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異世界殺人―クロスゲート・サスペンス―  作者: 橘靖竜
第六章 奪われた座標

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第八十三話 奪われた座標、その先へ

【同調空間・オルタリンクタワー/中枢区画】


――音が、戻ってきた。


白い廊下の“乾いた静けさ”とは違う。

金属が鳴る音。遠い警報。どこかで機械が唸る気配。


ハレルは息を吸って、胸の奥を確かめた。

肺に入る空気が冷たい。現実の匂いがする。

けれど――壁の質感は石に近く、床の模様は異世界の塔で見た線に似ている。


「……戻った、のか……?」


サキが小さく頷く。

頷きながら、怖さを誤魔化すみたいに唇を噛んだ。

セラは一歩ぶん距離を取り、視線を奥へ向けている。

いつものように“触れない距離”だ。


その奥。

赤黒い紋が走る床の中心に、金属の台座があった。


そして――そこに、日下部の“器”。


横たわっているのは、青年の身体。

眠っているみたいに静かで、でも胸は上下していない。

呼吸の気配がない。


(……日下部さん)


ハレルの喉がきゅっと縮む。

ここまで来た。ここまで来たのに、怖い。


バッグの中で、コアカプセルが弱く揺れた。

薄緑。いつも通りの色なのに、今日は薄い。

黒い粒が混じって、脈が――一拍だけ、途切れかける。


「……急いだほうがいい」


セラの声は落ち着いている。けれど、急ぎを隠さない声だった。

ハレルは頷いて、カプセルを取り出す。


透明の容器の中で、薄緑の光がかすかに波打つ。

いつもなら、目を合わせたみたいに返ってくる脈がある。

今は――遠い。


サキがそっと言う。

「……お兄ちゃん。日下部さん、ここにいるのに……“引っ張られてる”」


「うん。だから、戻す」


ハレルは器の胸元へ手を伸ばした。

器の胸には、円形の“口”がある。

コアを収めるためのスロット。

そこだけが不自然に新しくて、異物みたいに輝いていた。


(カシウス……)


喉の奥で名前が熱くなる。

怒りと、焦りと、怖さが混ざる。


そのとき。


床の赤黒い線が、どくん、と鳴った。

心臓みたいに。


同じ瞬間、空間の端が“割れた”。


白い光の裂け目の向こう――

塔の地下、基礎区画。

そこに、リオとアデルの姿がはっきり見えた。


「……っ」


リオも気づいたのだろう。こちらを見て、目を細める。

薄い、ではない。

同じ場所にいるみたいに近い。距離の感覚が、ぐにゃりと曲がる。


アデルが剣を構えたまま、短く言う。

「……同じ空気だ。危ない匂いがする」


リオが息を吐く。

「ハレル。そこ、日下部……?」


「今、戻す!」


ハレルは答えながら、手を止めない。

カプセルの端をスロットに合わせる。


その瞬間、サキのスマホが震えた。

勝手に画面が点く。


《……急いで》

《脈が切れる前に》

《“戻す”のは、今だけ》


短い言葉。説明はない。

でも、怖いほど“今の状況に合っている”。


「……これ、ほんとに……お父さんが……」


サキが呟いた。

ハレルは答えない。答える余裕がない。


――カプセルが、はまる。


カチン、と小さな音。

機械の音じゃない。骨が収まる音みたいな、嫌な確定音。


次の瞬間。

薄緑の光が、器の胸に流れ込んだ。


(……入った)


