳みたいな影”。

次の映像では、空に細い光の粒が降っている。雨じゃない。雪でもない。


城ヶ峰が言う。

「異世界の兆候が、世界中で増えてる。隠せないレベルになり始めた」

「各国が“原因不明の空間異常”として発表してる。……が、現場は混乱してる」


ハレルは、画面から目が離せなかった。

自分たちだけの話じゃない。

世界が、同じ“ズレ”に触れ始めている。


城ヶ峰は、最後に別の映像を見せた。

防犯カメラの白黒。

人の流れの端に、黒い影が映っている。

フード。ローブ。顔が見えない。

でも――立ち方が、普通じゃない。空間に馴染んでいない。


「……不審者が、同じ夜に複数地点で映った」

城ヶ峰の指が止まる。

「移動の仕方が妙だ。車でも徒歩でも説明がつかない。

 ……映る場所が“つながってる”みたいに見える」


木崎が、笑ってない笑いを漏らす。

「つまり、また始まるってことだな」


城ヶ峰は答えない。

代わりに、日下部を見る。

「日下部奏一。……守る。だが、完全に安全だとは言えない」

「しばらくはここで匿う。外に出すのは危険だ」


日下部は、ゆっくり頷いた。

その目はまだ弱い。けど、“理解”だけは逃げていなかった。


ハレルは、胸元の鍵を握る。

熱が、少しだけ落ち着いた気がした。

――終わったわけじゃない。

でも、ひとつは取り戻した。確かに。


◆ ◆ ◆


【現実世界・郊外/夜明け前】


街灯の届かない道。

冷たい空気。地面の霜。遠くで犬が吠える。


黒いローブの影が、フェンスのそばに立っていた。

向こう側には、広い敷地。

低い建物の影と、揺れない木々。

まだ眠っている“日常”の匂い。


影は、手の中の小さな杭を落とす。

金属でも石でもない、黒い“何か”。

それが地面に触れた瞬間、赤黒い線が一瞬だけ走った。

まるで、地面の下の地図に、印を付けるみたいに。


ローブの奥で、口元だけが動く。

声は出ない。

けれど空気が、薄く笑ったように揺れた。


次の瞬間、線は消える。

何事もなかったように、世界は静かになる。


――ただ一度だけ。

遠くの空が、白く瞬いた。

雷じゃない。

“境界”が、まばたきした光。


◆ ◆ ◆


ハレルは知らない。

木崎も、城ヶ峰も、日下部も知らない。


けれど世界は、もう動き始めている。

日常のほうが、戦場へ寄ってくる。


朝が来る。

その前に――座標が、もう一度ずれる。



第六章 奪われた座標――了


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