ハレルの視界が一瞬だけ白くなる。

白い粒。数字みたいな光。

そして――焦げた匂い。


耳の奥で、誰かが“息を吸う”音がした。


器の胸が、わずかに上下する。

一回。二回。

浅い呼吸。


「……っ」


サキが息を呑んで、ハレルの袖を掴んだ。

握力が強い。怖いのに、離さない。


リオのほうから、ノノの声がイヤーカフ越しに入った。

【異世界・王都/解析室】にいるはずのノノ。

声だけが、ここに刺さる。


「……値、戻ってきてる。固定の線が、ちゃんと繋がった」

少しだけ、ほっとしたみたいな間。

「でも、完全じゃない。黒いノイズが混じってる。

 ……器が“向こう”に引っ張られた癖、残ってる」


アデルが眉を寄せる。

「癖、って……このままだと、また取られる?」


ノノはすぐ答える。

「可能性はある。だから、ここから先は“守り方”が必要になると思う。

 ……今は、まず離れて」


セラが一歩前に出る。

「来ます。――“実験の続き”をしたい人たちが」


彼女の視線の先。

金属の壁の継ぎ目が、ぬるりと歪んだ。


黒いローブ。

顔が見えない。

でも、こちらを見ているのが分かる。


そして――背後の空気が、冷たく笑った。


(カシウスじゃない。手下だ。でも、近い)


リオが低く言う。

「……時間稼ぐ。ハレル、動ける?」


「動ける」


ハレルは器――日下部の身体を抱え上げた。

重い。人の重さ。

その重さが、なぜか少しだけ嬉しい。


「サキ、離れないで」


「うん」


サキは頷いて、日下部の腕が落ちないように支える。

震えているのに、手つきは真剣だった。


アデルが剣を横にして立つ。

「私が前に出る。……セラ、道、分かる?」


セラは迷いなく頷いた。

「こちらです。白い廊下へ戻る道――まだ残っています」


黒ローブが動く。

床の赤黒い線が、再びどくんと鳴る。


その瞬間――同調空間の“壁”が揺れて、現実のタワーの配管が見えた。

次に、異世界の石壁が見えた。

世界が、交互に瞬く。


(……これ、ニュースになるやつだ)


ハレルは頭の隅で思いながら、走った。

セラが先導する。

アデルとリオが左右で黒ローブを止める。

サキは歯を食いしばって、日下部の身体を支える。


白い廊下の入口が見える。

あの“影が存在できない白”。


ハレルは最後に一度だけ振り返った。

黒ローブの奥に、もう一つ影がある気がした。

背が高くて、輪郭がやけに“確定していない”影。


(……見ない)


見たら、固定される。

セラが何度も言ってきたことだ。


「行く!」


ハレルは白に踏み込んだ。

日下部の呼吸が、腕の中で小さく震えた。


◆ ◆ ◆


【現実世界・市内倉庫/木崎の臨時拠点】


倉庫は寒い。

コンクリの床から冷えが上がってくる。


木崎はパイプ椅子に座り、机代わりの段ボールの上でノートPCを開いていた。

片手には紙コップのコーヒー。もうぬるい。


隣の棚――布で覆ったケースの中に、ユナのコアがある。

不用意に見ない。触れない。

でも、存在は忘れない。


(錨、ってのはこういうことかよ)


木崎は舌打ちしそうになって、飲み込んだ。

代わりに、画面のニュースサイトを更新する。


「……まただな」


地方の交差点の監視映像。

一瞬だけ、石畳みたいな影が映る。

通行人が「あれ何?」と指をさして、でもすぐ消える。


現実が、揺れている。


木崎のスマホが鳴った。城ヶ峰からだ。


「……よう」


『木崎さん。今、少しだけ見てほしい映像がある』


「映像?」


『防犯カメラだ。場所は――雲賀の学校の近く』


木崎の眉が動く。

「学校?」


『断定はしない。だが、変だ。……人の動きが、普通じゃない』


城ヶ峰の声は落ち着いている。落ち着いているのに、硬い。

木崎は椅子から立ち上がり、倉庫の扉を少しだけ開けた。


外の空気は冷たい。遠くでサイレンが鳴っている。


『黒いフード。二人。顔は見えない。

 だが……カメラの死角の使い方が上手すぎる』


「プロかよ」


『それと――一瞬だけ、画面が白く飛んだ。照明じゃない。ノイズだ』


木崎は唇を引き結ぶ。

“白”。境界の色。


「……分かった。こっちも手を離せない状況だ。

 映像、送ってくれ。俺もこっちの線で当たる」


『頼む。こちらも追う。……何か分かったら、すぐ連絡する』


「ああ、頼む」


木崎は電話を切り、棚の布に目をやる。

覆われたケースの中――“錨”にしているものが静かにそこにある。


(……ハレル。無事で戻れよ)

心の中で言って、木崎は机に戻った。

次に打つべき記事のタイトルじゃない。

でも、言葉にしないと落ち着かない。


◆ ◆ ◆


【現実世界・市内/城ヶ峰の車内】


城ヶ峰は車内のモニターに映る映像を止めた。

学校の裏通り。人通りの少ない時間帯。


黒いフードの人物が、角で立ち止まり、空を見上げた。

ただそれだけ。

なのに――次のフレームで、画面が白く飛ぶ。


「……偶然じゃないな」


城ヶ峰は小さく呟き、ハンドルを握り直した。

まだ、確定はできない。

確定した瞬間に、相手に“見られる”気がする。


(だが、近い)


城ヶ峰は車を発進させる。

学校の周辺。

そして、街中の“境界ノイズ”。


どれも、一本の線で繋がりそうで――繋げたくない。


◆ ◆ ◆


【同調空間・白い廊下/出口付近】


白い廊下の先。

現実の通路の影が見える。


セラが振り返り、静かに言った。

「日下部さんは“戻りました”。……でも、これで終わりではありません」


白い廊下の出口――現実の通路の影が、はっきりしてくる。

同時に、背後の空気が、異世界の冷たさに寄り戻っていった。


石の匂い。遠い鐘。赤黒い脈。


振り返ると、裂け目の向こうにリオとアデルがいた。

同じ空間にいたはずなのに、境界が“仕事を取り戻す”みたいに、

二人を向こう側へ押し戻していく。


「……っ」


サキが息を詰める。

ハレルは日下部を抱えたまま、一歩だけ戻りかけて――踏みとどまった。


リオが先に口を開く。声は焦っていない。焦りを飲み込んでいる声だった。

「ハレル。そっちは、連れて帰れ。……日下部、呼吸してるの見えた。よかった」


「お前らも――」


言いかけたハレルに、アデルが小さく首を振る。

「私は大丈夫。向こう(異世界)で、まだやることがある」


剣を持つ手が、ほんの少しだけ緩む。

戦いの手じゃない。別れの手。


サキが、堪えきれずに言った。

「……また、一緒に……なれるよね」


リオは一瞬だけ笑う。

「なる。――次は、こっちから行く」


その言葉が、約束になる前に。

裂け目が狭まり、二人の輪郭が石壁に吸い込まれていった。


「リオ! アデル!」


ハレルの声は、白い廊下に吸われずに残った。

けれど返事は、もう届かない距離だった。


――そして、セラ。


セラは出口の手前で立ち止まり、ハレルとサキを振り返った。

白い衣装の裾が、風のない廊下で静かに揺れる。


「ここから先は、現実の道です」

声は柔らかい。けれど、決めている声だった。


「セラ……一緒に――」


サキが言いかける。

セラは首を横に振る。


「私は“橋”です。橋は、向こう側に渡りきれません」

視線が、日下部へ落ちる。

「でも、戻せた。――あなたたちが、同じ歩幅で来たからです」


ハレルの胸元で主鍵が熱を増した。

セラの輪郭が、少しずつ白に溶けていく。


「次に扉が開く時、また会えますか」


ハレルの問いに、セラは小さく微笑んだ。

「会えます。……そのために、私はここにいます」


最後に、サキのスマホが一度だけ震える。

画面に短い一行。


《戻した。次は――守る》


セラの姿が、光の粒にほどける。

消え方は、逃げじゃない。役目を果たした人の消え方だった。


ハレルは前を向いた。

現実の通路へ、一歩。


奪われた座標を取り戻した、その先へ。

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